No.044_絵のある_01

 

 

 長野県の鬼無里(きなさ)村周辺の伝説をまとめた郷土の本である。鬼無里という名の由来を推察するところからも、豊かな物語に満ちている。古来からの地名や言い伝えに想像が深まり、果てしなく広がりをみせるのにある意味、それを留めるのはその地の写真である。

 

 豊かな物語の里は、日本各地にある。それはその土地の財産であり、郷土愛の発露にはまたとない。ただ、都会に暮らすがゆえの屈折した視点と言われるだろうが、そのような伝承、古来の言い伝えが何もない土地、というものがあるのだろうか。そういったものが皆無である、というのもいっそ清々しい気もする。

 

 物語が穢れであるとまでは思わないけれど、ようするに人が棲むところに必ず生じるものが伝承なのだろう。それが一切ないのは、人語を語らぬ動物しか暮らしてこなかった山中や砂漠に相違ない。人が足を踏み入れれば、その場所にまつわる出来事が生じ、それが語り伝えられる。その出来事が肥大化し、その土地そのものの定義とされるのが伝説・伝承だ。

 

 動物たちもまた、互いに土地にまつわる情報を交換し合っているかもしれない。いわく、あそこには水がある、食べ物がある。あるいは足元が危険である。そうとしか思えないような集まり方をするときもある。しかし土地の、現状の情報は伝説・伝承とは異なる。その土地の現在は、写真である。本書に示されたその地の写真が、動物にも人にも現実だ。

 

 私たち人だけが、その土地の現在とは違うところを見ようとする。土地の伝承とはすなわち私たちの来し方である。私たちが流れ者なのではなく、昔からそこに住まっているのだ、という証しだ。土地の豊かさや特別な神がましますという物語は、土地の物語ではなく住まう者たちの物語だ。

 

 伝説・伝承が常に超常的なものに触れるのは、そのためである。問題は土地の成り立ちではない。住まう者らがどこから来たのか、というところにある。昔からここに棲んでいる、ではその昔からとはいつからか、その前はどこぞを流れ歩いていたのではないのか。名もなき者たちとして。

 

 神代に連なる物語は、それを伝える私たちもまた神代に連なることを保証するのだ。私たちとその土地は、神意によって宿命的に結びついている、と。そうならば、土地が私たちに為すことにはすべて意味がある。それは私たちが土地に為したことに対する呼応であるはずだ。土地の伝説・伝承とは、私たちと土地とのコミュニケーションの記録である。

 

 動物と同様、人語を話さぬ土地とのコミュニケーションとは結局、人間の一人芝居であり、伝説・伝承とは人々の作り出したものではある。しかし土地が私たちに為すことは頑固に不変である。現在の写真がどうあれ、その頑固さにふと触れるとき、人々は自身の意識と、その古層たる無意識との間で言葉を紡ぎ出す。土地のメッセージとしての伝説・伝承の受け手として、自身の存在を読み解くのだ。

金井純

 

 

 

 

遠野物語 先祖の話 (角川ソフィア文庫)

 

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■