でぶせん

テレビ版

日本テレビ

不定期

No.136_TVドラマ批評_01

 

 

 Hulu オリジナルドラマの宣伝ツールとしてのテレビ版である。コスプレが趣味のキモオタが借金苦で死のうとして、富士の樹海である白骨死体と遭遇。免許証の写真が、コスプレ時の自分とそっくりだったので、以降はその女性として生きることにする。女性は教師で、キモオタが赴任したのはトンデモなく荒れた高校、というコメディだ。いまどきあり得ないテンパッた高校生満載である。

 

 ストーリーの見どころは、この主人公の男=女性教師が、当然のことながら教育なんぞにこれっばかりの情熱も抱いてないことだ。しかしながら偶然に偶然が重なり、誤解が誤解を生んで、生徒たちの人生に深く関わるようになってしまう、ということだ。この見解はなかなか秀逸である。

 

 無論、これも漫画の原作があるわけで、漫画というのは文学同様に、著者の思想を盛り込めるジャンルとして成熟しつつあるのだな、とわかる。エンタテインメントであることは外せないが、だからといって思想が浅薄になるとはかぎらない。そもそも思想に浅薄も深遠もないので、思想たるかたりないかしかない。浅薄であれ、というような思想が深遠な現代思想だったりするのだから。

 

 まあ、ようは情熱をもってことに当たろうと、たまたまが重なってことが進もうと、結果としては変わらないのだということで、それは結構、納得がいく。もちろん意図して事に当たることと、偶然にたよることが同じ結果になることは、一般的には確率の法則としてあり得ないが。

 

 ではなぜ納得がいくかというと、教育というのが一般的なビジネス、事象ではなく、他人を変えよう、他人の思惑を操ろうとすることだからだ。生徒は思い通りにはならない。思い通りにしようとすればするほど、思い通りにならなくなる。したがって思い通りになる確率は、いくら情熱を傾けたところで、何も意図しなかったのと同じ結果になる。きわめて合理的なことだ。

 

 つまりドラマのバカバカしさが、そのまま教育というもののバカバカしさのパロディになっいるわけで、なかなか深遠ではないか。女装した主人公は、あのロビン・ウィリアムズの『ミセス・ダウト』を思い出させる。そう彼女=彼もまた、自分自身のことで手一杯な子供そのもので、その狂気が子供たちに大ウケして教育番組をヒットさせる、というストーリーだった。

 

 それでこの Hulu 肝入りのオリジナルドラマはといえば、その情熱が教育に対するのと同様に、ちょいと空回りしている感がある。配信しかしてこなかった立場でドラマを制作するとなったら、新米教師のように張り切るのは当然かもしれないが、そこは主人公を見習うべきだろう。

 

 漫画だとか既存のテレビドラマだとかがよくも悪くも手慣れているのは、伝わり方の計量がある程度、正確だというところだろう。その原作もあることだし、面白さはちゃんと視聴者に伝わる。伝わらない部分もムキになる必要はない。しつこく、うるさく説明したところで余計に伝わらなくなるのは、生徒が言うこと聞かないのと同じなのだ。

山際恭子

 

 

 

 

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