生誕150黒田清輝 日本近代絵画の巨匠

於・東京国立博物館

会期=2016/03/23~05/15

入館料=1600円(一般)

カタログ=2500

 

 

美術展時評_No.053_04

黒田清輝作『朝妝』

カンヴァス、油彩 明治二十六年(一八九三年) 縦一七八・五×横九八センチ(戦災で焼失)

 

 

 『朝妝』はフランスのサロンで入選した作品で、住友財閥の住友友純が所蔵していたが第二次世界大戦の空襲で焼失した。この作品は明治二十七年(一八九四年)の第六回明治美術会展などで展示されたが、風俗壊乱的な春画だという批判が一部で起こった。「裸体画論争」である。明治三十四年(一九〇一年)の第六回白馬会展では裸体画の一部を布で隠す、いわゆる「腰巻事件」も起こって大きな社会的スキャンダルになった。現代ですらヌード――特に女性の――を芸術と捉えるかポルノまがいの表現とみなすかは、時に議論になることがある。明治大正時代はなおさらだった。江戸が遠くない当時、女性のヌードが描かれているのは男たちが秘蔵する春本と相場が決まっていたのである。

 

 幕末生まれの清輝が、同時代の日本の精神風土を知らなかったはずはない。しかし彼はヌードの美的価値を確信していた。久米桂一郎、合田清宛の手紙で「どう考へても裸体画を春画と見做(みな)す理由が何処に有る 世界普通のエステチックは勿論日本の美術の将来に取つても裸体画の悪いと云事(いうこと)は決してない 悪いどころか必要なのだ (おおい)に奨励す()きだ」(明治二十八年[一八九五年]三月二十八日付)と書いている。清輝はヌードは世界標準の美だと捉えていた。実際、明治初期にヨーロッパに留学した画学生の中で、清輝ほど女性のヌードを描いた画家はいない。そこにはもちろん師コランの影響がある。

 

美術展時評_No.053_05

ラファエル・コラン作『フロレアル(花月)』

カンヴァス、油彩 一八八六年(明治十九年) 縦一一〇×横一八五センチ オルセー美術館蔵

 

美術展時評_No.053_06

黒田清輝作『野辺』

カンヴァス、油彩 明治四十年(一九〇七年) 縦五四・九×横七二・八センチ ポーラ美術館

 

 コランと清輝の横臥する女性のヌード作品である。コランの画風を簡単に要約すると、骨格はアカデミズムで、その上にうっすらと同時代の神秘主義的象徴主義や印象派の影響が乗っている。描かれた女性の顔もポーズも、単なるヌード以上の何かを訴えかけている。清輝は「名画と()はれる(ほど)のものは、(その)筆者の意見や目的が充分に現はれて()るが上に、その形体に(おい)ても(また)云ふ迄も無く立派なもので、即ち内容外形相応(あいおう)じて美を成立せしめてゐる」(『日本現今の油絵に就て』明治三十六年[一九〇三年])と書いたが、これは師の教えだろう。だが作品を見比べれば、コランと清輝の作風の違いは一目瞭然である。

 

 清輝は、コランは弟子たちに師風を強要することはなかったと回想している。しかし一家を確立した画家として、コランが自己の作風によって他者の作品を評価する傾向があったのは自然である。コランはパリ万博に出品された『智・感・情』(Etudes de Femmes[女性習作])を見て、黒田は日本に帰って腕が落ちたと言ったと伝えられる。コランの画風を基準とすれば当然の評価だろう。

 

 ただ清輝が、『智・感・情』を〝コラン的な日本のヌード〟として描いたのは明らかである。その意味で『智・感・情』は日本の画家というアイデンティティと使命感をもって、清輝がフランス画壇に挑戦した意欲作だった。だが数百年の歴史を持つヨーロッパ絵画、特に完成の極みに達し、コランや清輝の時代にその解体が始まっていたアカデミズム絵画を規範とするのは、やはり限界があった。

 

美術展時評_No.053_07

黒田清輝作『白き着物を着せる西洋夫人』

カンヴァス、油彩 明治二十五年(一八九二年) 縦七九・五×横四三・六センチ ひろしま美術館

 

 パリ留学中の作品だが、清輝本来の資質が印象派的画法にあったのは明らかである。清輝は『落穂拾い』で有名なミレーに惹かれ、ミレー作品を模写するだけでなく、実際にフォンテーヌブローを訪れて絵を描いている。ミレーらのバルビゾン派が絵に特定の寓意や思想を込めない、汎神論的な印象派の下地の一つになったのは周知の通りである。清輝は日本文化の底流を為す風景画(春夏秋冬の循環性)に導かれるようにバルビゾン派に接近していったのだろう。その上で、明治維新まで存在しなかった絵画的思想性(清輝が構想したコンセプチャルな絵は「構想画」と呼ばれる)を積極的に取り入れようとした。しかしどちらに主軸を置くのかは最後まで明確にできなかった。

 

美術展時評_No.053_08

黒田清輝作『木かげ』

カンヴァス、油彩 明治三十一年(一八九八年) 縦七八×横九三・七センチ 公益財団法人 ウッドワン美術館蔵

 

 『木かげ』は明治三十一年(一八九八年)一月から八月にかけて、逗子に滞在したおりに描かれた。逗子の旅館の娘をモデルにしたようだ。このような何気ない作品の方にこそ清輝らしさが表れている。絵画の思想は絵に付加するものではなく、自ずから絵から発散してくるものである。モデルに肉薄しながら、その儚く美しい一瞬を、世界(風景)に溶け込むように描く方法は清輝ならではのものである。

 

 『木かげ』を描いた明治三十一年春、東京美術学校では大騒動が起こっていた。文部省で絶大な力をふるった九鬼隆一男爵(哲学者九鬼周造の父)を後ろ盾にし、東京美術学校を設立した岡倉天心(美校初代校長には天心の盟友アーネスト・フェノロサが就任した)が、校長の職を更迭されたのである。いわゆる美術学校騒動である。天心辞任に抗議して、橋本雅邦や菱田春草、横山大観らも教授の職を辞した。ほぼ全員日本画の画家たちだった。

 

 明治十年代には猛烈な欧化主義が吹き荒れ、日本文化は欧米文化に劣るという考えが蔓延した。明治政府の廃仏毀釈の影響もあり、多くの仏閣が荒廃し、それまで守り継がれてきた貴重な美術品が次々に海外流失した。ただ美術の世界ではよくあることだが、それがかえって海外での日本美術の評価を高めることになった。フェノロサも日本美術に魅せられた外国人の一人だった。

 

 天心が美術家として本格的に活動を開始したのは明治二十年代だが、その頃には十年代とは逆に国粋主義的な機運が起こり始めていた。日本ではよくあることだが、新たな外来文化が流入するとまずそれを熱狂的に受け入れ、次いでその反動として国粋主義が盛り上がり、それから外来文化と従来文化の折衷が始まるのである。明治二十年代は十年代の反動期だった。

 

 日本文化がカウンターカルチャーであったアメリカ人のフェノロサは、当然のように伝統的日本文化を守るべきだと主張した。そのため東京美術学校設立当時、日本画の学科は設けられたが西洋画科設置は見送られた。天心もそれに賛同した。天心を単純な国粋主義的美術家と言うことはできないが、時代背景が日本美術保護の方針を採らせたのである。ただ天心の傲慢で強引な性格も災いして、美校の西洋画科設置問題は次第に学内政争の道具となっていった。明治三十一年の美術学校騒動は、実質的に美校からの天心追放運動だった。

 

 清輝は美術学校騒動を避けるように逗子に滞在して絵を描いた。清輝は美校西洋画科初代教授になったわけだが、天心を巡る騒動は彼の関知するところではなかったのだろう。穏和な性格だったので、このような争いごとを嫌ったのかもしれない。ただ岡倉天心という化け物じみた美術家(天心は美術指導者であり論客だったが画家ではなかった)が、明治初期の美術界にくっきりとした爪痕を残したのに対し、清輝の指導者としての功績は希薄である。なるほど彼は政府系の帝国美術院院長、貴族院議員などの要職に就き、高所から美術界に貢献したとは言える。しかしそのポストは清輝がいなければ誰かが埋めた職である。明治四十年代以降、美術家・清輝の社会的地位はどんどん上がってゆくが、それと反比例するように美術界での影響は薄れてゆく。

 

 明治は激動の時代で、ほぼ十年ごとに社会・文化状況が大きく変わる。文学の世界では明治二十年代は文語体小説全盛期で、この時代を代表する作家、尾崎紅葉、幸田露伴の名前をとって「紅露時代」と呼ばれる。三十年代に発表された紅葉の『金色夜叉』が、明治時代最大のベストセラーになったのは周知の通りである。しかし三十年代末には言文一致体の島崎藤村の『破戒』が発表され、近現代文学の祖と呼ばれる夏目漱石が『吾輩は猫である』でデビューする。これとほぼ同じことが絵画界でも起こった。

 

 清輝は「日本人の頭脳(あたま)から出ると()ふ事柄に(つい)て、油絵も(つい)に日本化させられて一種(また)違った日本風と云ふものになることは()まつて()る」(明治三十五年[一九〇二年])と語ったが、それは特別なヴィジョンではなかった。またこのヴィジョンを牽引したのは藤島武二や青木繁、梅原龍三郎、安井曾太郎らの後進世代だった。晩年近くになって清輝は「私の(よく)を言へば、一体にもう少し、スケツチの域を脱して、()()ふものになる(よう)に進みたいと思ふ。まだ(ほと)んどタブロウと云ふものを作る腕がない」(大正五年[一九一六年])とも語った。謙遜混じりの言葉だが、公務で多忙を極めて画業に専念できないというジレンマも感じていただろう。ただ清輝が、最後まで彼の画風を確立できなかったのも確かだと思う。

 

 元々素直な性格だったのか、本場の油絵を学び吸収しなければならないという使命感ゆえか、清輝は師コランの教えをほぼ絶対として受け入れていた。しかし師と自己との資質の違いをはっきり認識し、画家として独立不羈の画風を打ち立てるという強い自我意識が欠けていた。清輝の絵は必ずしもコランの影響ばかりでなく、「外光派」と呼ばれるにふさわしい明るさを備えていた。だが彼の資質をさらに伸ばすことができる印象派の技法を取り入れ、それを軸に日本の洋画独自の表現を確立するまでには至らなかったのである。

 

美術展時評_No.053_09

黒田清輝作『夫人肖像』

カンヴァス、油彩 大正元年(一九一二年) 縦六五・八×横五〇・四センチ 東京国立博物館蔵

 

 清輝は大正元年(一九一二年)にも照子夫人(清輝[きよてる]の読みを取って種子から照子に改名)の肖像画を描いている。生誕一五〇年の二〇一六年になるまで清輝の大規模回顧展が開かれなかったのは、言いにくいが半ば必然だと思う。社会的地位は高かったが、清輝はほとんど『湖畔』一作で記憶されている画家である。青木繁や熊谷守一、梅原龍三郎らがその後の日本洋画界に与えたような影響力は清輝の画業にはない。ただ画家に限らず、創作者はその最高の作品によって全仕事が評価される。清輝が『湖畔』を描き残したのは幸いだった。この絵が傑作になったのは、やはり対象への強い愛があったからだろう。(了)

山本俊則

 

 

 

 

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