絵本の賞をいくつか受賞している。絵本のイラストがどうあるべきか、ということに一つの秀れた答えを与えていると思う。それはやはり「絵画」とは違う。テキストとともにあるものなので、テキストを拒絶する性格のものではあり得ない。テキストを拒絶する、とはある種の秀れた絵画の性格だ。

 

 それを前にして言葉を失うのが絵画の圧力であるとして、その圧を生み出すものは線と色彩のアマルガムだ。その線は、白も含めた色彩に拮抗し、すなわち色の方を向いている。対してイラストはたいてい、その線でテキストと親和する。イラストの線はテキスト同様、読み解かれるような気がするものだ。

 

 物語は白いヤギが編み物をして、編まれたものが生命を得て実在してしまう、というものだ。絵本には二通りあって、あるべき物語、たとえば既成の民話などに時代や編集方針に即したイラストを添えたもの、もう一つはあるべきイラストを連ねるための物語を添えたものだ。(もちろんあるべきイラストが、既成の物語を奇跡のように見出すことも皆無ではないが。)

 

 この絵本は後者であり、物語はなんということもない。そのぶんイラストの美しさとともにメッセージ性が際立っている。毛糸で編まれて動きはじめる子ヤギやオオカミ、トラもモンスターも編み目が浮き、線の集合体からできている。それは無論、編まれたテキスト、線で描かれた文字のように、というべきだろう。毛糸の質感をしめすにじむ色彩、そして解かれて生命の痕跡をのこすばかりの糸のあり様も。

 

 このようにこのなんということのない物語には、書くことのメタファーが詰まっていて、毛糸を編むとはすなわちテキストを編纂することでもあるのだが、そういう知的な雰囲気をあまり漂わせてないところがいい。ちょっと貧相な感じの主人公の白ヤギと、豊かな色彩の毛糸の造形物のコントラストをただ見て楽しめばよいのだ。いや白ヤギも、彼女の編む手を追い詰めるヒツジのおばさんも、ほとんど目に入らないのだが。

 

 その目立たぬ主人公である白ヤギは、最後にモンスターを編み出した(文字通り)ところで、自らの創造物をコントロールする術に気がついている。糸を切らずにモンスターを放ち、用が済んだら解いてしまう。著者の特権というものだろうか。創作物は一人歩きするものと言われるものではあるが、確かに完全に著者の手をしりぞけてゆくものでもない。著作権というヒモのようなものもある。

 

 この白ヤギは、シラユキさんというこそばゆいような名前で(白ヤギでいいじゃないか、と思ったのだが)、それというのもとにかく真っ白であるらしい。雪の日などはまぎれて見えなくなるほどで、そのページのイラストは、白ヤギが輪郭を失い、白紙のページと同一化している。

 

 書くこと=編むことに憑かれた白ヤギが、靴下以外に最初に生み出したのは子ヤギで「ああ、うれしい !」と発語している。子供が生まれることのメタファーだろうが、この子らはオオカミからもすばやく逃げてしまい、丸呑みにされるのはヒツジおばさんだ。隠れて震えている白ヤギだが、創造物への無意識のコントロールははたらいているとも映り、興味深い。

金井純

 

 

 

 

■ アンネマリー・ファン・ハーリンゲンさんの本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■