
角谷昌子さんの「俳句の水脈・血脈―平成・令和に逝った星々」第五十六回は林田紀音夫。紀音夫は大正十三年(一九二四年)生まれ、平成十年(九八年)没、享年七十三歲。角谷さんは連載でときどきあくの強い俳人を取り上げておられる。前回の澤好摩さんもそうだが紀音夫の方が遙かに面倒臭い。
俳句では虚子系の花鳥風月とそのバリアントである人間探求派の作風が現在に至るまで絶対的主流だ。それとある程度対立する面白味のある俳人はどうしても戦前の新興俳句から続く戦後の前衛俳句の系譜になる。紀音夫もその一人だが誠に僭越ながら新興俳句や前衛俳句を代表する俳人ではない。しかしだからこそ紀音夫は面白い。
ひとくちに新興俳句、社会性俳句といっても内実はそれなりに複雑である。俳壇的には新興俳句は秋櫻子「馬酔木」創刊を契機とする虚子「ホトトギス」離脱から始まったとされている。ただ用語の斬新さと幅広さで秋櫻子は誓子に劣る。また二人ともじょじょに虚子系伝統俳句に飲み込まれていった。それを考えると最も重要な新興俳句は昭和十五年(一九四〇年)から十六年(四一年)に起こった新興俳句弾圧事件時代の作品になる。すぐに西東三鬼の名が思い浮かぶが戦後の新たな前衛俳句の起点になったのは富澤赤黄男である。
林田紀音夫は十八歲のころ、大阪の古書店で富澤赤黄男の第一句集『天の狼』を手に入れた。〈爛々と虎の眼に降る落葉〉〈蝶墜ちて大音響の氷結期〉の「朗々たる妖しさ」に惹かれると同時に、「潤子よお父さんは小さい支那のランプを拾つたよ」の前書きのある戦場俳句〈銃声がポツンポツンとあるランプ〉〈灯をともし潤子のやうな小さいランプ〉などの娘に宛てた作品の抑えた叙情性に感動している。
角谷昌子「俳句の水脈・血脈―平成・令和に逝った星々 第五十六回 林田紀音夫」
紀音夫は新興俳句では赤黄男作品に最も惹かれたようだ。ただ戦後にいわば穏健新興俳句派の日野草城主宰「青玄」同人になっている。高柳重信は赤黄男を担いで「薔薇」を創刊しそれが「俳句評論」の母胎となった。が、紀音夫が参加することはなかった。抽象理念に傾く高踏派とは相容れなかった。
紀音夫はまた萩原朔太郎の口語自由詩にも惹かれていた。しかし朔太郎を含む自由詩への興味はほぼ新興俳句俳人全員に指摘できる。新興俳句のモダニズムは当時の自由詩経由のものである。俳人は俳句しか見ようとせず、新たな俳句動向はすべて俳句内部から生み出されたオリジナルなものだと考えがちだ。しかしそんなことがあるはずもない。新興俳句は俳句が始めて意識的に自由詩という他ジャンルから大きく学んだ文学動向である。
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ
肺病みて月下の松に親近す
死にばかり遭ひて小さき傘借る
家庭の灯だけでは都市の夜暗し
寿司もくひ妻の得し金減り易し
紀音夫初期句である。紀音夫は戦争末期の昭和二十年(一九四五年)に召集され中国華北に派遣されたが赤黄男のような激戦は経験していない。「鉛筆の遺書ならば」は正直な句で戦争も従軍体験も紀音夫にとって決定的傷とはならなかった。紀音夫は戦後結核に罹患し療養所で二年過ごしたがその経験と貧困も句で表現している。どれも生々しい体験に基づく句である。
重信は俳句を「俳句形式」と呼んで相対化し新たな形式を模索した。現代詩に通じる高度な喩的表現も自由詩から得たものである。ただ赤黄男―重信以外の新興俳句系の俳人が自由詩から受けた最も大きな影響は強い自我意識表現だった。
新興俳句最大の特徴は俳句史上初めて俳人が同時代に対する自己の思想信条を赤裸々に表現したことにある。紀音夫はその系譜の俳人である。確かに紀音夫は句誌「十七音詩」を創刊して新たな俳句の形を模索した。しかし徹底しなかった。形式よりも表現内容を重視した俳人だったのである。ただ戦後の前衛俳句と無縁だったわけではない。
月下の流れ惨とはたらく声のこる
煙突から起出する街不況の数字
照し出される荒れた路面でつながる日本
倉庫の壁いつぱいに手垢日差しうすれ
海へ落ちてゆく農耕に間近な冬
昭和三十三年(一九五八年)、紀音夫は句集『塩田』で知られる沢木欣一の句誌「風」同人になった。三十七年(六二年)には金子兜太の「海程」に参加した。「風」「海程」は社会性俳句の牙城的句誌である。戦後の前衛俳句は重信系と兜太系に大別できるが紀音夫は兜太系だった。
兜太系社会性俳句は基本的に社会と私の関わりを表現の中心としている。「月下の流れ」以下の五句は社会性俳句時代の句。大上段に構えた社会批判句が増えている。それは同時代の欣一「塩田に百日筋目つけ通し」や兜太「銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく」、阿部完市「少年来る無心に充分に刺すために」なども同じだった。しかし昭和四十五年(一九七〇年)の安保闘争を過ぎたあたりから社会性俳句は急速に下火になる。紀音夫も例外ではなかった。
雑木林を過ぎる死人の数に入り
この身よりひろがつて海となる流失
生きのびて流れる方へ傘をさす
滞る血のかなしさを硝子に頒つ
いつか星ぞら屈葬の他は許されず
昭和四〇年代末頃の紀音夫の句だが急速に社会性が失われている。「死人」「流失」「流れる」「滞る」「屈葬」という言葉からわかるようにすべてが停滞し始めている。日々の平穏な生活が優先される平和な社会の中で、誰もが注目するような社会的事件が急速に消えていったのである。社会的事件の日常拡散化だ。紀音夫はパーキンソン病が悪化したこともあり平成八年(一九九六年)に断筆した。ただ病がなくても紀音夫が句作を続けられたかどうか。
角谷さんは「基(福田基、紀音夫の弟子で『林田紀音夫全句集』編者)は、紀音夫が昭和六十年に「俳句が作れない」と言って「花鳥諷詠」に変貌し、句会でも、そんな句しか選ばなくなったと全句集に記す」と書いておられる。伝統的花鳥諷詠句が紀音夫が目指した句であるはずもない。断筆は紀音夫の潔さかもしれない。
乱暴なようだが社会性俳句は結局は金子兜太の一人勝ち文学動向だったと思う。兜太が長命だったことと無関係ではない。が、社会性俳句創始者の一人として持て囃されたという意味ではない。兜太は七〇年安保以降の平和で豊かさを増してゆく社会の中で彼独自の社会性俳句を維持し続けた。後年の兜太俳句はいわば〈俺俳句〉である。社会動向の中に俳句の題材を探す私の句ではなくなっている。強靱な〈俺=自我意識〉が社会を裁断する句である。しかしそれはほかの社会性俳人たちには不可能だった。断筆を含め紀音夫の句業はその機微をよく表している。
新興俳句から生まれた戦後の前衛俳句は兜太「海程」系と重信「俳句評論」系だが、前者の社会への強い関心も後者の俳句原理に迫る試みも今ではキレイさっぱり消え去った。その凪のような状態の中で俳句界は雪崩を打って虚子礼賛へと傾いている。社会批判を取り入れても言語実験を行ってみても新たな動きは出ない。伝統俳句一色だ。ただし間違いではない。
虚子が言ったように俳句は何をやっても五七五に季語の有季定型写生俳句に戻ってくる。しかし「俳句は五七五に季語定型を持つ世界で最短の素晴らしい詩である」というお題目を唱え続けるのはあまりにも怠惰だ。なぜ俳句は有季定型写生なのかを突き詰めて考えなければこれから先もずっと、ちょっと新しげな俳句動向があだ花のように浮いては消えてゆくことになる。
鶴山裕司
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