言葉と骨董_No.044_04

 

 

 彼が生まれたヴァレット通りに近くて、最後の夜を過ごしたSのアパートのすぐそばにあるサンテチエンヌ・デュ・モン教会を、彼はとっても好きだった。あそこには優しい聖ヴィンセンシオの肖像(フィリップ・ド・シャンパーニュ作)が、その頃にはあって、クートラスはよく見に行った。この聖人は、〝恩赦を受けられない唯一の犯罪人である貧乏人〟の救済を、フランスで最初に考えた人だ。ヴェルレーヌの葬式もここだし、それにクートラスは一応洗礼もこの教会で受けているはずだ。

 

 教会の主任司教に電話で頼んだ。教区の信者名簿に、もちろん、彼の名前はなかったが、必死さが伝わったのか、受けてくれた。

 

 クートラスの友人達を説得しなければならなかった。皆、無神論教の熱心な信者だった。

 

 ジャックも怒った。

 〝僕はユダヤ人だ。カトリックの教会なんか行くものか。クートラスだって、神なんか信じていなかった。教会なんかに連れて行ったら、彼だって怒るに決まっている〟

(『クートラスの思い出』岸真理子・モリア著 リトルモア刊より)

 

 クートラスの葬儀は、彼の〝包括受遺者〟となった岸真理子・モリア氏によって、パリのサンテチエンヌ・デュ・モン教会で行われた。ユダヤ人で、反発し合いながらも生涯にわたってクートラスの友人であり続けた画家のジャック・Hは怒ったが、岸氏に説得されて葬儀に参列した。老司教は「皆さんのほとんどが信仰を持っていらっしゃらないかもしれません。しかし、ロベール・クートラスを送りに集まって下さった皆様の悲しみの真摯さは私の心を打ちます。神の心も打つでしょう。こんなにも、本当の悲しみだけに満ちた葬儀は大変少ないものですから」と話した。岸氏は葬儀では「ジャックでさえ、感動していた」と書いている。

 

 もし生前にクートラスに「葬儀はどうする?」と聞いていたら、彼は「火葬にして灰は海か山に撒いてくれ」とでも答えたかもしれない。富や名声にほとんど興味を示さなかったクートラスが、死後の儀礼にこだわるとは思えない。しかしクートラスの精神が、はっきりある聖性を捉えていたのも確かである。その聖性は彼の生まれ育った文化共同体ではキリスト教によって表象されざるを得ないだろう。その意味でクートラスの葬儀が由緒ある教会で執り行われたのはまことにふさわしい。またクートラスは神に選ばれたかのような芸術家だったが、ほとんどその代償のように、現世を円滑に生きるための術を欠いていた。その大きな欠落は、彼を愛し理解した人たちが埋めてやらざるを得ないものだったように思う。

 

 私はクートラスが小説を読んでいるのは見たことがない。伝説や民俗学の本はいくつかあったが、ネルヴァルの作品は持っていなかった。しかし、シャトレにあるサン・ジャック塔の付近を通る度に、クートラスは私にここでネルヴァルは死んだんだ。首を吊ったんだよ、と話した。そして孤独の黒い太陽のせいだったんだ、と言った。あるフランスの詩人はクートラスの世界はネルヴァルの『オーレリア』を思わせると書いている。

 

 〝私は冥きもの、――妻なきもの、――慰めなきもの、/崩れはてた塔に住む、アキタニアの君主。/私の唯一の星は死んだ、――星ちりばめた私の琵琶には/「憂鬱(・ ・)」の「黒い太陽(・ ・ ・ ・)」が刻まれた〟(ネルヴァル『廃嫡者(エル・デスデイスヤドー)』)

 

 きっとこの詩を、どこかでクートラスは耳にして永遠に心に刻んだに違いないと思う。

 

 僕はお前を愛していない。それに僕は一人で死ぬんだ。人には犬のように死ぬ自由があるんだ。

 

 血走った目で孤独の殻の中に引きこもったクートラスは私に言った。

 レストランで食事をして帰って来たところだった。あのヴォージラールの階段をゆっくり上がり、上がりきったところで突然に。

(『クートラスの思い出』岸真理子・モリア著 リトルモア刊より)

 

 岸氏はクートラスが次第に、ネルヴァル的な『「憂鬱(・ ・)」の「黒い太陽(・ ・ ・ ・)」』に深く囚われていったと回想している。ただクートラスがネルヴァルに惹かれたのは、「黒い太陽(・ ・ ・ ・)」だけが理由ではないだろう。ネルヴァルは『オーレリア』で「夢はもうひとつの生である。見えない世界とわれわれとをへだてている、あの、象牙ないしは角の扉を私は慄えずには押し開けることはできなかった」「私の考えでは地上の出来事は超越世界のそれと一致するにちがいない。(中略)しかし、私であると同時に私の外にもいるこの精霊はいったい何なのだろう? はたしてそれは伝説の「分身」なのだろうか、それとも、オリエントの人々がフェルエール(祖霊原型)と呼ぶ神秘的な兄弟だろうか?」と書いている。

 

 中期以降のクートラスの作品は古く見える。クートラスが見ていた至高のイマージュは、ネルヴァルと同様、ヨーロッパの歴史を遡り古代へと至るような質のものだったろう。クートラスは油絵やグァッシュではキリスト教の聖人を想起させる人物像を好んで描いた。それがわたしたちの心を捉えるのは、そこにキリスト教以前と呼んで良いような聖性が表現されているからである。またそれは、まだ現実界で存在の形を取らない、聖と俗が入り交じる想像界から生み出されている。それが最も端的に表現されているのは、クートラスの夜の手仕事であるカルトだろう。カルトは聖なる道化師たちが跋扈する世界でもある。

 

言葉と骨董_No.044_05

クートラスのテラコッタ作品

『クートラスの思い出』岸真理子・モリア著 リトルモア刊より

 

 クートラスは自作の抽象的肖像画を「僕のご先祖様」と呼び、自分の作品は「どんな世の中にあっても、たとえ僕は忘れられても、僕の作品が好きな人は必ず見つけてくれて、愛してくれるってことだけは確かだよ」と岸氏に語った。作家としての強い矜持を持ち、時に理不尽なほど我が儘で混乱していたかもしれないが、クートラスが作品の前では自己はほとんど無だと考えていたのは確かだろう。現実世界で生きていようと死去してしまっていようと、クートラスは拭えない負の焦点のようなところがある。

 

 多くの女性を愛したが、クートラスは愛し続けられなかった。また愛され続けることにも耐えられなかった節がある。自分でも如何ともし難い矛盾を抱え、極めて人間臭い苦悩に苛まれながら、クートラスは繭のような孤独の中にいた。もし繭から無理矢理引きずり出せば彼は壊れてしまうだろう。ただ他者を拒むかのような繭の中を覗いた者には、そこが聖別された至福空間のようにも見える。

 

 優れた芸術家は、実際の存在よりも遙かに作品の方が勝っているものだ。しかしクートラスほどその乖離が激しい芸術家は少ない。クートラスは自己の芸術に絶対的な自信を持ちながら、その価値を社会に向けて開示する術を持たなかった。他者にできるのは、その壊れやすい繭をそっと日の当たる場所に出してやることだ。その中にもうクートラスが存在していなくても、彼が生み出した美の魅力は人々に伝わるだろう。

 

 またそれは、もしクートラスが生きていたら口を尖らせるような方法であってもかまわないと思う。クートラスは一つの聖なるイマージュに選ばれ囚われた画家だが、その聖性は不定形だ。彼は作品を作り出すだけで、決してそれを名付け得なかっただろう。クートラス作品の聖性は、結局は彼の作品を愛する各時代の人々によって、その都度かりそめの名を与え続けられるほかないのである。

 

親方の獲り分――ロベール・クートラス賛

 

森の中で一人で暮らすことなんてできないよ

だから僕は町の中にある森のカテドラルの

その天井の森の中に住んでいる

カテドラルの外壁は石造りだけど

天井には太い木の柱や梁が張り巡らされている

大きな森をそのまま移してきたみたいだから

森のカテドラルって呼ばれているんだ

「おい まるで天国にいるみたいだろ!」

遙か下の祭壇で

豆粒みたいになった親方が叫ぶ

ステンドグラス越しに差し込む光で

鮮やかな赤や黄色や緑色に包まれている親方こそ

世界で一番祝福された人に見える

彼は今年のクリスマスも

どこにも帰る場所のない者

どこにも帰りたくない僕らのために

ささやかなディナーをふるまってくれるだろう

夏には赤いマントを拡げたような朝焼け

冬には灰色のマントに包まれたような夕暮れ

森の中の森で僕は君と愛し合う

春に花が匂い立つようなコロンと呼びたいんだけど

同じなのはジェニーというありきたりの名前だけだ

わかっている

僕は君を愛し続けることができない

愛され続けたいとは思うけど

それはあまりにもひどい仕打ちだから

ある日ふいといなくなってしまった僕を

君が口を極めて罵る姿を想像する

それは一刻も早く僕のことを忘れるためだよね

君の家の庭に

僕が作った小さな石の聖像を置いてきたよ

君はそれが新しい物だとは気づかない

僕の作品だとは思いもしない

「あらこんなものあったかしら」と呟いて

草に埋もれ苔が生えるまでほおっておくだろう

「もう職人が 職人らしく生きられる時代は終わったんだ」

そう呟きながら仕事する親方は少し悲しそうだ

僕はあなたに教えられ

導かれたままに

今も昔ながらの職人仕事を続けている

ヤスリをかけ

形を整え

色を何重にも塗り重ねる

まるで僕らの時代より前からあったような

古くて新しい作品を

時間をかけて作り続ける

それはもはや社会から必要とされていないから

秘やかな夜の仕事だ

僕は確かに一度は

天国に限りなく近づいていたのかもしれない

あの日森のカテドラルの奥底から

聖堂いっぱいに響く大声で

僕の名前を呼んでくれた親方は

いったい誰だったんだろう

もう一度あの声を聞きたい

僕はまだ寒い三月の

早朝に生まれた

「ここは森の中みたいだね」

アトリエの中を見まわしながら君は言う

好きなだけいていいよ

僕がいてもいなくても

ここはとても静かだから

言葉と骨董_No.044_06

『ロベール・クートラス作品集 僕のご先祖さま』 エクリ刊より

 

 たまには詩人らしく新作の詩を。この詩の内容は、ほぼすべて岸真理子・モリアさん著の『クートラスの思い出』からの引用です。メリークリスマス。

鶴山裕司

(図版撮影・タナカ ユキヒロ)

(了)

 

言葉と骨董_No.044_07

2016年3月12日から8月30日まで、ベルナール・ビュッフェ美術館で『ロベール・クートラス 僕は小さな黄金の手を探す』展が開催されます。岸真理子・モリアさん所蔵のクートラス作品のネゾネ的作品集も同時に出版されるようです。詳細はネットなどでご確認ください。

 

 

 

 

 

 

■鶴山裕司詩集『国書』■ 

国書

 

クートラスの思い出 僕のご先祖さま―ロベール・クートラス作品集