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 織田裕二である。歳とらない。いや歳とってるのだが、何も変わってない感じがする。悪くいえば成熟がない、とも。一方でイメージが一定しているのは、俳優としてはいいことだろう。もちろん主役でしか使えないが。一定しているといっても今回は、今まで彼が演じてきた現実の男ではない。

 

 つまりそれはマンガの中にしか存在しない男である。貴族の末裔でI.Qが高く、難事件を次々解決するという。それについて第○代当主とかI.Q値とかが実際にはあり得ない数値であるといったことはどうでもいいので、だってそもそもマンガなんだから。演劇同様、リアリティがあればいいというものではない。それに合わせた織田裕二のしゃべり方がどうこうと言われているが、好みの問題に過ぎない。

 

 すなわち俳優は、たとえテレビドラマの中であってもリアリティを表現しているとはかぎらないということだ。テレビドラマは視聴者の生活の中で(かつての言葉では「お茶の間」で)展開され、それゆえにリアリティのある演技をする俳優が視聴者の興味を惹く。まるで身近に知り合った誰それの身に起こったことを間近で見ているように錯覚できるのは、テレビドラマの特権だ。

 

 織田裕二もまた、そういうリアリティを醸し出せる若手俳優の一人だった。マイペースだったり、冷たかったり、優柔不断だったりと、その主人公の性格が様々だったことを思い出すと、今更ながら驚く。どれもこれもが織田裕二のイメージに高密度に集約され、ちょっと変わり者という共通項がある。

 

 そしていかんせんリアリティを醸し出していたのは、ほかでもないこの「ちょっと変わり者」のところだったと思う。多かれ少なかれ人は、とりわけ若い男はちょっと変わっているのだ。それがまだ許される年代、立場でもある。ちょっと向こう気が強かったり、のんびり屋だったりするのは生まれや育ちからくるおまけのようなものだ。個性と呼ばれるその誤差を、視聴者は観たいわけではないだろう。

 

 年齢を重ねた織田裕二の、リアリティのない主人公に違和感を覚える視聴者がいるのは、よくわかる。ただ、とりわけ役を選ぶ織田裕二の意図をそこに読むことは、このミステリードラマのプロットよりもスリリングかもしれない。年齢を重ねて社会の構成員となり、いまや自分自身の「主人公」ではいられなくなった男のリアリティを主演する、ということを彼は選ばなかった。

 

 当然、私たちはそういう男も観たいのだ。新聞記者の佐藤浩市、税理士の橋爪功は、あっと言うほど知人の記者、税理士と同じ雰囲気を醸し出している。もっと言えば、そっくりだ。しかしそんな織田裕二を観たいだろうか。あれこれ批判しながらも、もし今、織田裕二がそういう「名優」になったら、と思うと少し怖い。

 

 マンガを原作のドラマの主人公を演じながら、マンガのキャラクター以上にインパクトを与えるという意味で、織田裕二の右に出る俳優はいない。テレビにおける繊細なリアリティの表現をみせる俳優たちが多く、テレビにおける繊細なリアリティのある脚本を必要とするのに対し、そんな前提を覆す演技もあるということだ。

田山了一

 

 

 

 

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