高島秋穂さんの『歌誌時評』『No.026 角川短歌 2016年03月号』をアップしましたぁ。『31文字の扉――詩歌句の未来を語る』の馬場あき子さんと宇多喜代子さんの対談を取り上げておられます。お題はお雛様で馬場さんは『雛荒らしというのもやりましたね』『そこに飾ってあったお菓子は全部食べちゃうのよね。どこから食べようかって楽しくてね』と語っておられます。今ではあまりやらなくなった風習ですね。

 

雛は母似(ははに)こそなつかしも春ごとにわれは老い若き母はほほゑむ

馬場あき子

次の波次の波待つ流し雛

宇多喜代子

 

対談ではお題に沿って歌人と俳人が競詠するのですが、馬場さんも宇多さんもさすがです。名作かどうかは別として、短歌や俳句には〝挨拶〟という概念があります。人と人とが淡くすれ違った時に、記念としてお互いに作品を詠むわけです。そういった時に作家の人間的魅力がはっきり表れることもしばしばです。短歌・俳句をいつもしかつめらしい〝作品概念〟で捉えていたのでは、この文学ジャンルの本質は理解できないのではないかと思います。

 

 大局的に整理すれば短歌にあって俳句にないのは主観描写です。万葉から近代に至るまでの名歌を思い浮かべてもらえれば理解しやすいですが短歌は悲憤慷慨の表現を最も得意とします。(中略)これに対して俳句の最大の特徴は写生です。風物に限りません。自己をも客体化して写生します。その非主体的表現がある本質に届いたときに俳句は最もその輝きを放ちます。

 つまり短歌が作家の主体(体験)を中心に記憶されるのに対して俳句は優れた客観表現に達することで作家の名前が記憶されます。芭蕉の「古池や」の句は芭蕉神話に惑わされなければ無個性です。しかしいったん言語として表現され定着してしまうとそれが日本文化の精神の基底に届いていることを何人も否定できないのです。

(高島秋穂)

 

どの文学ジャンルでも、その文学の根幹を成す本質を的確に理解する必要があります。前衛を含む新たな試みは、本質理解に基づく果敢なチャレンジでなければあだ花で終わってしまいます。作家が目立ちたい、優れた作品を生み出したいという強い自我意識を抱えているのは当たり前のことです。しかしその自我意識の使い方は各ジャンルで大きく異なります。正しい方向を向いていない人間の努力は報われない。本質理解が必須です。

 

 

高島秋穂 『歌誌時評』『No.026 角川短歌 2016年03月号』 ■

 

 

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