原田直次郎展 西洋画は益々奨励すべし

於・神奈川県立近代美術館

会期=2016/04/08~05/15

(埼玉県立美術館、神奈川県立近代美術館、岡山県立美術館、島根県立石見美術館を巡回)

入館料=1200円(一般)

カタログ=2500

 

 

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『ミュンヘンにて』

左から岩佐新、原田直次郎、森鷗外 撮影 ヴェルナール写真館 明治十九年(一八八六年)八月二十七日 鶏卵紙、名刺判写真 森鷗外記念館蔵

 

 

 前回黒田清輝展を取り上げたが、この展覧会は生誕百五十年を記念した初めての大規模回顧展だった。埼玉県立美術館から始まった原田直次郎展も同様である。原田の大規模展覧会は、明治四十二年(一九〇九年)に没後十年を記念して森鷗外らの尽力で東京美術学校で開催されて以来、およそ百年ぶりである。様々な事情で一日しか開催されなかったが、翌年画集『原田先生記念帖』が刊行された。限定百二十部の豪華本で、展覧会に協力した人々に頒布されたのだろう。黒田清輝も賛同者に名を連ねている。『記念帖』は鷗外中心に編まれたが、今回の回顧展が開催されるまで、この『記念帖』が原田のほぼ唯一のまとまった画集だった。仕事を本にまとめることの意味を知っていた文筆家が友人だったことは、原田にとって幸いだった。

 

 原田の回顧展が開催されなかったのは理由がある。彼は満三十六歳で夭折してしまった。本格的に画業に取り組んだのは十数年に過ぎない。しかし原田の画業は気になる。絵が上手いかどうかという点で言えば、原田の画力は抜群だった。黒田の『湖畔』のように、多くの人が頭の中に思い浮かべられるような代表作はないが、絵で表現された画家の確信という意味では黒田を凌ぐだろう。残された絵は少ないが、作品そのものの力から言えば、その後の日本洋画界に与えた影響という点でも黒田を凌ぐかもしれない。

 

 直次郎は最幕末の文久三年(一八六三年)に江戸小石川で生まれた。父は備前岡山鴨方藩の原田一道(かずみち)で、母は旗本・川路聖謨(としあきら)の用人・富塚順作の娘だった。父・一道は直次郎が生まれた文久三年に、池田長発(ながおき)渡欧使節団に随行してヨーロッパに渡った。池田使節団の目的は、同年十月に起こったフランス軍士官殺害事件(井土ヶ谷事件)をフランス側に謝罪し、安政六年(一八五九年)に開港した横浜の再閉鎖を交渉することだった。

 

 翌元治元年(一八六四年)、一道は使節団と分かれてパリからオランダに渡った。オランダでは文久二年(一八六二年)から、幕府留学生らが滞在して軍事を勉強していた。榎本武揚、赤松則良(のりよし)西周(にしあまね)らである。西は鷗外の親戚で、鷗外の最初の妻は赤松則良の娘だった。もちろん政略結婚である。一道はオランダ陸軍士官学校で兵学を学び、帰国後開成所教授になって軍事を教えた。明治四年(一八七一年)には岩倉使節団に随行して再渡欧している。明治六年(一八七三年)には陸軍大佐となり、その後元老院議官、貴族院議員などの要職に就き男爵に叙せられた。

 

 明治が薩長土肥の藩閥政治時代だったことはよく知られている。旧幕臣(佐幕派)は冷遇されたわけだが、それでも明治の元勲と呼ばれた指導者たちは、有為の佐幕派を積極的に登用した。一道もまた軍事の専門家として明治新政府を支えたのである。ただ幕末に、物質的にも文化的にも圧倒的に進んだヨーロッパを実際に体験した父を持ったことは、直次郎、それに三歳年上の兄・豊吉の進路を決めることになった。

 

 豊吉は弱冠十四歳でドイツに留学し、一八八二年(明治十五)年、十九歳の時にミュンヘン大学で学位を取得してから、ウィーンのオーストリア帝国地質学研究所に入って勉強を続けた。帰国後は帝国大学で地質学の教授になった。前任教授はドイツ人地質学者ナウマンだった。豊吉はナウマンと日本列島の地質学的構造について論争もしている。鷗外がドイツ留学直後に現地の晩餐会で、日本を後進国と決めつけたナウマンに対して、ドイツ語で即席の反駁スピーチをしたことはよく知られている。鷗外と直次郎をつなぐかすかな縁はこんなところにもあるわけだ。

 

 直次郎は明治十七年(一八八四年)、二十一歳の時にドイツに留学した。兄豊吉と同様、私費留学で、最初から絵を学ぶのが目的だった。直次郎はミュンヘン美術アカデミーに入学して画業を開始した。また豊吉の紹介で画家ガブリエル・フォン・マックスのアトリエにも通った。鷗外は二年前の明治十五年(一八八二年)から衛生学を学ぶためにドイツに留学していた。直次郎と鷗外が知り合ったのは、明治十九年(一八八六年)三月のことだった。

 

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原田直次郎作『靴屋の親爺』

油彩、カンヴァス 明治十九年(一八八六年) 縦六〇・三×横四六・五センチ 重要文化財 東京藝術大学蔵

 

 渡欧前の直次郎の作品はほとんど残っていないが、留学中の絵から、彼が日本にいる間にすでに高い絵画技術を身につけていたことがわかる。『靴屋の親爺』はドイツ時代の代表作である。日本画では対象そっくりに描く肖像画を「似絵(にせえ)」と呼ぶ。しかし通常は、大胆に簡略化して人の顔を描くのが一般的だった。言うまでもなくリアリズムを追求したヨーロッパ絵画はその逆である。欧米人の顔は東洋人と比べて立体的ということもあって、渡欧して優れたヨーロッパ人の肖像画を描いた画家は多い。時代は下るが中には佐伯祐三のように、ヨーロッパにいなければ思うような絵が描けなくなってしまった画家もいる。直次郎も欧米人の顔の方が描きやすかっただろう。しかしこの絵には、そのような初歩の利点を超えた迫力がある。

 

 直次郎の描き方は、服の細部に至るまで確信的だ。画家の迷いがほとんど読み取れない。それは背景の処理の仕方にも表れている。肖像画の背景はたいてい無地で、それは人物以外を描く意志がなかったことを示している。直次郎は人物の髪から服の皺や汚れまでを詳細に描くことで、その内面までを表現しようとしている。

 

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原田直次郎作『高橋由一(ゆいち)像』

油彩、カンヴァス 明治二十六年(一八九三年) 縦六〇・六×横四四・七センチ 東京藝術大学蔵

 

 直次郎は明治七年(一八七四年)、十一歳の時に山岡成章に絵を習っている。山岡は画家としては著名ではないが、明治時代で初めての絵入り図画教科書『小学画学書』を作った人である。直次郎は最初から洋画に興味があったようだ。また明治十六年(一八八三年)には高橋由一(ゆいち)の天絵学舎に入門して洋画を学んだ。由一門で修行したのはドイツ留学するまでの一年弱に過ぎないが、明治二十六年(一八九三年)には由一の肖像画を描いている。肖像画を描いた当時、由一はまだ存命だったが(翌明治二十七年[一八九四年]没)、ほかの肖像画でも行っているように、直次郎は写真を元に肖像画を描いたのかもしれない。ただ人物の描き方は基本的に『靴屋の親爺』と同じである。背景を無地で処理し、師の内面にまで肉薄している。

 

 高橋由一は江戸後期の文政十一年(一八二三年)に、佐野藩(現栃木県)の定府勤めの武士の子として生まれた。嘉永年間から洋画研究を始め、慶応二年(一八六六年)には横浜居留区のイギリス人、ワーグマンに師事して本格的な画業を開始した。維新後はイタリア人画家フォンタネージに師事した。幕末には司馬江漢を始めとして洋画を試みる絵師が現れてくるが、由一は本格的に洋画を学び、洋画家として立とうとした最初の一人である。

 

 教科書に載っているのでご存じの方も多いと思うが、由一の代表作に『鮭』がある。何枚か鮭を描いているが、重要文化財に指定されている絵は縦一四〇センチ、横四六・五センチの巨大な作品だ。実物を見ると、なぜこんなに大きな鮭を描いたのかと思ってしまう。ただその答えは意外に簡単なものだろう。由一は鮭だけを見つめ、鮭だけを描きたかったのである。鮭の背景はいずれも無地である。由一には新吉原の娼妓・小稲をモデルにした『花魁』という肖像画の代表作もあるが、その背景も無地だ。由一は背景を消し去ることで人物や対象の本質に迫ろうとしている。

 

 洋画の受容については様々に検討・研究されている。ただ大量のヨーロッパ絵画を目にした明治初期の日本の画家が最も衝撃を受けたのは、そのリアリズムである。由一はヨーロッパ絵画がリアリズムによって人や物の本質に肉薄しようとする絵画であることを初めて見定めた画家だろう。直次郎はそのような由一の姿勢を最も正統に受け継いだ画家である。

 

 由一は明治五年(一八七二年)の、町田久成(初代帝国博物館[現・東京国立博物館]館長)を団長とする近代になってから初めての正倉院調査(壬申調査)に随行するなど、明治初期には政府関係の仕事を精力的にこなした。大学南校(後の帝国大学)の画学教員なども勤めたが、明治六年(一八七三年)にはすべての官職を退いて画塾天絵学舎を開いた。明治九年(一八七六年)には師のフォンタネージが画学科の教師になって洋画を教える工部美術学校が開校したが、財政難や国粋主義の台頭で明治十六年(一八八三年)に閉校してしまった。その後明治二十年(一八八七年)にフェノロサと岡倉天心が中心になって東京美術学校(現・東京藝大)が開校したが、伝統的日本美術保護の観点から西洋画科は設置されなかった。

 

(洋画家を批判する日本新聞の)論者の(いわ)く。「洋風技術家(洋画家)は政府が日本の美術に特別の保護を与ふることを非とするか、九鬼(隆一)氏が特に日本美術を賞揚することを非とするか、云々」。洋風技術家中一人たりとも、かかることを非とするものあらむや。「西洋画は益々奨励すべし。日本画は(すべからく)く保存すべし」。()れ洋風技術家の持論なるぞ。論者又之(またこれ)をも記憶せよ。

(原田直次郎『日本新聞第千百六十六号に見えたる西洋美術家と題する論文を読みて』明治二十五年[一八九二年]八月二十三日)

 

 明治初期の美術行政を司っていたのは、文部省で絶大な力をふるった九鬼隆一男爵(哲学者九鬼周造の父)だった。直次郎の時代にはすでに文部省を退官していたが、東京美術学校を設立したのは九鬼の後ろ盾を得たアーネスト・フェノロサと岡倉天心だった。九鬼は明治十年代後半から始まった国粋主義思想の持ち主で、フェノロサと天心もまた日本美術保護を重視したため、美術学校開設時に西洋画科が設置されなかったのである。

 

 右寄りの日本新聞は彼らを支持した。ただ単純な翼賛新聞ではない。明治初期には極右と言えるような新聞・雑誌があり、政府の施策は手ぬるいと厳しく批判した。そのため日本新聞は何度も発禁処分を受けている。なお正岡子規は亡くなるまで日本新聞の在宅記者だった。社主の陸羯南(くがかつなん)が明治の新たな俳句が必要だと考え、子規を文化欄の記者として登用したのだった。羯南は子規が結核で病臥して出社できなくなってからも、在宅記者として給料を払いその生活を支え続けた。

 

 直次郎は日本新聞記者の、洋画家たちはなぜ日本美術保護を批判するのか、なぜ九鬼隆一男爵を個人攻撃するのかという内容の記事に反駁している。九鬼については「今の(美術行政)当局者は九鬼氏(その)首領にして、他に濱尾新、岡倉覚三(天心)氏の二氏あるといふのみ」と留保しているが、日本画と洋画の関係については、「西洋画は益々奨励すべし。日本画は(すべからく)く保存すべし」というのがすべての洋画家の考えだと書いている。ただ直次郎は九鬼や天心の、伝統的日本美術を保護育成しながら、そこに洋画の要素を取り入れるという折衷主義には反対だった。

 

 直次郎は「洋風技術家は(むし)ろ淡泊なる桜の傍に、濃紅にして(こえ)ある薔薇を添へて、(たがい)其妙趣(そのみょうしゅ)を発せしめむとや言ふべからむ。論者(日本新聞記者)の()はるる、混合説、(すなわ)ち美術学校の取長説(しゅちょうせつ)こそ殺風景の注文なるべきなれ」と書いている。日本画に折衷的に洋画の長所を取り入れていたのでは日本美術は発展しない、日本画と洋画は質的に異なるものだというのが直次郎の考えだった。(後編に続く)

山本俊則

 

 

 

 

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