花咲舞が黙ってない

水曜 22:00

日本テレビ

No.095_TVドラマ批評_01

 

 

 池井戸潤原作『半沢直樹』の女性版と言われる。設定はテレビドラマとしてはめずらしくなく、むしろありふれているが、細部の描写がリアリティを生んでいる。窓口の女性を「テラー」と呼び、それが当たり前、自然に聞こえるとインサイドに入っていった臨場感を与えるということはある。

 

 それら人事やシステムのディテールは池井戸潤ならではで、銀行トリビアではあるけれど、トリビアから見えてくるもの、肌感覚で説得されるものは確かにある。たとえば暗証番号の管理ひとつとっても、銀行がカネというもの、ミスというものをどう考えているか伝わってくる。それはすなわちヒトというものをどう考えているかを示すし、ドラマになり得る。

 

 ドラマでは主人公が、それに対して異議申し立てをする。カネを介したヒトの捉え方は平板で一様なものだ。しかしそれを管理する銀行がヒトの組織である以上、それでは済まない場面も多々ある。損得だけでは動かない、と言えば嘘になるけれど、金銭の数字の損得だけではない、別の損得で動くことがあるのが人間だ。それは必ずしも通帳には載らない。

 

 もちろん、元テラーで今は臨店として各支店の細かいトラブルに直面する花咲舞は、半沢直樹に比べると軽い。軽いがゆえにテレビ的な人気シリーズとして、シーズン2 が軽々と実現しもする。『半沢直樹』の興奮冷めやらず、その面影を観たい視聴者にとっても慰めであろう。

 

 そして『半沢直樹』の面影は、実際には細部のリアリティよりはむしろ、理想論的なリアリティのなさにあると思われる。花咲舞は銀行内部の理不尽に対して、あり得ない物言いをし、それによって報われたり報われなかったりする。報われるのはほんの一瞬であり、組織の矛盾はそのままである。

 

 それがわかっていて、あり得ない物言いを言い続けること、なおかつ組織に残り続けることは夢物語だ。それは双方にとって益のない、通帳に載らない損失でもあるはずだからだ。にも拘わらず、花咲舞はそこにいる。シーズン 2に至るまで。それはそれが視聴者の望みだからである。花咲舞のような物言いを決してすることのない、勤め人である男女の視聴者の。

 

 花咲舞役は、杏にとってはまり役だと思われる。失礼だが、その色気のなさ、魅力のなさがこの役には必要だった。夾雑物がないぶん、その無色透明に視聴者は自身を重ねられる。上川隆也は上手い役者で、しかし上手さをしつこく感じさせないところがいつも素晴らしい。

 

 こういった男女の淡々としたビジネスライクな友情というのも(おそらくは『踊る大捜査線』以来の)流行りだが、興醒めを心配せずに安心して観ていられる。「心がない」といった花咲舞の台詞に、悪い上司がハデに尻餅をつき、参りましたと見得を切る。リアリティのない夢はそこだけにしておかないと、視聴者はやはり目が覚めてしまうのだ。

田山了一

 

 

 

 

 

新装版 不祥事 (講談社文庫) 花咲舞が黙ってない(1)(プチキス)