日本文学の古典中の古典、小説文学の不動の古典は紫式部の『源氏物語』。現在に至るまで欧米人による各種英訳が出版されているが、世界初の英訳は明治15年(1882年)刊の日本人・末松謙澄の手によるもの。欧米文化が怒濤のように流入していた時代に末松はどのような翻訳を行ったのか。気鋭の英文学者・星隆弘が、末松版『源氏物語』英訳の戻し訳によって当時の文化状況と日本文学と英語文化の差異に迫る!
by 金魚屋編集部
夜顔(「夕顔」)
秋になっても、源氏は物思いに耽ってばかりおりました。片や、里の葵上も、滅多に顔も合わせないし、なんのかのといって家に寄りつきもしない婿君のことで、胸中穏やかならぬ日々を送っておりました。先にも触れた通り、六条にもう一方、通い所があるのです。それも忍んで忍んでついに口説き落としたのですから、気まぐれに飽いて疎んじるような女にはあらず。なおも冷めやらぬ恋慕を抱いておりました。が、そうはいっても向こう見ずに恋焦がれるほどの勢いはいくらか凪いでおしまいのようで、その訳は、女からの焦心、いえ、執心が勝って持て余していたのが一つ、それから齢のころも女が勝っていたのが一つ。ここで一つ、二人の仲を伺い知れる小咄をいたしましょうか。

ある朝早く、源氏が六条の御殿を発つときのことです。まだ目も醒めやらぬ、物憂い朝発ち。庭はまだ暁の霞に包まれておりました。屋敷の女房が先に立って妻戸を押し開き、源氏を通すと、心が洗われるかと思うほどに花の咲き乱れる前栽が目に飛び込んでまいりました。濫りに入り組んだ枝葉が青々と広がり、朝顔が盛りを迎えておりました。源氏は思わず足を止め、物思わしげに打ち眺めます。女房もまだ傍に控えておりました。萌黄色の紗の裳の下から浮き出た腰つきが艶めかしく、これにもまた心惹かれます。源氏は目を細めて、女房を連れて庭に降りました。床几に座らせ、その隣に腰を掛けます。女房は何も言わず俯いておりました。波打つ髪の切り揃えた形も可憐なものです。源氏がささやくように口ずさみます――
はなからはなにわたるかどを とがむるひとのくちさがなさを
いとひてかすみがくるるかどでに はなれがたきはあけのあさがお
そう歌いながらそっと手を取りもしたのに、女房は何も察しなかったのか、顔色ひとつ変えぬままに返します――
かすみのはれぬまにいづる あわただしききみにぞとはむ
のこせしあさがおのつるの ほだしとどむるこころやあらむ
そこへ割って入ったのは指貫*1姿の童でございました。庭に降り立つと、花の夜露を振り払い、朝顔を手折って束ね始めました。その様子は画に残したいと思われるほどに静かで美しく、源氏は腰を上げると、のろのろと門を出て行ったのでした。その頃の源氏の君といえばいっそう世間の憧れの的でございました。時に突拍子もない恋を試そうとなさるのもその類稀なる男振りと評判ゆえでございましょうか。深山に篭れる無骨者でさえ、憩うなら花咲ける木陰を好むもの。何処へなりとも赴けば、人は皆源氏の気を惹こうとするのです。
【註】
*1 指貫は幅広に拵えた袴の一種。儀礼上、男のみが着用する着物であり、従ってこの童を侍童と結論する注釈者もいるが、騎乗時においては女も着用していたという異論もある。
(第26回 了)
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