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 北海道を北にした通常の日本地図で見ると、愛知県にはクワガタの歯のような二つの半島がある。向かって右側が渥美半島でここで渥美焼が作られた。左側が知多半島で常滑焼の産地である。渥美、知多半島に行ったことのある方はおわかりだろうが、日本のほかの半島と同様に険しい丘陵地帯である。ただ斜面に穴を掘って窯を作り、大量の木を燃料にする陶器作りにはうってつけの地形だった。特に良質の陶土がほとんど無限に得られる知多半島では現在に至るまで常滑焼が作り続けられている。海に近いことも渥美、常滑焼が全国から出土している理由だろう。古代から江戸時代にかけては船が重要な物品輸送方法だった。また平安時代末期に、誰が領主であったのかも陶器作りに影響を与えている。

 

 前に少し触れたが、現在の石川県能登半島突端にある珠洲市では平安時代末から鎌倉時代にかけて珠洲焼が作られた。奥能登は金沢の人に「東京と能登、どっちが金沢に近い?」と聞くと、「心理的には東京の方が近い」と答えるほどの秘境である。中世初期にはなおさらだったろう。その地で中世陶の中で最も端正で精緻な珠洲焼が作られたわけだが、平安末から鎌倉時代にかけて珠洲地方は若山荘と呼ばれる九条家の荘園だった。平家時代から源頼朝による鎌倉幕府樹立の頃は、関白太政大臣九条兼実(くじょうかねざね)が実質的領主だった。初期の珠洲焼は九条家が主な消費者だったはずで、高位の人が使う焼き物としての品格が喜ばれるようになり、やがて珠洲の主力商品として東日本一帯に流通するようになったのだろう。

 

 兼実の四十年間に渡る日記『玉葉』は、言うまでもなく院政末期から平家時代、鎌倉時代初期を知る上での最重要資料の一つである。奥州藤原氏討伐を終えて上洛した頼朝に、朝廷側で最初に会ったのは太政大臣兼実である。この時代の政治家はたいていそうだが、兼実も権謀術策に長けた貴族だった。一方で有職故実に通じ、天皇中心の古代的律令国家の復活を模索する理想家でもあった。熱心な仏教徒でもあり、自ら『般若心経』と『法華経』を書写してもいる。後にも先にも長い日本の歴史で一度限りの、今上天皇安徳の入水に終わる凄惨な源平合戦を前にして、兼実も精神的な救いを仏の道に求めたのである。また争乱の世は文化隆盛期でもあった。『新古今和歌集』の歌人たちは兼実の同時代人であり、嫡男良経(よしつね)は『新古今』の仮名序を書いている。兼実が出家した際の戒師は浄土宗開祖の法然である。

 

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【参考図版01】金銅藤原道長経筒

銅鍛造 鍍金 高さ36.4×口径15.3センチ 平安時代 寛弘四年(一〇〇七年) 奈良金峯山神社蔵 国宝

 

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【参考図版02】紺紙金字法華経巻第一残闕

紺紙金字 縦14.6×横136.2センチ 平安時代 長徳四年(九九八年) 東京国立博物館蔵 重要文化財

 

 藤原道長は兼実より二百年ほど前の人で、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」という歌を詠んだように、平安時代最大の権力者である。道長時代に紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』が書かれており、王朝文化の全盛期だった。道長もまた熱心な仏教の信者であった。

 

 【参考図版01、02】は道長が奈良県吉野郡天川村山上ヶ岳山頂にある霊場、大峯山寺山上本堂周辺に営んだ経塚からの発掘品である。【図01】の経筒の中に【図02】の経典が収められていたのだが、長い年月の間に水に浸食され経典の下半分は失われている。道長の日記『御堂関白記』から道長自身が長徳四年(九九八年)に書写した経典を、寛弘四年(一〇〇七年)になって金峰山に埋めたことがわかっている。経塚は金峯山の道長埋経が最古だと言われる。この時代、日本の元号で永承七年(一〇五二年)に末世が訪れるという末法思想の影響で、経典を書写して霊峰に納める(埋める)経塚が流行した。道長埋経は時の最高権力者の奉納品であることを反映して、経筒も経典も金をふんだんに使った豪華なものである。

 

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【参考図版03】陶製外容器および銅製経筒

陶製・銅鋳造 外容器 高さ38.5×口径18.5センチ 経筒 高さ28.0×口径12.2センチ 平安時代(十二世紀)

 

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【参考図版04】常滑甕および銅製経筒

陶製・銅鋳造 甕 高さ33.5×胴径31.0センチ 経筒 高さ26.4×口径11.9センチ 平安時代(十二世紀) 京都北野天満宮蔵

 

 時の最高権力者が埋経を行ったことから、道長以降、貴族や豪族の間で埋経がブームになっていった。西日本を中心に日本各地で経塚遺跡が発掘されている。【参考図版03、04】は平安時代末、つまり道長より約二百年ほど後の兼実時代の経塚発掘品である。埋経は【図03】にあるように、当初は専用の筒状の陶製容器を作り、その中に銅製の経筒を入れ、さらに経筒の中に経典や鏡などを納めていた。それが時代が下ると【図04】のように、陶器の壺に経筒を入れるようになる。多くの貴人が埋経を行うようになったので専用の陶製容器では足りず、壺を外容器に転用するようになったのだろうと考えられている。【図03】の陶製外容器は渥美焼で【図04】の壺は常滑焼である。平安時代末から鎌倉時代初期にかけての経筒外容器(壺)には渥美や常滑焼が多い。特に渥美焼は宗教用具を数多く焼いた窯である。

 

 渥美焼は経塚壺(外容器)だけでなく、鎌倉時代初期に僧重源(ちょうげん)によって再建された東大寺の瓦も焼いている。また経塚には当初紙の経典を埋蔵していたが、平安時代末になると経典が永遠に伝わることを願って粘土版に経を刻んで埋蔵するようになる。瓦経(がきょう)と呼ばれるが、それを焼いたのは渥美窯だけである。渥美焼に宗教用具が多いのは、三河の国が藤原氏の直領だったからである。九条家荘園の珠洲のように、渥美でも領主藤原氏のために焼き物を作っていた。渥美の窯跡からは「参河守藤原朝臣顕長」と刻まれた陶片が出土している。藤原顕長(あきなが)は平治の乱(一一六〇年)の頃の公卿である。

 

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渥美焼壺「大」字部分 平安時代末から鎌倉時代初期頃(十一世紀末~十二世紀初頭)

高さ20.1×同径15.2×底径さ8.4センチ(いずれも最大値、著者蔵)

 

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渥美焼壺胴部

 

 盛期、つまり宗教用具を盛んに焼いていた頃の渥美焼の特徴に「大」文字の刻文がある。陶工が戯れに書いた文字は別として、中世陶で窯印(一つの窯で複数の陶工の作品を焼くので自分の物だと区別するための目印)以外に明らかな意味があると推測されるのは、渥美焼の「大」や「上」文字だけだと言って良い。京都の大文字焼で知られる五山送り火は、如意ヶ岳の「大」文字、松ヶ崎の「妙」「法」文字、北山の左「大」文字、嵯峨曼陀羅山の舟形万灯籠(図形)から構成される。渥美焼の「大」文字には宗教的な意味合いが込められているのである。

 

 まただいぶ剥落しているが、写真をよく見ていただければわかるように、渥美焼は部分的に施釉している。「大」文字部分を中心に、雑巾のような布で壺の上部に釉薬を塗っているのである。古瀬戸は器形全体に釉薬を掛ける総釉だが、部分的に釉薬を掛ける手法は渥美でしか見られない。「大」文字を守り際立たせるための手法だろう。先に道長時代の埋経に使われる陶製外容器は筒状で埋経専用に作られ、時代が下ると壺が転用されるようになることを見たが、これにより壺が使われるようになったのは、必ずしも筒状外容器の生産が間に合わなくなったことだけが原因ではないことがわかる。渥美焼は領主藤原氏の主導で、宗教具用の形に作られている。

 

 平安時代末にはそれまでの土葬ではなく火葬が行われるようになる。北嶺仏教と修験道の宗教理念が一般化し始めたためだと言われる。骨蔵器に焼き物が使われるようになるのは土の中に埋めても陶器が腐らないからだが、火によって清められた器だからでもある。修験道で火渡り(火生三昧耶法(かしょうさんまやほう))や護摩業があるように、火は清浄だという思想があった。この新思想とそれにともなう習俗の変化によって、埋経の外容器に専用陶器ではなく壺が使われるようになっていったのだと推測される。ただ道長時代の陶製外容器は、明らかにインド・中国伝来の仏舎利(釈迦の遺骨を納めた容器や建物の様式)をかたどっている。それが無骨な壺に変わってゆく過程には、日本独自の精神文化の変化がある。

 

 良く知られているように、中世後期の足利義政東山文化時代から桃山時代にかけて、茶の湯が隆盛する。当初は唐物(中国や朝鮮製)の焼き物や軸、金工品などを珍重していたが、次第に国産の焼き物(国焼)が使われるようになった。古田織部がこれを手放すのは生爪を剥がすように惜しいとしたためた書状が添えられた古伊賀焼花入れ・銘「生爪」や、水指・銘「破袋」などが有名である。桃山時代になると無骨な中世陶が貴人たちの心を捉えるようになるのである。この心性は江戸期を通じて現在に至るまでほとんど変わっていない。茶人はもちろん多くの骨董好きは、床などに飾る場合は平安中期の端正な経筒などよりも、中世後期に作られた無骨な常滑や渥美、信楽焼の壺などを好む。なぜそうなのかと考えることは、日本文化の底流を流れる精神性を考察する際の一助となるだろう。

 

 以前日本人が最高と考える焼き物は、「作為のない作為ある焼き物」だと書いたことがある。中世陶はその最高峰なのである。茶碗のように風流のためでなく、実用に作られた壺などには当初から作為が少ない。ある程度量産されているので、作為など考える暇なく手早く仕上げられてもいる。そしてそれは火で焼かれ清められる。窯の中で高い温度で焼かれた焼き物は、人間の作為を超えた自然の力で歪められ、その表面に自然の釉薬の流れを作る。そのような陶器の中から、茶人を始めとする風流人が確かな審美眼で選んだ作品が現代にまで伝わっているのである。この審美眼あるいは精神性は、日本独自のものだと言って良い。

 

「いかに其の後何事(のちなにごと)かある。さては(まひ)も見たけれども、それは次の事。今様(いまやう)一つうたへかし」と(のたま)へば、祇王(ぎおう)参る程では、ともかうも入道殿の仰せをば(そむ)くまじと思ひければ、落つる涙をおさへて、今様一つぞうたりたる。

(ほとけ)も昔は凡夫(ぼんぷ)なり    我等も(つい)には佛なり

いづれも佛性(ぶっしょう)ぐせる身を (へだ)つるのみこそかなしけれ

と泣く泣く二返(にへん)うたうたりければ、其の()にいくらも()()給へる平家一門の公卿(くぎょう)殿上人(てんじょうびと)諸大夫(しょだいぶ)(さぶらい)に至るまで、皆感涙(かんるい)をぞ流されける。

(『平家物語』「祇王(ぎおう)」)

 

 鎌倉時代初期には中世を代表する傑作『平家物語』が成立する。と言っても作者がわかっているわけではない。盲目の琵琶法師が全国を遊行して語り伝えたのだと言われる。引用は平清盛の寵愛を失った白拍子(しらびょうし)祇王(ぎおう)が、久しぶりに御前に召された場面である。清盛は祇王に代わる最愛の白拍子・佛御前を侍らせていた。清盛はぞんざいに「今様でもひとつ歌ってみよ」と命じる。祇王の今様は、後白河法皇撰の『梁塵秘抄』を改作したものである。

 

 「(ほとけ)も昔は凡夫(ぼんぷ)なり 我等も(つい)には佛なり」という祇王の今様には、当時の精神性がはっきり表現されている。それは鎌倉時代になってから成立したというよりも、九条兼実のように源平時代を生きた人々の中でじょじょに育まれていったものである。道長の時代頃までは、死後に浄土に至り着くことが貴人から庶民に至るまでの最大関心事だった。みな極楽の存在を固く信じていた。しかし戦乱の世で武者たちが次々に無残な死を遂げてゆく平安末の人々の心に、そのような浄土幻想はもはやなかった。もし極楽浄土があるとしても、それは現世の苦悩の果てに奇跡のように現れるものだろうという意識が強まったのである。

 

 このような人々の心性に、無骨な中世陶は非常に訴えかける何かを持っていた。比喩的に言えば、極楽浄土はあるかもしれないが、それは火に責められ焼かれた果てに現れる焼き物ように無残で美しいものだろうといった意識である。平清盛の正室・時子(二位尼(にいのあま))は、「波の下にも都の(さぶら)ふぞ」と言って安徳天皇を抱いて壇ノ浦の藻屑と消えた。幼帝を抱いての悲惨な入水死の先に極楽があるとは、誰も考えてはいなかった。世阿弥は平家時代から約二百年後の人だが、『平家物語』に基づく能を数多く作っている。無念の死を遂げた平家の公達たちが亡霊となって現れ、捨てようにも捨てきれぬ妄執を語るのである。これも比喩的に言えば、日本的精神の安心立命は、そのような現世的妄執を裸眼で見つめ続けることにある。

 

 現実世界をありのままに見つめればそれは苦に満ちている。ただ苦界をありのままに見て受け入れることは、ある種の悟りに似た精神の平安をもたらす。浄土や地獄はあると言えばあるし、ないと言えばない。美もまたあると言えばあるし、ないと言えばばないものである。そのような現実認識方法(思想)は中世末に成立したのであり、誰もが隠しておきたい自己の秘密を赤裸々に描く現代の私小説にまでその精神は流れている。

 

 このような精神を反映した日本の陶器は、世界標準の焼き物の美の基準からかけ離れている。左右対称の完璧な形と絵付けが世界標準の陶器の美である。それと比較すれば日本の陶器――特に中世陶は醜いとさえ言えるだろう。しかしそれは現世そのもののように醜く美しい物なのである。浄土や極楽もまたそのようなもののはずである。中世陶の精神を理解できれば、能楽や茶の湯の精神を理解することも容易いだろう。

鶴山裕司

(図版撮影・タナカ ユキヒロ)

(了)

 

 

 

 

■鶴山裕司詩集『国書』■ 

国書

 

 

 

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