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子持盆 森銀之丞旧蔵とは違う作品。製作年代は不明。

 

 

 意外に思われるかもしれないが、アイヌの民具類は世界中の美術館や民族博物館にまとまった量が所蔵されている。代表的なものをいくつか挙げると、ロシア科学アカデミー人類学民俗学博物館には、アイヌ研究の先駆者であるブロニスワフ・ピウスツキ・コレクションを中心とした蒐集品がある。ピウスツキはポーランド人の社会主義活動家で文化人類学者だが、ロシアのサンクトペテルブルク大学在学中に政治犯として捕らえられ、樺太に流刑になった。樺太でアイヌら少数民族に興味を持ち研究を始めたのである。ピウツスキは、当時ほぼ唯一のレコーダーだった蠟管を使って樺太アイヌの音声を録音したことでも知られる。樺太アイヌは絶滅しその言語も失われてしまったので、彼らの肉声を聞くことができる最古の資料である。

 

 国立スコットランド博物館にはニール・ゴードン・マンローのコレクションがある。マンローは医者で考古学者・人類学者だった。日本人女性と結婚し、北海道の二風谷で医療を行いながらアイヌ研究にいそしんだ。マンローは民具を蒐集するだけでなく、イオマンテ(熊祭り)の記録映画なども撮影した。イオマンテの動画としては最古である。ハンガリーのブダペスト民俗学博物館にはバラートシ・バログ・コレクションがある。バラートシはハンガリー人の源流を探求した人で、言語研究と並行してウラル=アルタイ語族の民俗学資料の蒐集を始めた。バラートシ・コレクションにはアイヌだけでなく、アムール川流域で蒐集したオロチやナナイ族の民具も含まれている。このほかにアメリカやイタリアにもまとまったアイヌコレクションがある。北方少数民族研究は地理的に近いロシアや日本、北ヨーロッパや北米で盛んだが、原始的世界観を近世まで保持していたアイヌら少数民族への関心は世界的に高かったのである。

 

 もちろんアイヌ蒐集品が一番多いのは日本の博物館である。東京国立博物館には紀州徳川家第十六当主で、考古学・人類学にも造詣が深かった徳川頼貞蒐集の銅駄坊旧蔵品などが収蔵されている。東京大学にはすべて整理され公開されているわけではないが、帝国大学人類学教室時代の鳥居龍蔵や石田収蔵博士らの蒐集品がある。北海道の民族博物館にも大量のアイヌ民具が所蔵されている。ただ日本人研究者の蒐集品で最も重要だったのは、杉山寿栄男コレクションである。「だった」と過去形で書いたのは、杉山コレクションは第二次世界大戦中の空襲でほぼすべて焼失してしまったからである。

 

 実物はなくなってしまったが、杉山コレクションは『アイヌ芸術』(北海道出版企画センター刊)という図版集にまとめられている。言語学者でアイヌ研究や石川啄木研究で有名な金田一京助との共著だが、コレクションは杉山蒐集品である。『服装篇』、『木工篇』、『金工・漆器篇』の三分冊で刊行されたが最近になって一巻にまとめられた。元の『アイヌ芸術』三巻本は、出版事情の厳しい戦時中の昭和十六年(一九四一年)から十八年(四三年)にかけて第一青年社から刊行された。二巻を刊行したところで第一青年社社主の細川良が出征し戦死するという苦難を乗り越えての完結だった。

 

 ただ杉山コレクションが図版だけでも残ったのは幸いだった。杉山コレクションは現存のアイヌコレクションとは一線を画している。物からアイヌ文化を考察するアプローチ方法を採れば、杉山コレクションがあるとないでは考え方が変わってくるほど重要である。

 

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【参考図版】肩裾文衣 東京国立博物館蔵 旧杉山寿栄男コレクション

 

 杉山は「肩裾文衣」と呼び、東京国立博物館の図録では「小袖 白練緯地桐竹鳳凰草花模様」と記載されているが、桃山時代の慶長年間頃に作られた着物である。杉山は樺太白浜部落で蒐集したと書いている。所蔵していたアイヌの名前は記していないが、恐らく酋長クラスのアイヌだったろう。東京でアイヌ学会の展覧会が開かれた時に出品したが、当時の帝国博物館に是非にと懇願されて現・東博所蔵品になった。杉山コレクションで戦火を免れた数少ない遺品である。このような古い着物は本土でもほとんど残っていない。

 

 アイヌは交易によって日本人が作った古着類を入手し、それをアットゥシ(樺太ではレタラペ)と呼ばれる手織りの草皮衣の装飾などに用いた。ただ「肩裾文衣」のような古い着物を江戸後期以降の近世になってから入手するのはまず不可能である。つまりこの着物は桃山時代からアイヌが秘蔵して来た物だと考えて良い。また杉山がこれを樺太で見つけたのも一考に値するだろう。

 

 松前藩は北海道北部のアイヌと交易していたが、樺太アイヌと密に接触していた記録はない。日本人が樺太アイヌと交流し始めるのは明治三十八年(一九〇五年)の南樺太割譲以降である。樺太アイヌが日本の慶長時代の着物を所蔵していたことは、彼らがかつて本土に居住していた可能性を示唆している。本土時代になんらかの経緯で着物を入手し、樺太に移住した後も宝物として所持していたのではないかと推測されるのである。アイヌは狩猟・漁労の民であり、農耕民族のような定住指向を持っていない。無文字文化であることに加え、恐らく移動を繰り返していたであろうことが北方少数民族研究の難しさにもなっている。

 

 よく知られるように北海道北海岸から樺太、南千島沿岸部にかて、三世紀から中世十三世紀頃までオホーツク文化と総称される古代文化が存在した。どういった民族がこの文化の担い手であったのか現在でもよくわかっていない。ただオホーツク文化では土器を製造していた。しかしアイヌはもちろんウイルタ、ニブフといった民族は土器を作る伝統を持たない。日本人を見ればわかるように、土器制作をしていた民族がある時期からピタリとそれをやめてしまうことはあまりない。

 

 オホーツク海沿岸部に、アイヌたちと土器を作る民族が混住していた可能性はあるが、中世初期になってオホーツク文化人は絶滅したか、別のエリアに移動した可能性が高いのである。北海道、樺太、千島アイヌ間で言語が違うことから見て、短くとも百年単位で居住地域が分かれただろうと推測されるが、ある時期に後世になって樺太、千島アイヌと呼ばれることになるアイヌ民族の大移動があったという仮説は十分成り立つ。また着物だけでなく、アイヌは古い日本の刀や漆器も所有していた。

 

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【参考図版】(上から)鷹の羽平脱紋太刀 [国宝]白覆輪太刀 銀鮫紋太刀 蛭巻太刀 杉山寿栄男コレクション

 

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【参考図版】(上から)隅赤筥 隅赤文庫(1枝垂桜 2阿古蛇瓜) 杉山寿栄男コレクション

 

 杉山は「[国宝]白覆輪太刀」は北海道日高国沙流郡、蛭巻太刀は樺太多来加(タライカ)で蒐集したと書いている。後り二振りの出所は記されていない。旧蔵者のアイヌの名前もない。ただアイヌは製鉄技術を持っていないので、これらは和人から入手したものである。制作年代は鎌倉時代末から室町初期頃だろう。アイヌは漆器製作技術も持っていなかったので、隅赤筥と隅赤文庫も日本人から入手したものである。制作年代は室町時代後期から桃山時代である。

 

 これらの品々は純粋な古美術品として見ても優品である。アイヌ蔵品でなくても高値で売買できるため、明治以降、アイヌが日本の古い刀や漆器を所持しているという噂を聞きつけて多くの骨董商がアイヌ村に買い付けに走った。そのため物は残っていても、アイヌが宝物として所蔵していたという記録がある物はほぼ皆無である。杉山コレクション以外に、このような優品をアイヌが数多く所蔵していたという確実な証拠はないのである。またこれらの優品をアイヌが単なる交易によって入手したとは考えにくい。なんらかの報奨として和人から与えられた物だと考えるのが自然だろう。文書記録は残っていないが平安末から桃山時代にかけて、アイヌと和人との間に、交易だけではない密な政治的接触があったのではないだろうか。

 

 和人との交易品ではなく、アイヌが自分たちで制作していた物は服(草皮衣)と木工品が主である。これらの蒐集においても杉山コレクションは頭抜けている。世界中の博物館を探しても、今では現存しない形状の物が数多く含まれている。そんな特殊なコレクションの一つに子持盆がある。

 

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【参考図版】子持盆 杉山寿栄男コレクション

 

 杉山は子持盆について「饗応盆で右方に小形の盆の如き窪みが二つ配されたもの」と説明している。図版掲載した子持盆については「明治二十年頃、名工と讃われて来た日高アイヌウトレントク製の饗応盆である」と書いている。現物が残っていないのではっきりしたことは言えないが、モノクロ写真で見ても艶があり、一定期間実際に使用されたように思われる。ただ僕が調べた限り、アイヌが実際に使用した物でこのような形状の子持盆は現存しない。例外はアイヌが和人の依頼で制作した工芸作品だけである。

 

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森銀之丞旧蔵 蝦夷愛乃人彫刻茶盆

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内容品①子持盆 表 縦29.9×横23.8×厚さ2.3センチ(いずれも最大値)

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子持盆 彫銘 「蝦夷アイヌ人彫刻茶盆 本器は大正八年(一九一九年)己未 家紀二二〇年 二月二十六日 北海道住人叔父八田満次郞氏より贈与せられたるものなり 森銀之丞所蔵」

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内容品②箸二膳 長さ21.8センチ(最大値)

 

 森銀之丞が大正八年(一九一九年)に、北海道在住の叔父・八田満次郞から贈られたアイヌの子持盆と箸二膳である。家紀二二〇年記念の品とあるので、森家は江戸の元禄時代から続く旧家のようだ。八田満次郞は文久元年(一八六一年)生まれで、昭和十六年(一九四一年)に満八十歳で死去した実業家である。大正八年当時五十八歳である。生まれは淡路島で八田家家伝では平家の落人なのだという。明治四年(一八七一年)に父といっしょに北海道日高の静内に移住した。満次郞は函館教科伝習所を出て教師になったが、山っ気のある実業家気質の人だったようだ。武士の家系だが御一新で没落し、北海道開拓で一山当てようとした一人だったのである。満次郞は教師を辞めて父親の酒造業を手伝ったのを手始めに、馬市場、製藍事業、農場経営、制軸工場などに手を出したがいずれも成功しなかった。六十五歳の時に後藤彦三郎と共同でクローム鉱の採掘に乗り出し、ようやく成功を手にした。森銀之丞については調べきれなかったが、大正から昭和にかけての法律家のようだ。

 

 杉山コレクションにある子持盆は、名工と謡われた日高アイヌのウトレントクの作品で、明治二十年(一八八七年)頃の制作である。森銀之丞に子持盆を贈った八田満次郞もまた日高に住んでいた。満次郞が贈った子持盆は大正八年(一九一九年)頃の制作で、杉山コレクションのそれとは三十二年ほどの隔たりがあるが、恐らくアイヌの中でも腕のいい工人の作だろう。ウトレントクの作品ではないと思うが、その系譜のアイヌが作ったのではなかろうか。『アイヌ芸術 木工篇』は昭和十七年(一九四二年)刊行であり、大正八年当時に写真などからその形状を真似ることはできないと思われるからである。また子持盆はどう見ても特殊な形態である。日本や韓国、中国にはない形である。

 

 杉山は子持盆を「饗応盆」と書いているので、お客さんが来た時に食事などを出す際の食器である。この形に一番似ているのはヨーロッパのランチプレートである。大きな窪みにご飯やパンを盛り、小さな窪みに肉やサラダを盛りつけて一皿で食事を済ませるための食器だ。欧米でいつ頃からランチプレートが使われていたのかははっきりわからないが、遅くとも十九世紀中頃には陶器や錫製(ピューター)の類品が作られている。また日本人がランチプレートの形状を知ったのは、間違いなく明治維新以降である。

 

 アイヌはアイヌ模様と呼ばれる渦巻き文を好むが、意外なほど柔軟なところがある。現代美術のコンバインのように既製品の金属やガラスを組み合わせ、新たに知った模様を彫り込んで自分たち好みの製品を作る。確証はないが子持盆は、維新以降に欧米製のランチプレートを真似てアイヌ好みに作られた食器ではなかろうか。そう考えると一般的なアイヌ盆に較べ、子持盆の数が極端に少ない理由も納得できる。これも推測だが、日高地方のアイヌのみが製作した形状なのかもしれない。明治二十年頃に作られて十数年間使用されれば古色も付くはずである。

 

 アイヌ研究で最も重要なのは、古文書や金田一京助博士らが蒐集したユーカラなどを含む言語資料である。ただ無文字文化であるアイヌの精神世界を把握するためにはアイヌ伝来の民具の研究も不可欠である。しかし民具の製作者はもちろん、製作年月日や蒐集年月日もわからない物が多い以上、土産物や工芸品でも年紀の入った遺品は考察の対象にできるだろう。特に戦前の原アイヌ共同体に属するアイヌによって作られた土産物や工芸品の中には、思わぬ思考のヒントを与えてくれる物があると思う。

 

 今回は手持ちのアイヌ遺物と金田一・杉山さん著の『アイヌ芸術』を元にいくつか仮説を立てたが、こういった仮説はまだいくらでも組み立てることができる。骨董好きの直観に基づく根拠のない妄想と言われればそれまでだが、仮説はそれを裏付けるのも否定するのもかなり骨が折れるものである。アイヌについては書き始めるときりがないので、機会を改めてまた別の角度から書きたいと思います。

鶴山裕司

(図版撮影・タナカ ユキヒロ)

(了)

 

 

 

 

 

 

■鶴山裕司詩集『国書』■ 

国書