続続・言葉と骨董_No.040_01

 

 

 人間は〝眼の記憶〟を持っていると思う。この能力は文字などを覚える記憶より鮮烈で強いものだろう。子供時代の風景や生活の一コマをいつまでも覚えていることなどが典型的だが、美術でも眼の記憶はある。たとえば骨董屋で物を見せられて、それが大昔に別の骨董屋や、何かの本で見た作品だと気付いたことは多い。どうしても欲しいと思った作品だったわけではない。眼がなんとなく記憶していたのである。またこのような眼の記憶は、次第に知識と映像が渾然一体となった精神の深みに届くこともある。

 

 ある種の骨董に飽きるということが僕にはある。〝見た〟と感じた途端に、その種の骨董に興味を失ってしまうのである。そうなると自分が持っている物より優れた作品を見せられても、なかなか触手が動かなくなってしまう。僕は未知の物に驚き、その詳細を観察して精神的背景を知りたいのだ。そういう意味で純粋なコレクターからは遠い。もちろんいつまで見ていても飽きない作品もある。書画が多いが、焼き物では愛想のない日本の陶器がほとんどである。

 

 今回取り上げるのは渥美焼の壺である。渥美焼のほとんどがそうであるようにこの壺も出土品である。日本でこういった無骨な陶器が作られ始めたのは平安時代末頃からで、六古窯、つまり瀬戸焼(愛知県瀬戸市)、常滑焼(同常滑市)、越前焼(福井県越前町)、信楽焼(滋賀県甲賀市)、丹波焼(兵庫県篠山市)、備前焼(岡山県備前市)がその代表である。ただ六古窯は現在まで生産が続いている日本の代表的な陶器窯のことであり、今では火が絶えてしまった窯は全国にたくさんある。

 

 廃絶窯の中で渥美焼は有名な方だろう。信楽の里とは山一つ隔てた伊賀焼(三重県伊賀市)も茶道具の優品を生産したことで知られる。石川県の加賀焼(石川県小松市一帯)、珠洲焼(同珠洲市)も系統立った調査が進んでいる。しかしそのほかに、たいていは出土地の地名が付けられた小規模な陶器窯が、東北から関東、近畿西日本、九州に至る全国に点在している。地方の骨董屋に行くと、どうしても「なに焼」と特定できない作品に出会うことも多い。これらの窯は薪や土が不足し、あるいは他の窯との市場競争に敗れ去って火が消えていったのである。たいていの廃絶窯が遅くとも室町時代中期には生産を終えている。廃絶窯を含め、おおむね平安末に生産を開始した陶器は中世陶と総称される。

 

 中世は院政末期(平家時代)の十二世紀初頭から、織田信長ら戦国大名が台頭してきた十六世紀末までを指す。五百年以上に渡る長い期間なので、足利南北朝時代までを中世前期、南北朝以降戦国時代までを中世後期に分類することもある。中世は煌びやかな平安時代や、本当の意味で天下統一を成し遂げようとした、血湧き肉躍る戦国・江戸初期と比較すれば地味な印象である。しかし中世は今日まで続く日本文化の確立期である。前期には『平家物語』や能楽が成立し、その後の日本文学や舞台芸術の基礎となった。『今昔物語』、『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』、『宇治拾遺物語』などの世俗説話集が成立したのもこの時期である。後期には室町八代将軍足利義政の東山文化が華開き、茶道、華道、香道、連歌などが生まれた。

 

 日本の伝統文化は長い歴史を持っているとも、比較的最近成立したとも言える。能楽を大成したのは世阿弥で『風姿花伝』は一四〇〇年代初頭に成立した。茶道は千利休が大成したが、彼が自刃したのは天正十九年(一五九一年)である。芭蕉が『奥の細道』を浄書したのは元禄七年(一六九四年)のことだ。能や茶道や俳句は歴史時代になってから一人の優れた作家によって確立されたわけだが、いったんその様式が成立すると、古代から連綿と続いている芸術のような印象を与える。そしてその印象は正しい。日本の伝統文化は昔から潮流としてあった精神が、ある時期に一人の卓越した能力を持つ作家によって形ある芸術に作り上げられたのである。それは多くの無名陶工によって作られた陶磁器も同じである。

 

 お隣の中国と韓国では磁器生産が始まると陶器は作られなくなっていった。世界で初めて磁器生産が始まったのは中国元時代で十四世紀初頭のことである。元染付(元青華)と呼ばれる。朝鮮でも豊臣秀吉の文禄・慶長の役で多くの窯が破壊され、窯を再建する際に磁器窯に移行した。日本でも十七世紀中頃には北九州の有田地方で伊万里焼の生産が始まっている。秀吉軍が文禄・慶長の役で連れ帰った朝鮮人陶工によって唐津焼が隆盛したが、その中の一人である李参平によって伊万里焼が始められたのだと言われる。ただ初期伊万里を見ると、この時期、大量の中国人陶工が日本に渡来していたようだ。初期伊万里の絵や模様は朝鮮風ではなく、明らかに中国様式だからである。

 

 陶器よりも薄くて軽く、汚れがつきにくい磁器が市場でもてはやされたのは当然だった。しかし日本ではそれ以後も盛んに陶器が作られ続けた。磁器は日常で使う高級食器だったが、陶器は茶道を中心とした趣味の御道具として位置づけられていった。またその過程で日本の貴人は中世に作られた陶器を茶入や花入、水指などとして珍重した。日本では磁器生産が始まることによって、利便性を超えた日本人の陶器好みが露わになっていったのである。

 

 日本では約一万年前の縄文時代から焼き物が作られている。世界最古の焼き物かどうかは議論があるが、系統立って大量に作られたという意味では縄文土器が世界最古の焼き物だろう。多用な造形を持つ大らかな縄文土器が様々に変化してゆくわけだが、それを主導したのは半島や大陸からやってきた帰化人陶工たちである。縄文土器と弥生土器を並べてみればすぐにわかるが弥生土器は機能的である。江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」は現在では否定されているが、弥生時代に大量の帰化人が渡って来たのはほぼ確実である。また弥生土器の機能性は古代首長たちによる民衆の管理が進んだことを示唆している。古墳時代から平安時代にかけて作られた須恵器の造形はさらに厳しい。須恵器は同様の物が朝鮮半島で数多く出土しているので、半島からの帰化人陶工中心に作られたことがわかる。古墳時代から飛鳥・奈良朝は大和朝廷の確立期だが、この時代に朝廷によるさらに厳しい民衆支配が進んだことが須恵器の造形から見て取れる。

 

 古墳時代から鎌倉時代初期にかけて作られた陶器は須恵器と白瓷(しらし)系に大別される。いずれも帰化人陶工によって主導された陶器だが、須恵器系は無釉(釉薬を掛けない陶器)で白瓷系は施釉陶(釉薬を掛けた陶器)である。施釉は新しい技術であり、須恵器より白瓷の方が遅く登場したと考えられている。末期になるとだらけた形状の物が大量生産されるようになるが、朝廷や豪族が使ったと推測される須恵器や白瓷の造形は端正である。中世陶は須恵器系と白瓷系の技術を継承して誕生したのだが、次第に半島・大陸経由の陶器の厳しさを持たなくなる。平安時代末に日本各地で生産が始まった陶器は日本人陶工によって作られたことがその一因である。また中世陶器独特の形状は当時の日本社会の大きな変化を反映している。

 

続続・言葉と骨董_No.040_02

続続・言葉と骨董_No.040_03

須恵器大甕(おおがめ)陶片 表と裏 平安時代末頃(十一世紀末~十二世紀初頭)

縦7.9×横17.1×厚さ0.5センチ(いずれも最大値、著者蔵)

 

 手持ちの陶片の中にいくつか中世陶がある。写真掲載した陶片は須恵器大甕の残闕だと思うが、珠洲焼の口の部分かもしれない。表部分に横線が見え、裏に青海波模様がある。これは粘土を紐状にして壺の形に巻き上げ(紐作りと呼ぶ)、裏側に青海波模様の入った叩具を当てて、表側から横に刻み目が入った叩具で叩いて粘土を伸ばした跡である。須恵器や白瓷は小さい碗や壺は轆轤を回して作ったが、大きめの壺になると粘土を巻き上げ叩具を使って土を薄く伸ばしていたのである。珠洲焼もそうだが、渡来人系の須恵器の様式を色濃く残す中世陶には端正な作りの物が多い。

 

続続・言葉と骨董_No.040_04

続続・言葉と骨董_No.040_05

古瀬戸瓶子(へいし)陶片 表と裏 平安時代末から鎌倉時代初期頃(十一世紀末~十二世紀初頭)

右 縦9.9×横8.3×厚さ0.5センチ(いずれも最大値)

左 口径10.2×高さ4.3×厚さ0.4センチ(いずれも最大値、著者蔵)

 

 古瀬戸は白瓷系の流れを汲む中世陶である。中世陶の中で、ほぼ唯一釉薬を掛けた陶器を作ったからである。白瓷は愛知県名古屋市から豊田市、瀬戸市、刈谷市に及ぶ地域に窯跡が点在する猿投窯が一大生産地だったが、古瀬戸の窯跡は瀬戸市周辺に集中しており距離的に近い。ただ裏面を見ればわかるように製法は須恵器系とは異なる。古瀬戸は叩具を使わず指で粘土を伸ばしている。また壺や瓶子の上の部分は別に作って胴と繋いでいる(組土巻上成形と呼ぶ)。指で粘土を伸ばして器形を作ってからそれを轆轤に乗せ、表面を滑らかに均しているのである。平安末から鎌倉期にかけて作られた古瀬戸は、同時代の須恵器系の陶器と同様に端正な造形で丁寧に作られた物が多い。

 

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常滑大甕陶片 表と裏 平安時代末から鎌倉時代初期頃(十一世紀末~十二世紀初頭)

縦21.9×横24.3×厚さ0.7センチ(いずれも最大値、著者蔵)

 

 写真を見ればすぐわかるが、常滑焼は須恵器や白瓷系の流れを汲む中世陶よりも無骨で大らかな作りである。それが中世になって初めて出現した形状――つまり中世の精神性を反映した陶器である。六古窯を例にすれば、施釉陶の古瀬戸を除いて常滑、越前、信楽、丹波、備前焼はほぼ同じ作り方である。大きな甕や壺は轆轤を使わない紐作りで器形を整え、釉薬を掛けずに窯に入れて焼成する。焼成中に器体に降りかかった灰が溶けて自然の釉薬となり、模様を作り出すのである(骨董業界ではそれを「景色」と呼ぶ)。時代が下ると(さや)と呼ばれる容器に器体を入れて灰が降りかからないようにすることも行われるようになるが、初期の中世陶のほとんどは器体を直接火と灰にさらしている。

 

 また常滑などの中世陶が無骨なのは、製品の大量生産が始まったからである。中世陶は碗、皿、鉢、堝、釜などの生活道具も作っているが、主力製品は壺、甕、擂鉢だった。特に高さ三十センチを超えるような大壺(甕)は中世になって初めて出現する。大壺(甕)は水や肥料を入れておくために使われたと考えられている。古代はもちろん中世においても焼き物は高価な商品だったが、中世には貴族らが日常で使う焼き物のほかに、庶民が実用で使う製品が大量に必要とされるようになったのである。柳田国男は民俗学で庶民の生活を知り得るのは室町時代が下限だと言ったがそれは正しい。骨董を見ていても、明らかに庶民が使った物が大量に現れるのは室町時代に入ってからである。

 

 ただ中世前期と言ってもそれは約三百年の長きに渡る。細かく見てゆけば、最も早く生産が始まった中世窯は渥美と常滑窯である。この二つの窯は、初期には生活道具のほかに貴族らのための宗教用具を作っていた。特に遅くとも鎌倉末期には火が絶えてしまった渥美焼はその傾向が強い。また古瀬戸、信楽、丹波、備前焼は茶の湯の隆盛とともに茶道具を生産するようになるが、常滑窯はほとんど茶道具を作っていない。常滑焼に対しては根強い庶民向け生活道具の需要があり、貴族からの宗教用具の注文が絶えた後は庶民向け陶器を作り続けたのである。

 

 骨董を長い間見つめていれば自ずとわかるようになるが、焼き物はもちろん金工や漆器、木工品などにも各時代特有の精神性が表現されている。渥美焼は中世陶独特の無骨な形をしているが、その造形はどこか求心的である。外へ外へと広がろうとする形状ではなく、内に縮こまろうとするかのような形なのである。それが信楽焼などに代表される、武士(もののふ)中心の婆娑羅時代から戦国時代に至る中世後期陶との違いである。渥美焼の形には古代的精神と中世的精神が表現されている。古代と中世のあわいの造形なのである。

鶴山裕司

(図版撮影・タナカ ユキヒロ)

(後篇に続く)

 

 

 

 

 

 

■鶴山裕司詩集『国書』■ 

国書