NHK

日曜22:00~(ドラマ10 連続10回 4月30日最終回)

 

 

 この原作は読んでいない。いくら売れたといっても、ドラマを観る人の数の方が圧倒的に多いのだから、読んでなくてもいいだろう。それにたぶん、ドラマだけを観ていたがゆえに気づいたこともある。すなわち、この作品をめぐるアトモスフィアから離れたところから眺めることができた。

 

 まずこのドラマは NHK である。NHK でなければ難しかったろうな、と思う。中身にかかわらず、そのコンテンツがあらかじめ持っている社会的な意義なり意味付けそのものをパッケージとして、有無を言わせずオンエアできるのは NHK だけだからだ。スポンサーのことを考えなくていい。

 

 もちろん、それがつまらなかった、と言っているわけではない。つまらないもつまらなくないも、原作が起こした一種のブーム、話題性の背景、その文脈を知らなければドラマを観る意義の大方は失われる。それを知っている視聴者が面白がれるかどうかは、内容もさることながら、その著者をテレビで以前から見知っているということ、そしてそれが権威ある純文学の賞を受賞したことをどう感じるかにある。

 

 率直に言えば、それがどうしたと思う。その権威ある賞は年間最大四人に与えられ、権威と話題性を維持するため、その人数の半分は少なくとも費やされるので、誰が受賞しようと半分は評価であり、半分は授賞する側の計算だ。が、それはどの賞でも同じことだ。注目すべきは、なぜそれほどまでに売れたかで、それは普段手にしない人が手にしたからだ、と言うしかない。

 

 では著者は芸能人として、それほど多くの熱心なファンを抱えていたのか、と問えば、それも違うだろう。この芥川賞受賞作を買い求めた人の多くは、著者である芸能人をそれまで知らなかったか、ほとんど意識したことのなかった人たちだろう。彼らは潜在的な文学のファンであって、芸能人としての著者のファンではない。

 

 つまり潜在的な文学のファンであった人々に、ここ何年も手に取ろうとしなかった芥川賞受賞作を買わせた、というのがブームの姿だった。そのような文学ファンにすら、昨今の芥川賞、純文学の姿はほとんど理解不能、いつの間にか関心の外になっていたものが、大きな期待をもって迎えられたのだ。その期待とは、今度こそ新しい純文学のあり方、その定義が見えるのでは、ということだったろう。

 

 その期待は応えられたのか。再び率直に言えば、この作品は文学に対して潜在的な関心のある人々に「半分は評価、半分はやる側の計算」という構造をあからさまにわからせてしまったのではないか。芥川賞もノーベル賞も、およそ賞はそういうものだが、純文学の象徴であった芥川賞を通して、文学への幻想を微かに抱いていた人々を、文壇は永遠に失ったのではないか。

 

 無論、それは著者のせいではない。誰もが自分の来し方を振り返り、秀れた小説が一編は書けるし、それ自体はかけがえのないものだ。文芸誌や出版物を手に取った瞬間、それにまつわるさまざまな文脈に絡めとられることがあるが、こうしてぼんやりテレビを眺めていると、この作品のスポンサーが〝文壇〟なのだと気づく。

田山了一

 

 

 

 

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