石川五右衛門

テレビ東京

金曜 20:00

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 昔、知り合いの女性が子供の頃に『徹子の部屋』で大川橋蔵を観て、トラウマになるほどのショックを受けた、と言っていた。もちろんあの『銭形平次』とのギャップが飲み込めなかったのだ。あそこで徹子さんと話している、あのおっちゃんが、どこをどうすると水も滴る銭形平次になるのか、何度も我が目を疑ったという。あるいは番組表の読み違いかと。悪夢を見ているようだった、とも。

 

 女形ならその化けように感嘆できるが、夢を壊すという意味で、それは罪深いかもしれない。そしてテレビにおいて、こういうことはめったに起きない。テレビというのは日常的なものであり、さらにその機能が高まるにつれて、基本的にあるがままを平板に映し出すものになったからだ。

 

 時代劇ドラマは、だから素顔もわからぬ厚塗りから、日常的なルーチンに近い型として親しまれるようになった。すなわち『水戸黄門』の印籠なり由美かおるの入浴シーンなり、といったものだ。時代劇ドラマの役者も、やがてバラエティに出ても特に違和感のない存在になっていった。

 

 だから、このドラマについてのネット上での秀逸なコメントとして、あちこちで引用されていると思しき「海老蔵が海老蔵にしか見えない」というのは実に的を射ていて、しかし致し方のないところだろう。海老蔵は舞台で日々、海老蔵であり続けているのであって、リアルな日常を再現するのが仕事の役者とは違う。よくぞ成田屋に産まれたと神に感謝すべきスターであり、別のものに見えては困るのだ。

 

 だから海老蔵というのはテレビではなかなか料理しにくい、その存在をテレビ画面に溶け込ませるのに苦労するものであるのかもしれない。かつてNHKがしたように、うんと画面を暗くする、というように。確かに普段は遠目に舞台で見る歌舞伎役者、海老蔵はそのくらいでないと別の存在を被せることはできないだろう。そのくっきりした目鼻立ちは本来、隈どられるためにあるのだ。

 

 だから今回の『石川五右衛門』は、歌舞伎のそれを演じる海老蔵を重ね合わせるという趣向である。現代ふうの時代劇ドラマを観ながら、歌舞伎の海老蔵が見得を切るところをアップで観られるのだから、おトクな気もする。その辺、ある意味でテレビ東京らしく、視聴者の立場でのコスト感覚がある。

 

 ただそれで気づいたのは、全体として眺めると、テレビドラマでもなく歌舞伎でもなく、なんとなく劇画みたいだ、ということだ。リアルに根ざしながら、一種の理想化された型にはめていくというあり方はフツーの漫画とも違い、いわゆる劇画タッチのパターンに落とし込まれる。

 

 一、二回観ると、なるほどと思い、そしてなるほど悪くない、とも思う。それでわかってしまった気になるのが、ちょっと数字が伸び悩んでいる原因かもしれない。たとえ常同的なものであってもテレビドラマにはテレビドラマの細部があり、歌舞伎には歌舞伎の愉しみ方がある。劇画というのは早い話が、表現レベルではわかりきった型にはめ、先を急がせて読ませる形式だ。よほどドキドキハラハラのプロットを要するだろう。

田山了一

 

 

 

 

■ 原作・脚本の樹林伸さんの本 ■

「でっけえ歌舞伎」入門 マンガの目で見た市川海老蔵 (講談社+α新書) 陽の鳥

 

 

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