
いろんなエッセイや評論で文学は綜合的に捉える必要があると書いて来たが、それにはいくつも理由がある。最も大きな理由、言い換えると社会的な理由は高度情報化社会である。特定の個人やグループに情報が囲い込まれていた時代は終わり、わたしたちは日々膨大な情報に接している。そして情報は意外なところで結びつく。その縦横無尽な結びつきが新たな発想や創作の原動力になる。官庁縦割り行政のような短歌、俳句、自由詩、小説の専門誌(もっと言えば業界誌)の時代は終わってゆくだろう。〝壇〟(特定文学業界)にしがみついていると作家の創作寿命も尽きるということである。ただ文学を綜合的に捉えるためにはそれぞれのジャンルの原理を把握する必要がある。
ところで日本経済は斜陽だ。円は劇的に安くなりGDPなども下がっている。一方で国が政治・経済的繁栄期を過ぎるとそれに反比例して文化が隆盛してゆくことが多い。第一次世界大戦後のヨーロッパがそうだった。二十世紀最大の文化動向であるダダ、シュルレアリスム、実存主義、ポストモダニズムなどは第一次世界大戦後のヨーロッパで生まれた。世界の第一線から滑り落ちた国では〝わたしたちは何者なのか、わたしたちの文化の核心はどこにあるのか〟といった問いかけが起こるからである。日本はそういう時期に入った。日本文化の本質を曖昧な「侘び寂び」と呼んで済ましていた時代は終わりそれを論理化して世界に発信する時代が来る。また日本文化を相対化するための外からの視線(情報)はありあまるほどある。
もちろん文学史上に名前が残る優れた作家たちはそれぞれのジャンルの本質を直観把握していた。ただ日本文化をほぼ完全に相対化して捉え表現するには時間が足りなかった。文学を含め日本人が明確な概念定義と論理的思考方法から成る、いわゆる〝世界的普遍者の言語〟を学び取り入れたのは明治維新以降である。維新から現代までは一五八年でじゅうぶんな時間があったと言えそうだが一直線には続かなかった。太平洋戦争敗戦があり戦前と戦後文学の間に段差が出来てしまった。
明治維新以降日本はずっと欧米コンプレックス文化だった。新たな文化は常に欧米から入ってきてそれらはたいてい無批判で受容された。その澱のように溜まったフラストレーションが戦前・戦中の常軌を逸したような国粋主義(皇国主義)の原因になったのは間違いない。敗戦の衝撃もあり戦後はさらに欧米コンプレックスが強まった。吉本隆明は新奇な欧米文化に飛びつきそれを自己の思想のように喧伝する知識人たちを〝知の密輸業者〟と呼んで揶揄したが欧米コンプレックスが解消され始めたのは一九九〇年代で、ほぼ霧散して日本と欧米が文字通り肩を並べたのは二〇〇〇年代に入ってからである。
近・現代日本文学で大きな山となるのは明治維新と太平洋戦争敗戦である。比較的記憶が新しい敗戦が注目されることが多い。しかし近・現代最大の変化は間違いなく明治維新である。短歌・俳句では正岡子規が、自由詩では萩原朔太郎、小説では夏目漱石や森鷗外らが近代文学の祖だが戦後文学は基本的に彼らの仕事の延長線上にある。そして近・現代文学の創始者たちの知は江戸的知と大量流入した欧米的知の混交で作り上げられている。わたしたちは江戸と明治の間に一本の明確な断絶線を引くような認識に慣れている。だがそうではない。日本文化の本質を捉えるためには江戸と明治を地続きで捉える必要がある。
さて、今回取り上げるのは辻原登[選]『与謝蕪村』。平成二十八年(二〇一六年)河出書房新社刊行の日本文学全集12『松尾芭蕉 おくのほそ道/与謝蕪村/小林一茶/とくとく歌仙』(池澤夏樹個人編集)の巻のために辻原さんが書き下ろした部分の文庫化である。
辻原さんは僕が最も敬愛する小説家の一人である。『与謝蕪村』は辻原登[選]とクレジットされており蕪村俳句の評釈という体裁になっている。しかし俳人が書くような単調な評釈ではない。辻原さんは本質的にポストモダン作家だ。複数の知が空虚とも言えるような彼の作家的身体に流れこんでいる。そこには江戸の時間も含まれる。辻原さんには江戸と維新以降の文学を裁断して捉えるような姿勢がない。『与謝蕪村』は本業小説家の作家がその綜合的知の中に俳句(詩)を取り入れようとした優れた著作である。
菜の花や月は東に日は西に 『句集』一七七四年(安永三)
菜の花の種(菜種)から搾る菜種油は当時のエネルギー源。淀川両岸を中心に畿内一体は三月から四月にかけて菜の花に埋め尽くされた。
この頃(十八世紀後半、一七七六年四月)、長崎から江戸へ向かうオランダ商館長一行の中にスウェーデンからやってきた博物学者ツュンベリーがいて、淀川沿いの田園に広がる菜の花一面の光景に讃歎の声を上げている。
当時、大坂から江戸へ八万樽以上の油が檜垣廻船で運ばれた。一樽は七十二リットル。「油を売る」は、菜種油の行商の最中に台所などで話し込んでしまうことから。近松門左衛門の『女殺油地獄』は、大坂の油商豊島屋を舞台とした男女の愛憎劇。大量の油がこぼれる中での殺人。
菜の花や和泉河内へ小商
また畑の搾り滓は干し鰯とともに、最も重要な肥料だった。
「菜の花」の句は、前の「おぼろ月(壬生寺の猿うらみ啼けおぼろ月)」の艶から脱して、世界を広角に捉え、展開する。東に出る白く大きな月、西に沈みかけた太陽。月から太陽へ、東から西にかけての地球規模の時空がある。しかも、この時空は刻々と動き、変化する。
東の野に陽光の立つ見えてかへりみすれば月傾きぬ
柿本人麻呂
『万葉集』巻一・四八
蕪村はこの人麻呂の歌を反転させたのである。
「菜の花」の句の光景に、「春の海終日のたりのたりかな」を重ねてみる。菜の花畑が瀬戸内海の海に変貌する。
瀬戸内海は、地球上で最も温暖、風光明媚な地中海(Mediterranean Sea)であり多島海(Archipelago)である。
家々や菜の花いろの燈をともし
蕪村より二百年後、瀬戸内海の詩人木下夕爾(一九一四―一九六五)にこの句がある。
春の海終日のたりのたりかな
『自筆句稿』一七六三年(宝暦一三)以前
地中海(瀬戸内海)に浮かぶ無数の島々が船のように静かなうねりに揺られている。
辻原登[選]『与謝蕪村』「春」より
蕪村「菜の花」から始まる『与謝蕪村』「春」の記述だが、評釈の形を取りながら辻原さんが小説を書くことを強く意識していることがわかる。「菜の花」の句は当時の菜種油商売のネットワークにまで伸び博物学者ツュンベリーや近松の『女殺油地獄』に繋がる。網の目のように張り巡らされた当時の商業圏の中に「菜の花」の句が置かれ客観美と艶と学問と殺人がひと続きになった。また時間を溯って木下夕爾の句「家々や菜の花いろの燈をともし」から古代『万葉』人麻呂の「東の野に」の和歌が想起される。「春の海終日のたりのたりかな」の句と重なり合い凪いだ瀬戸内海が地中海のイメージを生む。現代小説も時代小説も書く辻原さんは自在に過去文学作品を繋ぎ合わせそこから創作のヒントを得ている。どこからでも物語(小説)を書き起こせるのだ。『与謝蕪村』は蕪村俳句の評釈の形を取ってはいるが辻原さんのメタ小説として読むことができる。俳人が書く俳句一辺倒の蕪村評釈より遙かに面白い。視野の広さがまったく違う。俳句に専心すれば理解が深まるというのは間違いだ。大きな世界の中に点のような俳句を置いて遠くから眺めた方が本質を把握しやすい。
「全集版あとがき」で辻原さんは「「蕪村」がただ好きなだけで、折にふれて句集を繙き、画集を眺めて、暢気に過ごしてきた」と書いておられる。「暢気」というのはちょっとした韜晦で彼はいつもネタを探している。本気で蕪村を読み込んでいたことがわかる。ただそこには人間の姿がなければならない。その一点が彼の小説家としての執着だ。それが蕪村の全体像把握をもたらしている。『与謝蕪村』は「夜半亭饗宴」の総題の元に「春/夏/新花摘/秋/冬/春風馬堤曲」の部立で構成される。蕪村を突出した俳句作家にしたのは「新花摘」と「春風馬堤曲」だ。それを正確に押さえている。蕪村という俳人の生の軌跡とその理解が部立に反映されている。
天明三年(一七八三)十二月二十五日未明、蕪村は不帰の客となった。六十八歲である。
十二月二十四日の夜、
病体いと静に、言語も常にかはらず。やをら月渓をちかづけて、病中の吟あり、いそぎ筆とるべしと聞るにぞ、やがて筆硯・料帋やうのものとり出る間も心あはただしく、吟声を窺ふに、
冬鶯むかし王維が垣根哉
うぐひすや何ごそつかす藪の霜
ときこえつゝ猶工案のやうすなり。しばらくありて又、
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
こは初春と題を置べしとぞ。此三句を生涯語の限とし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり。
第三句
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
『から檜葉』一七八三(天明三)
しかし、私はさらに次の句を最後に置いてみたい。
いざや寝ん元日は又翌の事
『自筆句帳』一七七二年(安永元)か
同「冬」より
『与謝蕪村』「冬」の巻の終わりは蕪村辞世の「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」である。ただ辻原さんは「私はさらに次の句を最後に置いてみたい」と前書きして「いざや寝ん元日は又翌の事」で締めておられる。『与謝蕪村』は春夏秋冬の部立に沿っているが春に戻る。永劫回帰する。これは優れた俳句理解だ。俳句が表現しているのは循環的かつ調和的世界観だからである。
俳句の基盤を盤石にしたのは言うまでもなく芭蕉である。日本文学(文化)で一人で新しいジャンルを確立した作家は芭蕉のほかに世阿弥、利休くらいしかいない。そして能楽では世阿弥が、茶道では利休が絶対的に正しいように芭蕉はたいてい正しい。芭蕉が口にして弟子によって伝えられた俳論もまず間違いなく正鵠を得ている。
ただ芭蕉文学には混ぜ物が多い。彼は稀代の散文家でもあった。当時「岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土砂老て苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ」(『おくのほそ道』)といった難解な漢文混じりの雅文を書くことができたのは芭蕉ただ一人である。それは滑稽諧謔として始まった俳句を高度な文学に高めるために必要な作業だった。芭蕉は強く悠久の観念を示唆する漢文体雅文の中にか細く無常な俳句を織り込むことでその文学的効果を劇的に高めた。しかし正岡子規が指摘したように散文の鎧を剥ぎ取り虚心坦懐に芭蕉句を読めば意外なほど名句秀句は少ない。芭蕉が神格化されたのは芭蕉以降の俳人たちがその散文と俳句を一体化させて句を深読みして拡大解釈していったからである。
散文の鎧(夾雑物)を纏わない発句――すなわち現代にまで続く俳句の基礎を作ったのは蕪村である。子規が自分たちは天明蕪村派の俳句を一歩先に進めただけだと書いた通りである。俳句の理解を深めたいのなら蕪村理解は必須だ。蕪村俳句や俳論を読めば芭蕉より遙かに正確に俳句とは何かを把握できる。蕪村全集を頭から尻尾まで読むのが理想だが辻原さんの『与謝蕪村』を入り口にしてもいい。勘のいい読者なら俳句という枠組みに囚われず二十一世紀にどのように古典文学を読めばいいのか、その切り口も学べるはずである。
鶴山裕司
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