批評や創作の現場で、言葉にひそむ真理と物語構造を解き明かしてきた小原眞紀子。単に物語を楽しむ読者とは違う「創作者ならではの読み」を提示し、表現のヒントをひもとく。取り上げるのは、まさに創作の副読本(サブテキスト)となる古今東西の作品。必ずしも名作ばかりではないかもしれない、だからこその書き手を刺激する厳選レビュー。ページをめくり、創作のヒントを掴もう。あなたの物語に、新たな発想のスパイスを添えて。
by 金魚屋編集部
澁澤龍彦という名前を聞いて、ある種の、もしかするとややナイーブな人々がちょっと背筋を伸ばす一連のシリーズ。「ビブリオテカ澁澤龍彦」。このシリーズを知ったのは、大学生になってサークルの先輩に教えてもらったときだ。高校までの「国語」とは違う「文学」というものがあるのだと思った。教科書に載っている文学はどこにも非のない、すなわち読んでも読まなくても誰も困らないのに、立派な存在理由だけを掲げているものだ。だが澁澤とは、サド、ブルトン、マンディアルグ、ユイスマンス、錬金術や幻想の博物誌といった、ある意味ほとんど理由のない存在の堆積だった。
「ビブリオテカ」とは、ラテン語系の語で「書庫」「図書館」を意味する。澁澤龍彦が生涯をかけて翻訳し、紹介し、論じた作家や主題を、その書庫から取り出して並べてみせる、というのがこの叢書の趣。マルキ・ド・サドの翻訳者として知られ、裁判にまで発展した事件の当事者でもある澁澤は、日本にフランスの異端文学、幻想文学、エロティシズムの系譜を根づかせた人物である。魔術、悪魔学、錬金術、ヨーロッパの奇書や偏執的な蒐集家たち。そうしたものを、彼は学者の手つきではなく、愛玩者として差し出す。
そのときわたしが受け取ったものは、やはり「偏愛」という概念だろうか。無難でどこにも非のないものではなく、理由のない情熱を傾けているもの、そうでなければならないということを、汚くて狭い文学サークルの部室で感じた。湿った埃、煙草の匂いと、廊下の先から聞こえてくるもの悲しいトランペットの音。思えばあの頃の「文学」にはふさわしい場所だった。大人になったなー。今なら文学に場所は関係ない、と言えるが。

そこは前の一万円札の人が創った大学の部室だったけれど、澁澤龍彦は現在の一万円札の顔の渋沢栄一を遠戚とするお坊っちゃまである。文学の怪しい乱雑さ、猥雑さ、いかがわしさとは縁遠くあり得たし、そうあるべきだったかもしれない。それが、かえってというべきか当然というべきか、異端と偏執の世界に情熱を傾け、またそれを説得力をもって伝えることができた。それは紛れもなく一種の「技術」であり、人格の「形式」であった。
しかしそういう文学者が、今の若い人たちから出ることがあるだろうか。安全な場所から、評価ばかり求める形で、無難に整えられた「好き」を発信することには、誰もが長けている時代だ。それゆえ澁澤的なものへの憧れも強くあるだろうけれど、一方で自分の足場を危うくするほどの偏愛を、他人にまっすぐ伝わる文体で語る人は、いつだってそうはいない。だからそれを言い出すのも、年齢のせいと言われればそれまでだが。
創作者にとって偏愛とは、理解されようとしないことではない。理解されないかもしれない危険を引き受けたうえで、なおかつ相手に届く言葉を探し続けることだろう。澁澤の文章が今も忘れられることなくあるのは、その危険と技術との均衡が見事だからだ。
何より、あのシリーズが与えてくれたのは、未知なるものの豊かさだった。今よりもはるかに何もわかっていなかったけれども、文学とその背後の香り高い文化は、茫洋とした海のように目の前に広がっていた。どこへ漕ぎ出せばいいのかわからない、それでも海があるという事実だけでそのときは十分だった。わからないことが豊かさである、そういう時期が人にはある。その感覚を思い出させてくれる書物が存在するというのは、ほとんど幸福と呼んでいい。
あの部室はもうないし、もともと相貌失認症ぎみなので、先輩たちの顔もおぼろげである。当の「ビブリオテカ」も今では絶版で、古本で探すしかないようだ。ただ、そうして出会い直すこと自体、あの頃の続きのように思える。部室の面々は忘れても、その背表紙は今も書庫の闇に浮かび上がる。
※「ビブリオテカ」は、白水社から刊行された「ビブリオテカ澁澤龍彦」シリーズ。
小原眞紀子
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