ゆとりですがなにか

日本テレビ

日曜 22:30

No.115_TVドラマ批評_01

 

 

 クドカン初の社会派ドラマということである。ゆとり第一世代の29歳の若者たちが社会で苦闘する姿を描いている、ということだし、過労死としての自殺の問題が出てくるし、なのだけれど、さてところで「社会派」の定義ってなんだったっけ、と考えてしまった。

 

 それでやっぱりノリが重いのかな、という感じもしたけれど、子持ちの風俗店の呼び込み(柳楽優弥)が東大目指してたりして、結局そういうことはない。いつものように面白く観られて、だからこそこの面白さの中心というのは、いわゆる社会派ドラマに対する興味の中心とはズレて、違う気がする。それがどうしたではあるけれど、そこにこだわるとクドカンの中心というものが逆に見えてきはする。

 

 つまり社会派ドラマを観るときの我々の関心事は、それで誰が悪いのか、というところにある。悪いというのはどう悪いかというと、誰かの利益を害した、という意味で悪いのだ。そしてその利益とは、必ずしも主人公のものではなくとも、決して損なわれるべきでないものである。

 

 すなわちそれが社会的弱者の幸福なら、例えば『白い巨塔』での、ご主人を医療ミスで亡くしたお弁当屋の奥さんならば、我々はその利害を自分のものとして感情移入できる。さらに主人公の過去もたいていは、その時代や構造における弱者に属していて、視聴者が同情すべき傷を抱えているので、主人公がたとえ悪い方の側であっても、根本的に誰が悪いのか、という問いは最後まで持続する。

 

 クドカンのドラマには、誰が悪いのか追及しようという姿勢は無論ない。っていうか、もしあったらクドカンのドラマとしては観たくない。社会派の意識は社会には必要なものかもしれないが、我々は社会派の問題軸がなくても日々暮らしてゆくのだし、どんな社会になろうとそうやって生きていく、と示されていれば普遍的に共感できる。クドカンのドラマにハズレが少ないのは、そのせいだろう。

 

 登場人物たちがときおり吐く名言の類いは、だから社会を批判するものではなく、強いて言えばそんな世の中をかいくぐって生きてゆくための心がけ、みたいなものである。ゆとり第一世代の主人公が会社で難儀しても、就活に挫折しそうな妹に「お兄ちゃんは、モトとるまで絶対辞めねえぞ」と説教する。ここで辞めたら何も残らない、という利害の計算は社会でなく、個人に属する。

 

 その個人的でセコいような計算が、社会派の告発と同じくらいには我々に響く。セコいがゆえに切実だからだし、ゆとりだろうが何だろうが異星人というわけではない。人の考えること、感じることはどの世代、どんな風体でも一緒なのだ、と説得されるとき、そのカバーする範囲は社会派に劣るまい。

 

 色白でヤワそうで、いかにもゆとりな岡田将生が「モトとるまで辞めない」と言い放つとき、我々はだからやっぱり「感動」できる。ヤクザだろうと元アイドルだろうと、ゆとりだろうとそこ、変わらないとわからせるのがクドカンの芸だし、違う立場の者に「倍返しだ」と叫ぶドラマとは違っていい。

田山了一

 

 

 

 

 

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