『草間彌生 わが永遠の魂』展

於・国立新美術館

会期=2017/02/22~05/22

入館料=1600円(一般)

カタログ=2800

 

 

 

 

 文句なしに素晴らしい展覧会だった。青臭いことを言うと、生きる勇気、世界を前向きに肯定して生きてゆく勇気をもらった。それなりに長い間美術展を見ているが、すべての美術展が素晴らしいわけではない。今回の『草間彌生 わが永遠の魂』展は今まで見た美術展の中で三指に入る素晴らしさだった。『わが永遠の魂』展を見た人は幸せだ。これからずっと「あの展覧会は良かったね」と言える。苦しく悩み多い時に大好きなポップ・ソングを口ずさむように、草間彌生の、光の中を真っ直ぐに歩いて行くような魂の絵画を思い出すことができる。

 

『(無題)』

一九三九年 二四・八×二二・五センチ 鉛筆・紙 作家蔵

 

 草間彌生は暗い場所から現れた。少女の頃から幻覚や幻聴に悩まされたことはよく知られている。『(無題)』は草間小学五年生の十歳の時の作品だが、後の草間作品に頻出するようになるドットがすでに表れている。彼女には浮遊する水玉状の何かが見えていたのだろう。ただ草間は同じような症状に悩む人たちの多くが隠し、何とか押し殺そうとする精神の病から逃げなかった。じっとそれを見つめ描き続けた。

 

『No.AB.

一九五九年 二一〇・三×四一四・四センチ 油彩/カンヴァス 豊田市美術館蔵

 

 日本の前衛美術家たちの作品は、一九八〇年代頃からようやく各地の美術館に所蔵されるようになった。僕が学生だった頃に見ていた草間作品は『No.AB.』のような作品だった。正直なところ、これはいったい何なんだろうと思った。草間作品は巨大なものが多かった。抽象画だが時間をかけて作られている作品だった。『No.AB.』もそうで、微妙なグラデーションが生じるように何度も地に白の絵の具を塗り、細かなドットが偏執的に描いてある。

 

 草間が精神の問題を抱えているのは当時から知っていた。これも正直に言えば、精神疾患を元に草間作品を無理矢理理解しようとしていた。あるいはわからないことを精神病のせいにして、草間作品を目の記憶の外に追い出そうとしていたところがあった。人間は自分にとってわからないものが怖いのである。

 

 現代美術、特に抽象的な前衛作家の作品を理解するのは時間がかかる。画家に限らないが創作者はほぼすべて強いエゴを抱えている。目立ちたい、有名になりたいというだけであえて奇矯な表現におもむく作家もたくさんいる。しかし誰だって他者のエゴの押し売りは嫌いだ。そういった作家の作品を愛することはできない。

 

 一点の作品だけで抽象系の前衛作家の表現欲求を理解するのはとても難しい。草間の場合もそうだった。同時代を生きたわけではない僕らのような世代は、一九九〇年代も末になり、ようやく彼女の初期作品から現在作品までまとめて展示されるようになってから、じょじょにその本質に気づくことになった。

 

『自殺したわたし』

一九七七年 三九・五×五四センチ インク、ボールペン、水彩、コラージュ/紙 東京都現代美術館蔵

 

 初期から中期の作品を見ると、草間が暗い自殺的破壊願望を抱えながら、それを上回るような華やかな世界を持っている作家だということがよくわかる。『自殺したわたし』は一種のセルフポートレートだが、その色彩は明るい。また手前に描かれているのは生命の樹だろう。草間作品は暗く、明るく、そして増殖的だ。その矛盾しているとも言える草間の欲動は多作によって解消・統合されてゆく。この美術家は作品で使う素材を選ばない。紙でもキャンバスでも、鉛筆画でも油絵でもアクリル画でもいいのだ。生命の樹はやがて立体作品になってゆく。

 

求道の輝く星は遠く   草間彌生

 

道を求めて 永く歩みきし日々は

星の光さえも 見失いがちの迷路

人の世の迷いの小道より

遠き天を見上げれば 空の彼方の

輝く星たち 求めれば求めるほどに

輝きは遠のけるごとくなり

地上の暗愚のぬかるみの中で

何をおろかにも かくほどに永き道のりを

われは くるしみつつ歩みきたりしか――

やがて死がせまりくるというに――

 

 草間は文筆家として小説も書いているが、自由詩という形式が最もふさわしい。自由詩には形式的な制約が一切ないからである。小説のような詩でも、エッセイのようでも、単語を散りばめただけの作品でも自由詩は成立する。ただ自由詩を成立させるためには作家の強い思想が不可欠である。草間にはそれがある。この作家は「遠き天を見上げ」ながら飽くことなく仕事をし続けてきた。その質と量が、現代アートになじみのない人たちまでを魅了するようになったのである。

 

 今回の展覧会で、国立新美術館の最初の部屋に入って度肝を抜かれた人は多いだろう。草間は二〇〇九年、八十歳の時から今回の展覧会のタイトルになった『わが永遠の魂』連作を制作している。その多くが縦一九四センチ、横一九四センチの正方形の巨大な作品である。この連作は総数五〇〇点に及ぶが、そのうちの一三〇点が一挙公開されることになった。草間は現在八十八歳だが、今回の展覧会は必ずしも大画家の回顧展ではない。現在もなお旺盛に制作を続ける作家の個展でもある。

 

『生命は限りもなく、宇宙に燃え上がって行く時』

二〇一四年 一九四×五八二センチ(三枚組) アクリリック/カンヴァス 作家蔵

 

 『生命は限りもなく、宇宙に燃え上がって行く時』は、『わが永遠の魂』連作の中でも最も大きな作品だ。この巨大な作品を、草間は八十五歳の時に描いた。創作者は基本的に、気力、体力が衰える晩年になるに従って、作品の制作点数や質が落ちてゆくものである。しかし草間にはそれがまったくない。むしろその制作意欲も作品点数も右肩上がりで上がっている。それは素直に驚異である。

 

 アクリル絵の具を使った『わが永遠の魂』連作は、草間が到達した一つの境地を表しているだろう。深刻な画題も、楽しい画題も、滑稽さを感じさせる絵もある。ただどの作品も鮮やかに底抜けに明るい。草間の暗い内面はもちろん、救済を求めるように光へと向かう彼女の高い精神も等価に絵に表現されている。誰もが感じるようにこれは子供が描いた絵のようだ。ただ子供ほど生と死の狭間にいる存在はいない。また子供くらいなにかに夢中になれる純な存在もない。草間は長い格闘の末に、向日的な表現の地平に解き放たれたようだ。苦悩を経た熟練の画家だからこそ、子供のように純な表現が可能になったのである。

 

生命の輝きに満ちて   草間彌生

 

美しさとは何であろうか?それは愛の原型である。

死が待ちかまえていても構うものか。

そして一層王道を走れ。(中略)

死とはなんだろうか?(中略)

わたしにはわからない。

まだ死んだことがないから。

死については一日一日の積み重ねた『生』となって

確かにきらびやかで銀色に輝いているらしい。(中略)

死よ、もう私に語りかけないで。

なぜなら私の中で死に対する感激が燃えさかってきたのだから。

私は私のこれまでの人生の中で最も深い感動を持った芸術への求道を

一層心に込めて駆け抜けたい。

私の生きる道は死のみを考えて歩むことではなく、

私の『生』の限りを芸術の力を持って羽ばたいて天高く舞い上がりたいのだ。

神がもしも雲の中で埋もれているならば、

空の隙間から私をじっと見つめて欲しい。

わたしがどんなに素晴らしい生きざまを足跡として

宇宙の中に刻印してきたかという事を知って欲しいから。

 

『自己消滅(網強迫シリーズ)』

一九六六年頃 二〇・三×二五・四二センチ フォトコラージュ 作家蔵

 

 第一展示室の『わが永遠の魂』連作に囲まれながら、泣きそうになった。周囲に誰もいなかったら泣いていたかもしれない。草間彌生は有無を言わせぬ作品の質と量でわたしたちを圧倒した。それは実に得難い経験だった。僕はこの展覧会で、確かに「素晴らしい生きざまを足跡として/宇宙の中に刻印してきた」草間芸術の素晴らしさを感受することができた。人は皆草間のように生きるべきではないのかと思った。

山本俊則

 

 

 

 

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