言葉と骨董_No.042_01

 

 

 僕がアイヌに興味を持ったのは、親しくしている骨董屋さんがアイヌを始め、ウイルタ、ニブフなどの北方少数民族の民具を大量に買いつけてきたからだった(もう売ってしまったようですが)。それまで北方少数民族にはほとんど興味がなかった。骨董屋でたまにアイヌ物と呼ばれる衣類や木器を見ることはあったが、「これは本当に古いのかな」と感じてしまう物が多く、それでもかなりの高値が付いていた。買わなかったのは手の届かない高値だったからだけではない。骨董は基本的にデータベースなのであり、値段はともかくそれがどういう文化的背景を持っているのか分からなければ、買っても意味がないのである。

 

 ただ実際にアイヌが使った古い民具を大量に見たのは貴重な体験だった。少なくとも幕末・明治頃までに作られた民具とそれ以降の物は見分けられるようになった。だが〝アイヌ物〟を〝アイヌ民族が作った作品〟と定義すると、骨董とはまた違う判別法が必要になってくる。日本人(和人)との混血が進んでいるとはいえ、今も北海道を中心にアイヌ系の人々が暮らしておられる。アイヌ民族が作った物は制作年代を問わず〝アイヌ物〟と呼べるわけだ。しかしこの定義を厳密に援用すると学問的には厄介なことになる。アイヌの人々の中には反発を覚える方もいらっしゃるだろうが、アイヌの原共同体は、おおむね昭和二十年(一九四五年)の第二次世界大戦の終結後しばらくして、ひとまず終焉したと考えた方が良いように思う。言いにくいがアイヌ差別問題とアイヌ文化研究は、切り離して考えた方が良いだろうということである。

 

 骨董屋で北方少数民族の民具を深夜まで眺め、明け方家に帰ってまずしたことは、ご多分に洩れずネットでアイヌについて調べることだった。お恥ずかしい話だが、その時初めてアイヌ民族差別があることを知った。正確に言うと、漠然と聞いてはいたがはっきり認識していなかったのだ。自分で簡単な裏取りもした。僕は北陸の富山出身でアイヌ差別は身近ではなかったので、まず関東や東北、九州の知り合いに聞いてみた。関東・九州の友達は「そんなの聞いたこともない」という返事で、東北の友人は「盛岡にアイヌはいないから、わかんない」という答えだった。ポール・ジャクレー作のアイヌ人の版画を扱っていた若い骨董屋は「アイヌ? もちろん知ってますよ。彫りが深くて髭が濃い、超能力持ってそうなカッケー人たちでしょ」という脳天気な答えだった。北海道の友人だけが「ある。年寄りにいまだにそんなことを言う人たちがいる」と教えてくれた。

 

 アイヌに限らず差別は根深い社会問題である。僕のような者が口を挟める問題ではない。ある共同体に暮らしていて、周囲からいわれのない差別を受けている人たちにとっては、それは耐えがたい苦痛だろう。ただ若い骨董屋と同様に脳天気なことを言えば、アイヌ問題は決して全国的な差別問題ではない。日本中で多くの人たちが、アイヌに対して強い関心と憧れを持っている。アイヌの原共同体が持っていた宗教・生活様式は確実に日本文化の源流と重なっている。それが近代まで存続していて多くの資料が残っていることは、アイヌ文化のみならず日本文化の基層を考える上での大きな手がかりとなる。小説家の中上健次は紀州の被差別部落出身だが、被差別を真正面から描くことで数々の優れた作品を生み出した。現実の社会問題を解消することはできないだろうが、アイヌ文化の魅力を的確に表現することは、問題解決の一助になるのではないかと思う。

 

 人間の自我意識はどうやら自己と他者を区分しなければ気が済まないようである。いわゆるアイデンティティというヤツだが、良い方向に働くこともあれば悪い方向に働くこともある。戦前までの日本は一等国を称していたが、欧米に較べると明らかに発展途上国だった。そこで生じた負のエネルギーが韓国や中国を始めとする東アジア、東南アジア諸国(諸民族)差別に結びつき、国内ではアイヌ差別になって現れた面がある。戦後の昭和二十年代末頃から、それまで未開の土人と差別されてきたアイヌの差別解消運動、アイヌ文化復興運動が盛んになったわけだが、それは戦前までのアイヌ文化が急速に失われつつある状況への危機感と一体化したものだった。どんな文化もそうだが、そこには文化伝統を守るという流れと、そこから新たな文化を生み出すという二通りの道筋がある。アイヌの場合、その文化基盤が戦前までのアイヌ原共同体にあるのは確かなことだろう。

 

 ただ大風呂敷を広げておいて恐縮なのだが、一口にアイヌ文化といっても多岐に渡る。アイヌは北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌに大別でき、ロシアのアムール川流域にも少数だがアイヌの共同体が存在していた。それぞれ言語が違うのはもちろん、習俗も微妙に異なっている。外国人が自国にいて「日本人ってこういう人たちだよね」という認識を持つのは簡単だが、実際に日本に来て暮らし始めれば例外だらけなのと同じである。アイヌ文化については時間があれば、学者さんたちとはまた違ったコンパクトな本を書いてみたいと思うが、そういうわけでここでは問題をうんと絞りたい。骨董エセーなので物に即した焦点の絞り方になるが、どこまでがアイヌ物と言えるのかという問いである。先にアイヌの原共同体は戦前までで区切りをつけた方が良いと書いたが、物に即すとこれまた微妙なのである。

 

 日露戦争後のポーツマス条約によって、明治三十八年(一九〇五年)から日本が樺太(現サハリン)の南半分を領有することになった。それ以降、日本人による樺太開発が驚くべきスピードで進んだのだが、力の弱い先住民族のアイヌやウイルタ、ニブフらは敷香(シスカ)郊外のオタス居留地に強制的に移住させられた。彼らは狩猟や漁撈、トナカイの放牧などを生活の基盤にしていたが、それを奪われてしまったのである。日本政府は彼らに皇国教育をほどこし農業に従事させた。その一方で居留地を通称土人村と呼び、内地からの観光客の見せ物にした。観光客相手の土産物を作らせそれを売ることで、彼らの収入源に当てるという目論みだった。樺太だけでなく北海道のアイヌ村でも同じような施策が採られている。

 

 つまり明治後期から第二次世界大戦終結までに作られたアイヌ物には、大量の土産物が混じっている。古く見えるが使った痕跡がないので比較的簡単に判別できる。ただそれらはまだ存在していたアイヌの原共同体が生み出した物であり、アイヌ復興運動以降の民具とは微妙に異なっている。またウイルタ族の遺品はアイヌやニブフに較べて圧倒的に数が少なく、オタスで作られた民芸品を通して彼らの精神文化を考察せざるを得ない面もある。さらに言えば、アイヌを始めとする北方少数民族は無文字文化である。現在まで伝わっている遺品がいつ作られたのかわからないのはもちろん、いつ蒐集されたかわかっている物も意外なほど少ないのである。戦前に土産物として作られたアイヌ物は、アイヌ民族が実際に使用した物と較べれば参考品扱いになるが、蒐集年月がわかればそこからある程度アイヌ文化の推移を読み取ることができる。

 

言葉と骨董_No.042_02

廣田直二郎旧蔵のアイヌ盆 表(著者蔵)

言葉と骨董_No.042_03

裏の墨書 縦23.7×横23.3×厚さ2センチ(いずれも最大値)

 

 写真掲載したお盆の裏には「明治二十五年(一八九二年)八月 仁田大八郎君と北海道に漫遊す 石狩国札幌市に共進会ありし為なり この盆「アイヌ」土人の細工物にして 札幌にて購求す 主 廣田直二郎」と書かれている。仁田大八郎(明治四年[一八七一年]~昭和二十年[一九四五年])は戦前に静岡県で活躍した実業家で政治家である。明治二十五年当時は満二十一歳だが、仁田は明治二十一年から伊豆で搾乳業を始めていたので、酪農研究のために北海道を訪れたのかもしれない。広田直二郎についてはあまり調べられなかったが、戦前の電力王で大茶人としても知られた松永安左エ門(雅号「耳庵」)の親戚で、実業家・篤志家だったようだ。

 

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アイヌ盆 幕末から明治頃(著者蔵) 縦24.3×横23.4×厚さ2.1センチ(いずれも最大値)

 

 写真のアイヌ盆は幕末・明治頃に作られた物だが、廣田直二郎旧蔵品とほぼ同じサイズである。ただ見比べれば両者の違いは一目瞭然だろう。土産物は白木のままだが、長く使用されたアイヌ盆は脂などが染みこんで艶やかである。ただ未使用とはいえ廣田直二郎旧蔵品はアイヌが作った物で間違いないだろう。あまり器用ではないアイヌの作品だと推測されるが、一枚の板を削って模様を彫っている。しかし大正時代になると、土産物工芸品にこれとは明らかに系統の違う物が混じってくる。

 

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大正九年制作のアイヌ盆 表(著者蔵)

言葉と骨董_No.042_06

裏 縦29.6×横23.7×厚さ1.4センチ(いずれも最大値)

 

 このお盆の裏には「大正八年(一九一九年)九月 北海道旅行記念 アイヌ人細工 師走」という彫銘が入っている。廣田直二郎が札幌で土産物のアイヌ盆を買ってから二十七年後だが、このお盆の本体は明らかに工作機械で作られている。旧蔵者は「アイヌ人細工」と記しているが、確実にアイヌの作だとは言えない。アイヌが細工したとしてもお盆の中のアイヌ模様だけ彫ったのだろう。大正時代になると、こういった機械成型した本体にアイヌ模様を彫った、大量生産のお土産物民芸品が増える。それだけ日本全国にアイヌの存在が知れ渡り、北海道や樺太を旅行した折りに、アイヌ工芸品を買い求める人がいたということだろう。

 

 ただ大正頃からアイヌ工芸品が、いわば手抜きのチープな土産物ばかりになったのかというとそうも言えない。アイヌは江戸松前藩時代から差別と搾取の対象だった。しかしロシア側の報告書に、北海道の北にはアイヌがいて南には松前様がいると書かれているように、江戸時代までのアイヌは一定の自由を保障されていた。日本が北海道や樺太、千島の全貌を正確に把握したのは、間宮林蔵が精緻な測量を行った最幕末になってからである。明治に入るとロシアなどの脅威もあって、北海道や樺太で和人(日本人)による開拓が進んだが、それは強制的にアイヌらの土地を奪うことでもあった。先祖伝来の土地はもちろん自治権すら奪われるという事態は、アイヌがかつて経験したことのない危機的状況だったのである。

 

 こういった危機的時期には、表立った抵抗運動が起こるかどうかは別として、民族意識が高まるものである。昭和二十年代末頃から盛んになるアイヌ文化復興運動が数々の優れたアイヌ工芸家を輩出し、アイヌ研究者の知里真志保や砂澤ビッキのような優れた現代彫刻家を生み出したように、大正から昭和初期にかけてのアイヌ工芸品には名も知れない名工の作品が数多くある。それらは民族のプライドを賭けたような精緻な作であり、江戸期までのアイヌ文化を集約したかのような優品である。

鶴山裕司

(図版撮影・タナカ ユキヒロ)

(後編に続く)

 

 

 

 

 

 

■鶴山裕司詩集『国書』■ 

国書