『滋賀櫟野寺の大観音とみほとけたち 平安の秘仏展』

於・東京国立博物館

会期=2016/09/13~12/11

入館料=1000円(一般)

カタログ=1800

 

 

 

 

 とんでもない仏様たちが東京にいらした。滋賀県甲賀市の櫟野寺(らくやじ)の仏様たちである。「(いちい)」の字がついていることからわかるように、櫟野寺のあたりはイチイの木の産地だったらしい。寺内には樹齢二千年を超すイチイの切株が残っている。この櫟野寺から重要文化財指定を受けている仏像二十体が展示されることになった。御本尊は秘仏なので、三十三年に一度の大開帳の時しか一般の目に触れることはない。平成三十年に大開帳が行われ、それに合わせて本堂や文化財収蔵庫が改修されるため、仏様たちが東博に貸し出された。

 

重要文化財『十一面観音菩薩坐像(じゅういちめんかんのんぼさつざぞう)

木造、漆箔・彩色 像高 三一二センチ 平安時代 十世紀

 

 櫟野寺の御本尊の十一面観音菩薩像は、台座から光背(仏像の後ろに取り付けられている後光を象った装飾)まで含めると、なんと五一三・三センチもある。五メートルを超す十一面観音像は、実際に目にするとやはり大迫力だった。この像が千年以上に渡って櫟野寺で大切に守り継がれてきたのである。もちろん制作当初のままのお姿というわけにはいかない。

 

 昭和四十五年(一九七〇年)から一年間をかけて十一面観音像の解体修理が行われたが、目で見てもはっきりわかるように、光背は後世の補作である。台座も補作で、解体修理の際に内部から明治四十五年(一九一二年)制作の銘札が出て来た。主幹・岡倉天心、顧問・高村光雲、工場主任・明珍(みょうちん)恒男による、日本美術院第二部の補修事業である。日本美術院は明治三十一年の東京美術学校騒動で美校の校長職を追われた天心が、同年に設立した美術家集団である。台座は光雲が指揮し、実際の制作は弟子の明珍が行ったようだ。オリジナルが残っていてそれを手本に制作したのか、新たに制作したのかはわからない。恐らく後者ではないかと思われる。

 

 国宝・重要文化財に指定されている仏像はもちろん、民間に残っている平安・鎌倉期の仏像もまた、ほぼすべてになんらかの後世の補修が入っている。千年間、木造の仏像が作られたままの姿で伝来するのは不可能なのだ。しかしどこが補修されているのかはわかりにくい。それぞれの時代の、第一級の仏師たちが補修しているからだ。仏師たちは違和感のない古い木材を使い、金箔や彩色などを加える際も、オリジナルに倣った古色を付け加えている。

 

 櫟野寺の十一面観音像も明治四十五年の修理の際、江戸期に行われた胡粉(ごふんビ)下地の彩色が剥落していたため、それを除去して漆箔を施してある。まあ見事なまでに違和感がない。さすが一流仏師の補修である。ただ古い仏像の中には、後世に金箔などを乗せて、オリジナルとはぜんぜん違う雰囲気にしてしまった例などもある。この場合、単純にオリジナル戻せばいいのかというと、そうでもない。現代では温度・湿度が一定に保たれた収蔵庫に仏像を保管することができる。しかしつい最近まで不可能だった。胡粉や金箔は、仏像を温度や湿度の変化から守る役割を果たしていたのである。全部剝がしてしまうと取り返しのつかない変化が起きてしまうかもしれない。修復はとても難しい作業である。

 

重要文化財『十一面観音菩薩坐像(じゅういちめんかんのんぼさつざぞう)』お顔のアップ

 

 十一面観音像は、像の下から髪の部分(髪際(はっさい)と呼ぶ)の高さが二三九・五センチ、約二・四メートルになる。これは丈六仏の大きさである。丈六は一丈六尺(四・八メートル)で、経典で決められた仏様の大きさである。ただ丈六は立ち姿で、坐像はその半分の八尺(二・四メートル)になる。櫟野寺の十一面観音像はきっちり丈六仏の大きさであるわけだ。いつの時代でも物を作ったり商売をする時には長さや重さの基準を定める必要がある。日本が中国の基準に倣ってそれらを定めたのは言うまでもない。正倉院所蔵の撥縷尺(ばちるじゃく)などがその最古の基準物の一つである。仏教とともに様々な知識が流入してきたのだった。

 

 ただ櫟野寺十一面観音像が、なぜ坐像であるのかは諸説あってまだはっきりした定説はない。世にある十一面観音像のほとんどは立像だ。観音様は現世を歩き回って民衆に救済を与える仏様なので立像が多いのである。これについては京都国立博物館の淺湫毅氏が魅力ある仮説を書いておられる。

 

 観音を坐像とする理由として、それが観音の住処である補陀落山使(ふだらくせん)におられるときの姿をあらわしているからではないか、との説があります。この説に従うならば、本像も補陀落山に坐す姿をイメージして造立された可能性があるかもしれません。

 櫟野寺は現在も周囲を木々に囲まれていますが、最澄が良材を求めてこの地を訪れたという伝承からもわかるように、このあたりは奈良の寺院や延暦寺の造営にあたっては、良質な木材の供給地(杣山(そまやま))であったと思われます。観音信仰と山岳や樹木への信仰は結びつきやすく、具体的に補陀落山を想定していなかったとしても、当時この地が観音の聖地であると認識されていた可能性は十分あるでしょう。

(淺湫毅「観音の聖地、櫟野寺」)

 

櫟野寺の位置

 

 櫟野寺のあたりはそうとうな田舎である。白州正子の言う「隠れ里」だ。櫟野寺開基は天台宗開祖の最澄だと言われる。比叡山に延暦寺を建立するために良木を求めて訪れた最澄が、櫟の木を彫って仏を安置したことから始まるという口碑である。最澄が比叡山に一乗止観院を建てたのは延暦七年(七八八年)で、櫟野寺の仏様はそれより百年以上後に作られているので単なる伝承かもしれない。しかし櫟野寺のような鄙に巨大な十一面観音像を作り安置するのは尋常なことではない。十一面観音像以外にも同時代の仏様が十体ほど、それ以降に作られた仏様が十体ほど伝来しているのだ。古代日本でこの地が特別な聖地と見なされていたのは間違いない。補陀落山に擬して坐像の十一面観音像を安置したという仮説は説得力がある。

 

重要文化財『吉祥天立像(きちじょうてんりゅうぞう)

木造、彩色 像高 一〇三・九センチ 平安時代 十世紀

 

重要文化財『観音菩薩立像(かんのんぼさつりゅうぞう)

木造、彩色 像高 一七〇・三センチ 平安時代 十~十一世紀

 

 櫟野寺の仏様には一定した様式が認められる。井上一稔氏が名付けた「甲賀様式」(櫟野寺様式)である。スラリとしたお姿はもちろん、裳や腰布の形が独特なのである。一番目立つ特徴は仏様の目である。図の吉祥天立像(きちじょうてんりゅうぞう)観音菩薩立像(かんのんぼさつりゅうぞう)を見ればわかるように、吊り上がった目で厳しいお顔である。この厳しいお顔は奥の院(補陀落山)に鎮座する仏様にのみ許された形式かもしれない。ほかに例がないのである

 

 また立像は人間と等身大の大きさのものであっても内刳(うちぐり)が施されていない。木は必ず収縮するので時間が経つと表面に割れ目などを生じてしまう。それを防ぐために像の内部に空洞を作って収縮を吸収し、また寄木造りで胴や手足などを別々に造って組み合わせる。櫟野寺の仏様たちは同時代より古い様式で造られた、あるいは特別な意図をもって一木で造られた可能性がある。巨大な十一面観音菩薩像もまた胴体部分は一木造りである。このくらい巨大な像なら通常なら寄木で造るだろう。よほど枯れた良木でなければ一木で大きな仏像は造れない。

 

 櫟野寺の仏様に一木造りが多いのは、開祖最澄の櫟の木の仏を安置したという口碑に合致しているかもしれない。樹木信仰と仏教が習合した可能性があるということだ。櫟野寺は仏像を生み出す聖地として、つまり仏性のオリジンとして、樹木信仰とともに人々の信仰を集めていたのかもしれない。

 

重要文化財『地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)

木造、漆箔 像高 一一〇・八センチ 平安時代 文治三年(一一八七年)

 

 地蔵菩薩坐像(じぞうぼさつざぞう)は十一面観音像などから二百年ほど時代が下って、平安時代末期に造られた仏様である。源平合戦の争乱の記憶がまだ生々い時代だった。この像の内からは文治三年(一一八七年)に蓮生(れんしょう)という僧侶が、数千人の寄進を募って造像されたという銘文が見つかった。華麗な仏様を造るのはとてつもなく大変な作業だった。平安時代頃までは国家事業として数々の仏像が建立された。鎌倉時代頃になると人々の浄財を募って仏像が造られることも多くなる。地蔵菩薩坐像も、多分今のお金で数千万円はかかっている。櫟野寺は特別な寺であり人々の信仰を集めていた聖地だったことがわかる。

山本俊則

 

 

 

 

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