特別展『茶の湯』

於・東京国立博物館

会期=2017/04/11~06/04

入館料=1600円(一般)

カタログ=2800

 

 

 

 

 『茶の湯』展ねぇ。天下の名品が並んでるんだろうなぁと思ったが、最初はあんまり燃えなかった。茶道具は美術品だが〝御道具〟でもある。茶事に使う道具なのであり、感覚的に言うと美術品というより骨董の方がしっくりする。骨董は言うまでもなく、高くても安くても買って弄り回して使って、飽きればまた売る物である。そうしなければ時代感覚を肉体的に養うことはできない。道具の善し悪しも理解できない。また名品であっても触って近くでじっくり見た物と、眺めただけの物では腑に落ち方が違う。美術館展示物は触れないのはもちろん、見るといっても方向が決まっている。ん~どうしようかなぁと迷いながら、結局は東京藝術大学美術館の『雪村』展に行くことにしたので、ついでに見ることにした。

 

 で、会場に入ってしばらく歩き回るうちにパチッと目が覚めた。「おおっ、馬蝗絆がある、生爪も破袋も無一物も喜左衛門もあるじゃん」と、気がつくと会場を走り回っていた。どれも一度は何かの美術展で見たことがあるが、これだけ名品が一同に集まった展覧会は滅多にないはずである。明治の実業家に茶道好きが多かったせいで、茶道具の名品は根津や五島美術館といった私設美術家にかなり収蔵されている。高価なのはもちろん、どの美術館でも目玉所蔵品だから借り受けるのは難しい。東博の力なくしては開催できない美術展でしょうな。

 

曜変天目(ようへんてんもく) 稲葉天目

中国 建窯 高七・二×口径十二・二×高台径三・八センチ 南宋時代 十二~十三世紀 東京・静嘉堂文庫美術館蔵

 

 泣く子も黙る曜変天目(ようへんてんもく)である。見ての通り、黒い器の内側に、虹の暈を持つ玉のような模様が浮かび出ているのが特徴である。初めて見た人は、古そうなちょっと綺麗なお茶碗とお思いになるかもしれない。しかし曜変天目は世界に四つしかない。一つは今回出品された稲葉天目で、三井財閥の岩崎彌之助、小彌太親子が創設した静嘉堂文庫所蔵である。徳川三代将軍家光からその乳母・春日局に下賜され、子孫の稲葉家に伝来したのでその名がある。二つ目は藤田美術館所蔵で水戸徳川家伝来品である。三つ目は古くから大徳寺に伝来した碗だ。四つ目はやや光彩の劣る作品だがMIHO MUSEUM所蔵で、加賀藩前田家に伝来した。静嘉堂、藤田美術館、大徳寺所蔵品が国宝で、MIHO所蔵品は重要文化財である。

 

 曜変天目は少し前までは、中国の雑器を日本のお茶人が取り上げて珍重したのではないかと言われていた。しかし中国での発掘調査によって、南宋王朝の宮廷用窯で焼かれたことが判明した。ただ中国では陶片しか見つかっていないので、詳しい用途はわからない。また中国人はどちらかと言うと黒い器を嫌う。白磁や青磁、あるいは彩色した端正な器が中国人好みである。なぜ宮廷用に曜変天目が作られたのかは謎だが、南宋は女真族の金(後の元王朝)に圧迫され、南へと遷都した王朝である。宋磁は概して求心的作品が多いが、黒の窯変に特別な意味を見い出していたのかもしれない。いずれにせよ日本国の威信をかけて中国に渡った留学僧が、宋王朝の貴人から譲り受けて大切に持ち帰った茶碗であるのは間違いない。

 

 今回は一緒に展示されていなかったが、曜変天目(由緒正しい天目茶碗と言ってもいい)は天目台とセットである。栄西の『喫茶養生記』にあるように、日本のお茶事は仏様にお茶を供える仏前茶から始まった。茶碗を乗せるための天目台が必要なのである。また茶碗は必ず名物裂などの高価な袱紗に包まれている。箱は最低でも三重箱だろう。ぞれぞれに各時代の所蔵者の箱書があるはずである。それをたどってゆくだけでも数本の論文が書ける。昔から曜変天目が貴重で、それゆえ高価な値段で取引されていたということでもある。

 

 なおちょっと前にテレビ東京の『なんでも鑑定団』で、三好長慶旧蔵という曜変天目が真作と鑑定されたことを覚えておられる方も多いだろう。所有者が正式鑑定を拒んでいるようなので真相は迷宮入りしそうだが、まああれは誰が見ても贋作である。三メートル先から見てもダメな物だとわからないとおかしい。新たな曜変天目が現れたら、学者も骨董商も間違いなく色めき立つ。しかしその気配はぜんぜんない。わざわざ見に行くこともせず、また見せてもらえないことも承知の上で、「夢があっていいですねぇ、機会があれば拝見したいものです」と、やんわり騒動に巻き込まれるのを嫌っている。

 

 美術館に入る名品でもその前は個人所有なわけで、骨董屋が売買を仲介するのがほとんどである。もちろんすべての骨董屋が信頼できるわけではない。ただ意外に思われるかもしれないが、基本的には学者より骨董屋の方が遙かに真贋にうるさい。まず自分の金で売買するからだ。予算で買うのと身銭を切るのはぜんぜん違う。贋作をつかんでも誰も助けてくれない。日本の美術館が骨董屋を通して美術品を購入するのは保険のためでもある。学者は研究者であり目が利くとは限らない。一般論だが学者個人の鑑定書よりも、日本美術倶楽部の鑑定書の方がよほど信頼できる。ただ大金が動くということは、様々な人間的機微を生む。

 

 骨董業界には二番手、三番手という言い方がある。一番手以外は贋作なのだ。しょぼたれてると言っても贋作の意味だが、ニセモノと言わないのがキモである。贋作には贋作の値段があるからだ。そもそも真贋の見極めがつかない客に、真作を渡す必要はないということでもある。五、六点骨董を見せて話しをすれば、どのくらい目が利く人なのかはすぐわかる。茶道具のように所有者の精神が試される御道具では、真贋の見極めすらおぼつかない骨董好きは、掘り出しモノと思って比較的安い値段で、本物よりずっと素敵な仕上がりの贋作を所有していれば良いと骨董屋が考えるのは理解できないこともない。

 

 なんでも鑑定団の曜変天目の評価額は二千五百万だったが、本物なら業者間の競りで初値が一億近いだろう。国宝重文指定されたら売買が難しくなるというのはハッタリに過ぎない。高価な物ならテレビに出た時点で税務署にチェックされる。はなっから三番手、四番手の値段なわけで、その値段で曜変天目を手に入れられるなら幸せという人はきっといるはずである。また高い値段で骨董を買うと、当分は所有者の元から市場に出て来ないのは当然のことだ。たとえ贋作だとしてもその間にほとぼりは冷める。美術品に贋作は付きものだが、茶道具の世界では、ときどきとんでもない物が名品に化ける。もちろん物に罪はなく人間が悪いのである。まあ曜変天目くらい鵜の目鷹の目のお茶碗になると、中途半端な伝世品はないでしょうな。

 

蜆子和尚(えんすおしょう)図 牧谿(もっけい)筆 偃渓広聞(えんけいこうもん)

紙本墨画 中国 南宋時代 十三世紀 縦八四・七×横三一・四センチ

 

紅白芙蓉図 李迪(りてき)

絹本着色 中国 南宋時代 慶元三年(一一九七年) 各縦二五・二×横二五・五センチ 東京国立博物館蔵

 

 いずれも曜変天目と同じ南宋時代に作られ、日本に将来された絵である。南宋時代は日本では平安末から鎌倉時代初期にあたり、さすがに時代が古すぎてこれらの茶道具の伝来経路はわからない。しかし残存数から言っても相当な数の絵画や茶碗類が輸入されたはずである。浜が波で洗われ貴重な石だけが露出するように、三百年ほど経ってその中の優品が記録され、鑑賞法や展示方法が体系化されることになった。『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』である。

 

 『君台観左右帳記』は銀閣寺を建て、東山文化の中心人物となった室町第八代将軍・足利義政の御殿を装飾するために、同朋衆の能阿弥(のうあみ)相阿弥(そうあみ)親子が茶道具類を分類・整理したものである。『君台観左右帳記』に記載された茶道具類は「東山御物(ひがしやまごもつ)」と呼ばれ、茶道具の至宝として珍重されることになった。『君台観左右帳記』がまとめられたのは義政時代だが、コレクションは三代将軍・義満蒐集品が中心だと言われる。

 

 日本での喫茶の風習は鎌倉時代になってようやく盛んになった。鎌倉末から室町南北朝時代になると婆娑羅大名らによって、盛んに物品や金を賭けてお茶の産地を当てる闘茶が行われた。中国本家ではすでに失われた、南宋から元時代にかけての絵画や陶器が日本に相当数残っていることは、朝廷や将軍家だけでなく、婆娑羅大名らも中国製品を輸入していたことを示唆している。昔から日本人は舶来物が大好きなのだ。ほぼすべての先進技術や思想を中国から移入していたので当然と言えば当然である。ただ東山御物は日本人好みである。

 

 その日本人好みの美術品の代表が牧谿(もっけい)李迪(りてき)の絵である。牧谿は南宋から元初の禅僧で画家だが、中国ではほぼ無名である。作品もあまり残っていないようだ。しかし日本の貴人は牧谿を好み、かなりの数が伝来した。李迪は南宋の宮廷画家である。牧谿が世捨ての隠者画家であるのに対して、李迪は世界の〝中〟心の〝華〟である南宋画壇を代表する画家の一人である。牧谿は隠棲と清貧を重んじる禅者の水墨画を描いたが、李迪の絵は華やかだ。ただ『紅白芙蓉図』のように、花の色の移ろいを愛したところに日本のお茶人の好みがある。日本の茶道は貧とも呼べる質素から、時に華麗で豪奢な世界に飛翔する。その基盤は東山御物にはっきり表れている。

 

 また『君台観左右帳記』は、唐絵鑑定、書院飾り、器物評価と鑑定の三部から構成される。ひとくちに茶道具と言うが、実際に使用しない飾り物の絵や墨跡が、道具類の中で最も重要で高位だということだ。絵や墨跡が優れた先人の精神を端的に表現するからである。また第二部で茶道具の飾り方を説いているのは、茶道が様々な道具の取り合わせであること――中心があるわけではなく、諸要素の取り合わせの調和だということを示している。特定の御道具一点が目立ってはいけないのである。つまり茶道は道具自慢の物狂いのお遊びではない。原則として物の取り合わせで何もない空間を作り出そうとする。茶道具は本来無用物であるがゆえに珍重され、高値で取り引きされて来たという絶対矛盾的道側面がある。

 

黄天目 珠光(しゅこう)天目

中国 高六・四~六・七×口径一一・三~一一・七×高台径三・八センチ 元~明時代 十四~一五世紀 東京・永青文庫蔵

 

 天目は素直な腕型で、厚く黒っぽい天目釉をかけた茶碗の総称である。南宋時代には曜変天目を始めとして、玳皮盞(たいひさん)木葉(このは)天目、油滴(ゆてき)天目など様々な特徴を持った天目茶碗が焼かれたが、元から明時代になると雑器として大量生産されるようになる。手に取ると意外に小さく感じる茶碗がほとんどで、たいていは口径十二センチを超えない。また高台(茶碗の尻の部分)が小さく、どっしりと安定した形ではない。

 

 珠光天目は、室町後期の茶人・村田珠光(しゅこう)が所持していたと伝えられる茶碗である。窯変(窯の中で土と火によって偶然作られた模様や形のこと)によって黄色っぽく発色しているが、大量生産が始まった時代の天目碗である。天目茶碗は伏せ焼き(茶碗の口の部分を下にして焼く)がほとんどで、当然、口の部分はザラザラになる。そのため覆輪といって、口縁を金や銀(メッキ)で覆ってある。お茶を飲むとまず金属が口にあたるわけで、まあはっきり言ってあまりいい感じはしない。ただ珠光の時代までは中国物が珍重された。珠光所持茶碗にはほかにも珠光青磁などが知られている。よく見ると優れた出来映えなのだが、中国人なら青く発色しなかった出来損ないの青磁だと言うかもしれない。珠光好みは渋い物が多いのである。

 

 村田珠光は応永三十年(一四二三年)に生まれ、文亀二年(一五〇二年)に八十歳で没した。詳しい事跡はわかっていないが佗茶(わびちゃ)(草庵の茶)の創始者である。外界から隔絶された茅屋の中で、茶を飲むことを通して、孤高で揺るぎない精神を養うのである。貧の茶と言ってもいいが、佗茶の貧は一点の曇りもない清貧でなければならない。珠光は大徳寺の一休宗純に帰依して印可(禅の悟達者としてのお墨付き)を与えられている。お茶人が大徳寺系の禅僧であるのは珠光を嚆矢とする。『君台観左右帳記』を著した同朋衆・能阿弥とも交わり、足利将軍家の茶頭の一人だったようだ。

 

 珠光は『心の一紙』と呼ばれる書き物を遺している。弟子の古市播磨澄胤(ふるいちはりまちょういん)に宛てた短い手紙であり、はっきりとした文脈(コンテキスト)がわからないのでその解釈は様々である。ただ珠光は「心の師とハなれ、心を師とせざれ、と古人もいわれし也」と、禅の言葉を引用して茶道を説いている。自分の自我意識を絶対とせず、それを超越した境地に至れ、といったくらいの意味である。また「かるゝ(枯るる)と云事ハ、よき道具をもち、其あぢわひをよくしりて、心の下地によりてたけくらミて、後まで、ひへやせてこそ面白くあるべきなり」と書いている。

 

 「ひゑかるゝ」(冷え枯るる)境地や「ひへやせ」(冷え痩せ)は、茶道の最高位である。茶道の悟達者なら、その境位が御道具の取り合わせで表現されるのは当然のことだ。珠光は道具を選ぶには「心の下地」が一番大事だと述べている。それなくしては「後まで、ひへやせ」続けることはできない。茶道の名品は時間を経たから寂びて見えるのではない。それが生み出された瞬間から冷え寂びの境地を体現した物が多いのである。(後編に続く)

山本俊則

 

 

 

 

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