原田直次郎展 西洋画は益々奨励すべし

於・神奈川県立近代美術館

会期=2016/04/08~05/15

(埼玉県立美術館、神奈川県立近代美術館、岡山県立美術館、島根県立石見美術館を巡回)

入館料=1200円(一般)

カタログ=2500

 

 

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『原田直次郎 肖像写真』

撮影:ライヒャルト&リントナー ユリウス・エクステルへの献呈写真 明治二十年(一八八七年) 鶏卵紙、名刺判写真 バイエルン湖城庭園管理局蔵

 

 

 欧州画学の教授法はまず最初より生徒をして実物に付き研究せしめ(かたわ)ら解剖学遠近法古今の歴史風俗習慣ならびに(中略)美術精理等の講義を聞くものとし学校に(おい)ては(もっぱ)ら人体を画かしめ時と共に進歩するに随い生徒自ら歴史画工と成るとかあるいは肖像画工に成るとならざるとは各々の天才であります。実物に付き研究すといえどもその形状性質等を学ぶにありて決して形を模写するのみではありませぬ。(中略)

 歴史画ジャンル画肖像景色画に至っては洋画の最も長所にして日本画の遙かに及ばぬところであります。禽獣花器財画日本に多きは前に述べし教授法の弊と道具の不適当より来たりたるものと思います。広大なる物を描かんには道具の不適当なるゆえ畢竟かくのごとく淡泊な物を描き満足せるものと思います。

(原田直次郎『絵画改良論』明治二十年[一八八七年]十一月十九日上野公園華族会館の龍池会例会での講演。読みやすいように現代表記に直した)

 

 直次郎は明治二十年(一八八七年)七月に約三年のドイツ留学から帰国した。『絵画改良論』は同年十一月に上野の龍池会例会で行われた講演である。龍池会は九鬼隆一が日本美術保護の目的で設立した美術団体である。この頃は内部分裂により、九鬼や天心は鑑画会を設立して離れていたが、龍池会が日本美術重視の団体だったのは変わらない。直次郎も龍池会の会員だった。

 

 明治二十年当時、美術界では国粋派の台頭により洋画派は劣勢に立たされていた。多くの洋画家がドイツ帰りの直次郎に盛り返しを期待したのは言うまでもない。ただそういった対立にはいつの時代も理念と利権が入り交じる。九鬼や天心が批判の的となったのは、彼らが政府の美術系ポストをおさえていたからである。利権を抜きにすれば彼らは明治初期の美術界に多大な貢献をしている。龍池会のような美術団体も同様で、美術愛好家や美術家たちが、日本画派と洋画派に分かれて熾烈な派閥争いをしていたわけではない。龍池会会員らは洋行帰りの直次郎から、本場の洋画について学ぼうとしたのである。

 

 帰国直後の講演だが、直次郎は当時の美術状況をよく理解している。フェノロサらが唱えた日本画と洋画の折衷方針が力を得ていた時代だからこそ、直次郎はあえて日本画と洋画の違いを際立たせる議論をしている。直次郎は葛飾北斎や岩佐又兵衛らは実物の模写を行い、田能村竹田は優れた画論を書き残したが、日本画の主流はおおむね粉本に倣った花鳥風月画だったと総括している。それに対して洋画は徹底したリアリズムであり実際にモデルを使って描く絵画である。その目的は単に形を模写することにはなく、「その形状性質等を学ぶ」こと、つまり人や物の本質を捉えるためだというのが彼の思想だった。この思想に基づき、直次郎は歴史画や肖像画、それにリアルな風景画については洋画に一日の長があると結論付けている。

 

 直次郎はまた、狩野派も様々な中国絵画の影響を受け入れて変化してきたのだ述べ、折衷そのものを否定しているわけではない。しかし安易に洋画を折衷させることは、日本画の洋画化につながるだけだと警告している。おのおのの本質を理解把握した上で、その影響を受容すべきだというのが彼の考えだった。

 

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原田直次郎作『騎龍観音』

油彩、カンヴァス 明治二十三年(一八九〇年) 縦二七二×横一八一センチ 重要文化財 護国寺蔵

 

 『騎龍観音』は明治二十三年(一八九〇年)の第三回内国博覧会に出品された。上野公園が会場だが、四月から七月までの会期中に百万人を超える来場者があったとのだという。この作品については日本最初の自由詩詩集『新体詩抄』(ただしほとんどが翻訳)をまとめた外山正一(まさかず)が、「チャネリ(当時イタリアから来日していたチャネリ大曲馬団)の女が綱渡りをするの画なるやと疑はしむ」と酷評した。これを激しく論駁したのが直次郎の盟友、森鷗外だった。外山は観音を描くなら信仰心がなければならないが、直次郎の絵にはそれが感じられないと批判した。それに対して鷗外は絵画に信仰心は必ずしも必要ではない、絵の美的価値が重要なのだと芸術至上論を展開したのである。

 

 ざっくばらんな言い方をすれば、外山博士はしばしば教条主義的な文章を書く方だったが、小倉左遷以前の鷗外のエリート臭もまた相当なものだった。坪内逍遙との『没理論争』と同じように、外山への反論でも誰も知らないようなヨーロッパ哲学や美学を持ち出して相手をねじ伏せようとしている。初期の鷗外の論争がほぼすべてそうであるように、外山との論争も痛み分けだった(外山は鷗外のやり方を見切ったように再反論していない)。作品の大きさや残された絵の少なさから『騎龍観音』は直次郎の代表作にならざるを得ないが、十全に彼の画才が表現された絵だとは言えない。ただ『騎龍観音』は直次郎の渾身の挑戦作だった。

 

 我邦人の西洋画に入るや(あたか)も昔時の文人が漢詩を学びそめしをりの如く和習(わしゅう)、余りありて欧州の趣味、足らざりしが今や(ようや)(その)歩を進めて和習の(ろう)を捨て闖然(ちんぜん)として西洋作家の室に入らむとするものに似たり。(中略)これに反して東洋画家は近時に至りて(わず)かに(すこ)しく欧州の趣味を帯び来たりしか(ゆえ)に其面目に一種不了(ふりょう)(ところ)ありて(かえ)りて昔時の純然たる東洋趣味を(ぞん)じたるものに劣れるかと思はる。

(原田直次郎『(また)饒舌』明治二十三年(一八九〇年)「国民新聞」四月十一日)

 

 『(また)饒舌』は第三回内国博覧会の紹介文として書かれた。直次郎は、明治初期の洋画には昔の文人が漢詩を学ぼうとした時と同様に和臭が入り交じっていたが、第三回内国博出品作はヨーロッパ絵画と同質のレベルに近づいていると述べている。その是非はともかく、洋画は日本画とは別にその本質を学ばなければならない、というのが彼の一貫した考えだった。

 

 ただ洋画家として直次郎はさらに高次の表現を求めていた。日本画が洋画の特徴を折衷的に取り入れて衰退したというのは一種の反語である。直次郎は『騎龍観音』でヨーロッパ絵画の本質を取り入れた日本の洋画を表現しようとしている。『(また)饒舌』を掲載した国民新聞で、直次郎は内国博の絵画批評を掲載する予定だった。しかしその役割を鷗外に委ねた。内国博の洋画の審査員に任命されたからだと言われるが、自らの筆で意欲作『騎龍観音』を批評することを嫌ったのだろう。

 

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原田直次郎作『素戔嗚尊八岐大蛇(すさのおのみことやまたのおろち)退治画稿』

油彩、カンヴァス 明治二十八年(一八九五年) 縦七七・七×横五三・五センチ 岡山県立美術館蔵

 

 直次郎は明治二十八年(一八九五年)にも歴史画である『素戔嗚尊八岐大蛇(すさのおのみことやまたのおろち)退治画稿』を描いている。『絵画改良論』で日本画には優れた歴史画、肖像画が少ないと述べていたが、日本の洋画家として果敢にそれに挑戦したのである。その意味で『素戔嗚尊(すさのおのみこと)』は黒田清輝の『智・感・情』(明治三十二年[一八九九年])と同様の意欲作だった。留学先がドイツとフランスで直接の交流はないが、直次郎と黒田は同じ明治十七年(一八八四年)に欧州留学している。

 

 ただ直次郎は『素戔嗚尊(すさのおのみこと)』を『騎龍観音』と同様の大作として完成させられなかった。明治二十四年(一八九一年)頃から兄豊吉の命を奪ったのと同じ結核に冒されていたのである。黒田は天心追放後の明治三十一年(一八九八年)に東京美術学校に初めて開設された西洋画科の教授になったが、直次郎はその頃、結核の療養のために神奈川の子安村に転居していた。翌明治三十二年(一八九九年)、直次郎は帝国大学病院で三十六歳の短い人生を閉じた。

 

 直次郎が始めた歴史画は、その後、青木繁の『海の幸』(明治三十七年[一九〇四年])や『わだつみのいろこの宮』(明治四十年[一九〇七年])などを生んでゆくことになる。また明治時代とは違う天皇中心の国粋主義の盛り上がりもあって、日本画の世界で安田靫彦らの歴史画ジャンルを生んだ。彼らが登場してくるのは直次郎の時代よりわずか十年ほど後である。しかしその表現は、直次郎の生硬な『騎龍観音』よりも遙かに洗練されている。

 

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原田直次郎作『風景』

油彩、カンヴァス 明治十九年(一八八六年) 縦七六・二×横一〇六・七センチ 岡山県立美術館蔵

 

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原田直次郎作『風景』

油彩、板 制作年不明 縦三〇・五×横二二・二センチ 東京藝術大学蔵

 

 ドイツ留学時代と、制作年は不明だが帰国後の『風景』作品である。ドイツ作は昼間、帰国後作は夕方の『風景』だろう。肖像画だけでなく、風景画でも直次郎の画法は一貫している。単に風景をリアルに描こうとしているのではなく、ヨーロッパと日本の風景の本質、その違いを鮮やかに際立たせて表現している。

 

 よく知られているように、黒田清輝の印象派風の明るい画風は「外光派」(紫派、新派)と呼ばれ、高橋由一や直次郎らの画風は「脂派」(旧派)と呼ばれ蔑まれるようになった。しかしそれは一面的な捉え方に過ぎない。確かに由一や直次郎の作品には暗い背景のものが多いが、それは人や物の本質を捉えようと対象にフォーカスしているからである。このような本質重視のリアリズム絵画は岸田劉生らにも受け継がれている。岸田の絵の多くも暗い。外光派(新派)がその後の洋画を担ったわけではなく、脂派(旧派)と呼ばれた絵画手法との綜合の内に日本の洋画は発展している。

 

 黒田は師コランの教えに忠実に、思い切って印象派の画風を取り入れなかった。だが外光派は印象派の先駆けだった。印象派を嚆矢として、日本美術(主に洋画)は現在に至るまで、欧米の最新絵画動向を貪欲に取り入れ続けている。それは前衛美術として日本美術を様々に活性化してきた。しかし日本の洋画の骨格は脂派的な本質リアリズム絵画にある。

 

 ニューヨーク中心の世界的前衛アート市場を中心に考えれば、世界標準として通用する日本の画家たちは、欧米的前衛美術を積極的に取り入れた作家たちである。しかし熊谷守一を始めとして、日本国内で高く評価されている画家たちの作品は質的に違う。それは具象抽象絵画であり、リアリズムとは人や物の本質を捉える絵画だと直観した直次郎らの仕事の延長線上にある。その上に欧米の前衛アートの影響が付加されている。

 

 二十一世紀の情報化時代の到来とともに、世界は激しく均質化している。その中で様々な国家、文化の微細な差異が従来より見えやすくなっている。洋画は明治維新と同時に新しく流入した表現ジャンルであり、欧米の基準でそれが評価されるのは半ば必然である。しかし均質化の時代は多様化の時代でもある。従来的欧米美術史観だけでなく、直次郎らが確立しようとした〝日本の洋画〟という観点からも美術史を見直してみる必要があるだろう。(了)

山本俊則

 

 

 

 

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