
新年号から中津昌子さんの「永井陽子論」の連載が始まった。永井の歌業を最初期から丹念に辿り検証してゆく論考である。
永井陽子は昭和二十六年(一九五一年)生まれ、平成十二年(二〇〇〇年)没、享年四十八歲。非常に高い評価を受ける歌人であり愛読者も多いが、平成十七年(二〇〇五年)刊行の『永井陽子全歌集』が初版止まりで高価な稀覯本となり、長らく簡単にその作品を読むことができなかった。令和七年(二〇二五年)になってようやく『永井陽子歌集♯『モーツアルトの電話帳』その他』『永井陽子歌集♭『てまり唄』その他』が短歌研究文庫として刊行された。なぜ永井ほど評価の高い歌人の作品集が刊行されなかったのかちょっと不思議な気がする。ともあれ短歌研究文庫刊行時に「没後25年、文庫化「いま永井陽子を読む」」という小文を書いたことがある。
ご遺族の意向などがあるのかもしれないが永井の死因は公表されていない。が、親しい友人たちの悲嘆と狼狽を読むと自殺だった可能性が高い。これは既に文学史上の人となった作家の場合無視することはできない。ポストモダニズム批評では作家の実人生を一切無視したりする。が、批評もまた根無し草になってしまう。文学は結局は〝個〟のものだ。実人生を含む正面中央突破で論じなければ作品の本質には届かない。
永井短歌には濃厚に冥界の雰囲気がある。伝記作者ならそれを自殺というバニシングポイントに集約させるかもしれない。しかしそれでは永井文学を矮小化することになってしまう。確かに永井文学には厭世観のようなものが透けて見える。が、それは文学と一体だ。永井の歌の表現レベルは現世を詠みながら現世の上位審級にあることが多い。
ゆうぐれに櫛をひろへりゆうぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ
あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ
秋の陽をかばんに詰めて帰り来るをとこひとりと暮らすもよけれ
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとおほけれどアンダルシアのひまはり
生きることがさびしい時に聞こえくるこの世のいづこ水の漏る音
この世からさまよひ出でていかぬやうラジオをつけてねむる夜がある
永井短歌の代表作である。身も蓋もない言い方をすれば作家の評価は最上の作品によって決まる。突出した作品を残せば瑣末な作品まで詳細に読まれ論じられることになる。そして傑作の評価は一瞬で決まる。読者が作品を読んだ一瞬に決まってしまうのだ。
その意味で詩は雷鳴のような表現である。批評でいくら凡作を言挙げしても傑作に変わることはない。ただ短歌では偶然傑作は生まれない。作家の強い意志、あるいは作家の〝私性〟が傑作を生む。永井陽子はそのような文学の残酷を知っていたと思う。
私たちはそれぞれの心のいちばん深い部分にもう一つの別の世界を持つている。私の短歌は、大部分その世界の中で生まれた。そこには、ひずめの音をたてない馬や、じっと動かない甲冑魚や、さまざまな形の過去たち・未来たちがいる。彼らは、短歌のための小道具ではない。彼らは明らかな現実である。目には見えないもう一つの内部の世界なのである。/一方、(略)目の前にうようよしている〈げんじつ〉たちに会う。(略)/しかし、〈げんじつ〉を〈げんじつ〉で表現することができたとしても、それが詩としてどれほどの力を持つかは疑問である。人々がだれにも告げずに抱き続けている魂の内部――新たなる世界――に触れ得てこそ、はじめて短歌が文学として成り立つのではないか。(略)しっかりとした内部の世界を確立することだ。(略)そしてその中で生きてみることだ。自分をもう一つの現実の内に立たせて、それを見守ることができるだけの忍耐力を持って。それが最初の出発である。
永井陽子「イメージと現実」
永井は初期に俳句を書いている。ただ永井のように強烈な内面を持つ作家は俳句に向いていない。じょじょに短歌にシフトしてゆくわけだが中津さんはその軌跡を資料に即して詳細に追っておられる。また永井が書き残した批評を論じて永井文学の機微を探っている。
「イメージと現実」は永井が大学時代に同人誌「轍」に発表した批評である(引用は中津さんの論考から)。永井文学の方法が非常によく表現された初期批評だ。永井は自己の深層心理の中に存在するモノや観念を「現実」と定義している。この「現実」は当然目に見え手で触れられる〈げんじつ〉と対立する。永井は深層心理的「現実」を捉えることが「短歌が文学として成り立つ」要件だと書いている。ただ「〈げんじつ〉を〈げんじつ〉で表現する」短歌の揺るぎない王道である実感短歌を全否定しているわけではない。
(略)韻律という器がなかったら詩などと呼べない短歌が、今日いかに多いことか。(略)私たちは伝統を許容しすぎている。定型に甘えすぎている。(略)最初から器があって、そこにいっぱいに水を注ぐくらいのことなら、猿だってやるではないか。(略)自分の心を掘り返し捜しまわして、己れの言葉・己れのリズムを見つけ出すべきである。(略)そんな繰りかえしの内に、古典の美しさはまた新しく継承されていくと思うのである。/私たちの言語で、私たちの心を歌うことだ。新しい抒情を築くことだ。こころ。屈折し、憎まれて、それでもなお美しくあろうとして、ぽたぽたしたたり落ちてくるしずく。私が現代短歌に求めるものは、そんな、醜くてしかも美しい抒情である。
永井陽子「短歌詩論――現代短歌に何を求めるか」
「短歌詩論――現代短歌に何を求めるか」も大学時代の批評である(引用は中津さんの論考)。短歌は五七五七七の「韻律という器」に沿ってさえいればとりあえず成立する。問題はその先だ。意欲的歌人の誰もがその先を模索する。永井は〝その先〟では「己れの言葉・己れのリズムを見つけ出すべきである」と書いたがそれは定型の破壊や逸脱ではない。定型の根源に迫るような根源主義である。
「古典の美しさはまた新しく継承されていくと思うのである」とあるが永井の言う「古典」は静的テキストではない。動的な短歌の根源のことだ。根源にまで溯りその本質を捉えれば短歌が不定型の表現から定型を見出していったように新しい「己れの言葉・己れのリズム」「醜くてしかも美しい抒情」を表現できるだろうということである。
作品は試行錯誤するが永井短歌の方法は初期からそれほど変わっていないと思う。深層心理界を「現実」と捉えるがそれは奇矯な妄想界に没入することではない。「内部の世界を確立」し、かつ「自分をもう一つの現実の内に立たせて、それを見守ることができるだけの忍耐力を持」つことだと表現している。これは大変難しい。深層心理界を客体化するような試みになるからだ。明晰に醒めながら夢想するのに近い。一点に蹲ってしまうような永井短歌の凝縮的表現と苦しさはそのような無謀な試みから生じているように思う。
ただ永井短歌が短歌の絶対的表現主体である〝私〟の相対化を示唆してるのも確かだと思う。永井短歌の極点を挙げれば「ひまはりのアンダルシアはとほけれどとおほけれどアンダルシアのひまはり」になるだろう。永井陽子という歌人の詠嘆として評価したのではこの歌は死んでしまう。短歌が生んだほとんど究極的痴呆表現として捉えた方がよい。破調だが新たな――二度と繰り返せない――リズムしかない。詠嘆だがその声は永井陽子という実存の深層から発せられている。本質的にはアノニマスな声であり「醜くてしかも美しい抒情」表現である。
鶴山裕司
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