デスノート

日本テレビ

日曜 22時30分~

No.096_TVドラマ批評_01

 

 

 そのタイトルを聞いた瞬間、ともあれ観てしまわざるを得ないコンテンツというものは存在する。かつての「刑事コロンボ」シリーズがそうであったし、この「デスノート」もそうだ。しかもドラマシリーズであった「コロンボ」と違い、漫画として完結しているので、そう劣化している怖れはない。

 

 すべての傑作があるいはそうであるかもしれないが、単純な発端から始まる物語だ。いやゲームだと言うべきだろうか。ノートに名前を書かれた者は死ぬ。死神の持つそのノートが主人公の手に入る。すなわち発端、中心はこのうえなく超常的なものだ。それがリアルの世界に落ちてくる。

 

 デスノートとは権力の喩ではないか、とも思う。この現世にあって、権力は超常的に映る唯一のものだろう。それを手にした本人にとってすらも。だから権力はその本人を変える力を持つ。主人公は自身の定義した正義の概念に則って、結局はやりたいようにやる。その代償は、現世にある既成の国家権力、すなわち警察との攻防だ。ゲームの見どころはここにしかない。

 

 ノートに名前を書く、といった行為に殺意を証明できるのか。警察はそれをしなくてはならない。主人公の行動を監視し、世界中で起こる不審な心臓麻痺死との因果関係を見い出さなくてはならない。主人公が警察内部者の息子であることが、関係性をより緊密にしている。互いに正義の権力たらんとする犯人「キラ」と警察とは、もちろん似た者同士なのだ。

 

 デスノートにはさまざまなルールが存在する。死因を書かなければ心臓麻痺になる、死の直前の行為をコントロールできる、書く者は所有者でなくともよい、デスノートであるという認識がなくてもよい、切れ端でもよい、など。主人公はそれを試しながら把握していることがアドバンテージである。警察は多くの犠牲を払いながら、そのルールを推測していかなくてはならない。

 

 今回はテレビドラマ版ということで、主人公の夜神月(やがみらいと)はプライドの高い切れ者から、公務員を目指す平凡な若者に改変されている。テレビの日常性に折り合ったわけだが、権力に目覚めて警察捜査の中心人物 L (エル)と対峙する以上、その変化やギャップを強調できなければ意味はない。

 

 テレビドラマ版の夜神月も L も、映画版や舞台(ミュージカル!)での藤原竜也や松山ケンイチ、小池徹平といった話題のキャスティングに比べるとアクがなく、ちょっと凡庸に見える。それはキャスティングも含め、いわゆるお茶の間に馴染むように、という企画であるのだろう。しかしテレビはときに、無意味におどろおどろしさをアピールする退屈なドラマを流すではないか。

 

 大ヒットの要因はこのうえなく緻密でロジカルなテキストに加え、可愛らしいアイドルの少女が「第二のキラ」となる周到さ、さらに彼らにしか見えない死神たちの迫力あるヴィジュアルにあるだろう。夜神月も L も、この特撮の死神に負けない存在感がやはり試されると思うのだが。

田山了一

 

 

 

 

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