
だいぶ長いこと外資系企業に勤務する純粋読者、佐藤知恵子名で大衆小説批評を連載していたがあれはあれで便利だった。なにが便利かというと、男性作家にも女性作家に対しても好きなことが言えた。やはり性別男だと、女性作家の作品に対して厳しい批評を書きにくい。おっとこのクセにグチャグチャ言いやがってと陰口叩かれるんだろうなーと思ってしまうのだ。テレビでトランスジェンダーが持て囃される理由がよくわかる。女性のファッションや化粧、言動を批判しても笑ってもらえる。男目線を棄てておらず、なおかつ女の気持ちもわかるわけだからそれなりに鋭い指摘ができる。男が同じことを言っても反感を持たれるだけでしょうな。
昔の文学批評は思ったことをズケズケ言い合っていた。芥川龍之介は純文学の最高峰(と思われている)芥川賞で有名になったためかどの作品も素晴らしいといった幻想がある。が、んなことあるわきゃない。芥川は谷崎と論争したが、谷崎が「おめぇ、小説のプロット(起承転結の物語)も立てられねぇくせによぉ」と揶揄したところで芥川が自殺して尻切れトンボになった。後期芥川は私小説になっていったわけだが煮え切らなかった。身勝手で我が儘な私の自我意識の苦悩(地獄)を徹底して描いたという意味で葛西善蔵や藤澤淸造の方が遙かに上だ。もちろん芥川と谷崎は憎み合っていたわけではない。少なくとも谷崎は論争を楽しんでいた節がある。
寺山修司と嶋岡晨は短歌の自我意識などを巡って論争したが、論争が始まってすぐに寺山が嶋岡を呼び出した。なんだなんだと思って嶋岡が指定された喫茶店に行くと、寺山がニコニコしながら「できるだけ論争引き延ばして原稿料稼ごうぜ」と言ったと嶋岡が書いている。なあなあにしようと持ちかけたわけではない。論争自体は両者とも大真面目だったが意見が対立する他者を怖れず、喧嘩腰に見えてもそれを楽しむ余裕があった。
ヒドイ例でいうと同人誌「荒地」がある。鮎川信夫が「荒地」は相互批評集団、悪く言えば互いの悪口集団だったと書いている。同人たちといっしょに電車に乗ったが一人降りるたびにそいつの悪口が始まり、最後に残った二人がハッとそれに気づいて黙り込んでしまったそうな。学生気分が抜けずなんの社会的利害も持たないまま密に付き合っていると、相手の性格を含めて底の底までわかる。作品は個が生み出すものだから作家の資質や性格と無縁ではない。露骨で厳しい仲間内の批評に耐えた者だけが戦後詩を代表する詩人になっていったわけだ。
こんなことを書いたからと言って昔はよかったと言っているわけではない。なぜ文学の世界から厳しい批評が消え去ったのかを考えている。いまの文学批評はおおむね誉め合いだ。せいぜいやんわり誉めてやんわり疑問を呈すくらい。ヒドイのになるとあからさまな誉め合いで、キミのを誉めたんだから俺の私のも誉めてよのWin-Winを期待している。難しげないわゆるポストモダニズム批評も同類だ。蓮實―柄谷以降、ポストモダニズム批評は文学作品をダシにしてしょーもない批評家の思想やご意見を書き連ねる創作批評になったが作家は読みゃしない。読んでも創作の役に立たないからだ。作家も批評家も自分が目立つことで頭がいっぱいだ。
明治維新を境に日本文学は近代化(欧米化)されたが戦前まではまだ江戸的結社や師弟制度が残存していた。紅葉の硯友社や鉄幹・晶子の「明星」(東京新詩社)、子規根岸短歌会、白秋の巡礼詩社などが有名だ。透谷、藤村の文學界(今の文學界とは別)、犀星と朔太郎の感情詩社もありましたな。詩人・小説家を問わず先輩作家に師事した例は多い。なぜそんなことが起こったのかと言えば文学の世界が今よりうんと狭く、先に文壇デビューした作家たちの元に情報が集中していたからである。当時の作家たちの雑文を読むと多士済々の人たちが結社等々に出入りしている。また先輩作家たちは実にこまめに後進作家の面倒を見た。鉄幹のように弟子の白秋らに露骨に見切られる作家もいましたけど。
戦後になってそういった結社・師弟制度はほぼ霧散した。そのかわり文学者たちは文学から政治に至るまで、よくネタが尽きないもんだと呆れるほど論争している。文学でも政治でも自己の立場を明らかにしなければにっちもさっちもいかない時代があった。戦後文学とはそういうものでいわゆる社会性文学だった。俗に言えば男の子文学ですな。
男の子の世界はピラミッド型の序列社会である。文学でもそれは変わらない。なぜこピラミッドが出来るのかと言えば男の子が社会的動物だからである。戦後文学が社会性文学だったということは、同時代を的確に捉え表現した者がピラミッドの頂点に君臨できたということである。わかりやすい例は自由詩の世界だ。現代詩という呼称が定着しているが詩は原理的に自由詩である。内容・形式面で一切制約がない。小説のような物語もないし短歌・俳句のように五七、七五を使って作品らしき体裁を整えることもできない。詩人は独力でイチから自分の表現世界作り上げなければならない。その際に強力な軸になったのが社会性だった。社会と鋭く対峙し、複雑なら複雑、単純なら単純なまま世界を表現しようとする詩人たちの試みが戦後詩や現代詩(超難解で知的と言われた狭義の現代詩のことね)を生み出した。五〇年代、六〇、七〇、八〇年代の同時代社会を捉えた作家が詩のトップランナーだった。これは小説の世界も同じである。小説は矛盾まみれの人間存在を赤裸々に描く俗な表現だが、そこに時代ごとの本質が付加された作品が傑作と呼ばれてきた。
この戦後文学の軸だった社会性は一九九〇年代から始まった高度情報化社会で揺らぎ始め、二〇二〇年代の現在ではほぼ霧散してしまった。戦後文学はその役割を終えたとも言える。人々の興味は拡散し、ミスチルやMrs. GREEN APPLEがどんなに人気があっても知らない人は全然知らない。相対的に言えば小さなファン社会があるだけで、政治や経済といったより切実な問題にしても大きな社会軸になることはめったにない。小さな社会的突起点が無数にあるいわゆるリゾーム社会になったわけだ。この静かだが大きな変化は文学批評が低調に、誉め合いになったことと密接に関係している。卑近な例に置き換えると文学批評は女の子化したんですな(女性蔑視ではありませんよ、念のため)。
ジェンダーか生物学的性差のせいなのかといった決して答えの出ない議論は学者さんに任せるとして、現象的に言えば女の子社会は横並びである。少なくとも現在でもそれが根強い。文学は現実社会を相手にするのでそれを敷衍すると、彼氏ができて結婚して子どもができての横並びで進むと女の子社会は安定する。もちろんそれだけでない。女の子の特技は抜け駆けだ。男の子集団、女の子集団を横目で見ながら相対化してスッと自分だけ抜け出す。これも自由詩を例にすれば、同人誌などで切磋琢磨というかいがみ合いをして詩人として頭角を現した女性詩人はほぼいない。社会性に縛られた男の子集団の裏をかくように女性美や生理、セックスをテーマにスラリと独自表現に抜ける。女性詩人は男の子集団の中の紅一点の方が際立つ。谷川俊太郎、川崎洋らの同人誌「鰐」の茨木のり子や「凶区」の山本道子、金井美恵子とかね。社会性を楯に威張っている男の子たちは本心では女の子を怖れている。というか男の子集団を相対化してもらいたくてうずうずしている。マゾでもあるんだね。女性には「バカなこと言ってんじゃないわよ」と男の子社会を脱構築する力がある。
しかし男の子が社会軸を失ってしまうと女の子の伝家の宝刀、抜け駆けも難しくなる。残るは横並びのポイント制。旦那がデロイトトーマツに就職したからポイント3、子どもが○○幼稚舎に合格すればポイント5という女の子社会に近い。詩の世界を例にすれば○○雑誌に書いたらポイント1,より格の高い(と思われている)○○新聞に書けばポイント3、朗読会に呼ばれればポイント1、でも朗読会を主催した者は決定権があるからポイント3といった具合にポイント制で作家の評価が決まっているような感じ。なぜそうなるのかと言えば社会性を失うということは文学作品の評価基準が失われることとほぼ同義だからだ。何が、どれがいい作品なのか社会的評価軸を立てられる作家がいない。自己中にとりあえず目立つことをすればいいという風潮が蔓延するわけだ。
この風潮が続けば文学は間違いなく衰退する。ただ現代にだけ特殊なことが起こるとは考えにくいので、過去を振り返れば誰かが突然現れて今の愚劣な状況をちゃぶ台返しするだろうとも予想できる。それには戦後と決定的に質的に違う現代社会(高度情報化社会)を相対化した新たな社会性軸を打ち立てる必要がある。でなければ文学作品の評価軸は共有されない。
詩の世界はマイナーだが現代文学(社会)を映し出す鏡でもある。特になんの制約もなくイチから表現世界を作り上げなければならない自由詩がそうだ。表現としてサラなので明鏡に近くなる。自由詩の世界、表現レベルとしては底の底まで落ちている。これ以上、下がりようがないほどの低レベルだ。二〇二七年くらいが底なんじゃないかな。小説の世界だって他人ごとではない。詩の世界で起こったことは必ず小説の世界でも起こる。
小説は物語なのでドラマ化されたりして話題になりやすい。しかし大衆小説でも売れている本や作家はほんの一握りだ。多くの大衆小説家があっぷあっぷし始めている。純文学の世界はなお厳しい。このままだと名前が知れた作家でもあっても、詩集と同様に出版社から自費や半自費なら出版できるんですがと言われかねない。一九八〇年代くらいまでに作家デビューして文壇でそれなりの要職に就いたりしている作家は逃げ切れるかもしれないが、九〇年代以降のデビュー組はヤバイ。恐らく逃げ切れない。小説家も○○誌に書きました、○○賞を受賞しましたのポイントが無効になってしまう日が来そうだ。現状は崩壊寸前までしっかりして見えるが気づいた時には手遅れで沈み始めた船から逃げ出せないことはよくある。作家はそろそろ性根を決めなければならないでしょうね。女の子的に抜け駆けして、男の子的に現代に呼応した社会軸を得るのが理想ですけど。
人類は三代欲求を克服した。性欲はホルモン処置で無くせるし、食欲は完全栄養食で賄えるし、睡眠欲は睡眠補助剤でカバーできる。だが、それでも子を残したいという人間は必ず存在する。自分の手で食事を作りたいと願う人間が。暖かな布団に包まって思いっ切り眠ることこそが幸福だと思う人間が。
この集落は、そうして人間が人間らしく生きようとしたささやかな小国だ。自然回帰派の理想郷。そしてその結果はどうなっただろう――ここにはもう、子どもはいない。
武田綾乃「ここはこどものいない国」
今回取り上げるのは武田綾乃さんの「ここはこどものいない国」。2226年の未来社会が舞台だ。人類は三大欲求である性欲、食欲、睡眠欲をテクノロジーで克服した。じゃあ人間は生まれていないのかというと、これもテクノロジーの力で工場生産され大人になるまで育てられる。人類は大変で煩わしくもある子育てからも解放された。じゃあすべての人間がセックスして子どもを作り育てていないのかというと、自然派と呼ばれる人たちは細々と昔ながらの生活を続けている。
主人公は二十八歲の笹川美奈子で青森の自然派の村で育った。しかし美奈子は自然派を嫌い家出するように東京に出て働いている。母親が亡くなって十年ぶりに故郷に帰るが「この集落は、そうして人間が人間らしく生きようとしたささやかな小国だ。自然回帰派の理想郷。そしてその結果はどうなっただろう――ここにはもう、子どもはいない」とある。じゃあ理想郷は否定され消滅し、美奈子が現代社会を全面肯定してそこに溶け込んでいるのかと言えばそうではない。美奈子は同僚の伊藤類が生んだ赤ん坊を育てることになる。
読み終わってんーと唸ってしまう小説ですねぇ。力の入った長編小説だが冒頭のシーンが少し言葉を変えて末尾で繰り返されている。振り出しに戻る感じ。同じ号にあわいゆきさんの「ここはこどものいない国」書評「不安定な毎日に翻弄されながら、それでも生きていくために」が掲載されている。この書評タイトルは的確。SF的設定は無視してよい。主人公・美奈子と同様に不安定に揺れ続ける日々を送る読者に訴えかける小説だろう。
鶴山裕司
*『鶴山裕司の小説について考える文芸誌時評』は不定期連載です。
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