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荒木経惟インスタントフィルム作品集『結界』 2014年10月 eyesencia(アイセンシア)刊

 

 

 ポラロイド写真の特性はなんといっても撮ったその場で現像されることである。フィルムが残らないために複数枚の焼き付けができないことである。写真家がシャッターを切ることがすべてであり、写し取った光景は、ポラロイドカメラの不可侵の暗室、写真家の作為の届かぬところへとしまいこまれてしまう。写真家は、べーっと吐き出されたポラロイド写真を手にとって、あるいは目を凝らし、あるいは指先を這わせ、失われた光景をその遺構に夢見る。ポラロイド写真の鑑賞者たる我々は、失われた光を求めて白枠の闇に佇む写真家の影法師を追いかける。撮れば撮るほど積み上がる写真は大きな影を作る、失われたものの大いさを形作る。それでも(だからこそ)撮影は止むことがない。ポラロイド写真の「プライバシー」を巡る視線の欲望を、私はそのように解していた。しかしここにもう一つの作品集がある。これをどこかに位置づけねばならないと思った。荒木経惟の最新ポラロイド作品集『結界』である。

 

 2014年秋、原宿のギャラリー「AM」で写真展『結界』が開催された。そこで展示された荒木の作品は、ポラロイド写真をカッターで二つに切り裂き、別々の写真の断片を貼り合わせたものだった。総数500点以上にも及ぶという作品の中から、本作のために128枚が選別された。専用のケースに入れられた128枚の作品は、ポラロイド写真のサイズに印刷され、001から128までのシリアルナンバーが付されているので、一応そこには始まりと終わりがあることになる。128枚の擬ポラロイド写真の束は厚さ4cmほどの塊となる。おそらく2、3枚の写真を重ねて切って貼り合わせたのだろう。作品の中には右半分と左半分が交互に対応しているセットもあれば、失われたままのものもある。被写体は空、静物、花、女など。女に対しては切断線が体や顔(特に女陰)の中心に入ったものが多い。

 

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『結界』より。左上からシリアルナンバー002、031、053、055、066、072

 二つの写真の断片と断片を掛け合わせるという実験は、容易にフィクションへと結びつく。それぞれの写真の持つ文脈を離れた光景と光景は、新しい物語へと接合される。それはもちろん作家の意図するところでもあろう。荒木の写真は確固とした意味(シニフィエ)を保証するのでも、それにそぐわない解釈を排斥するものでもない。むしろあらゆる解釈が即時即席に棄却されてしかるべき、言葉(シニフィアン)の無限の積み重ねである。意味は万人に開かれている。ただし、そのような場を与えるためだけに、荒木はそれぞれの光景に一枚きりのポラロイド写真を真っ二つに切り裂いたのだろうか。いや、そもそも各作品に刻まれた線は、ほんとうに切断線なのだろうか。

 

 白い枠組こそがポラロイド写真という概念を形作っていることを明示するように、再構成された画面は自然と真四角の光景を成立させている。そこに一本の線が、写真の外部から加えられる。この線は現実には写真の外部から圧力(画面を押し切り、二つに割ったカッターの鋭い圧力)によって刻まれたものだ。しかしポラロイド写真には撮影した光景の遺構を作りあげてべーっと吐き出した、作家の指の入らないもう一つの外部=暗室がある。切断線をカッターの刃の通過した痕とは解さず、暗室に通じるある裂け目であると考えると、二つの光景の掛け合わせに発芽する物語は副次的な幻想に過ぎないものとも思えてくる。それが一枚の写真に発生した裂け目であり、湖の底が割れたかのように、時間が裂け目に殺到し、凝結したのだとしたら。

 

 二つの光景、二つの時間、二枚の写真が写し取ったものは、荒木にとって二つの世界であるとは限らない。ポラロイド写真の一定の白枠は文字通り世界に対するフレームである。フレーム内に収まった光をはるかに上回る光量が世界には満ちていて、そのフレームが機能した一瞬間はすでに去っている。荒木はその膨大な世界の総体に向かってカメラを向けている。「荒木対世界」の単純な構図である。荒木の視線が世界の内側からはじき出されてるという事実は、荒木におそろしく自由な振る舞いを許すことになる。荒木の視線は世界内では許されえないほどの無秩序をもって、捉え、撮り、撮ると同時に取り残す量と反復の撮影行為を止むことなく続けている。そうして積み上がった写真とその影は、この巨大な陰陽の世界に溢れる時間と光を、世界に匹敵しようと拡張される総体としての巨大な白枠に捉えようとしている。

 

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『結界』より。左上からシリアルナンバー083、091、101、105、108、128

 

 総体としての写真対総体としての世界――荒木対世界の構図はこのように言い換えられよう。総体としての写真は、しかし、光景の遺構でしかない。総体としての写真が収めようとして収まりきらないものと、一枚の写真が写し取ろうとして隠してしまったものとは、拡大鏡で覗いた最小倍率と最大倍率の世界のように、同一なのである。荒木の視線はマクロとミクロの世界を同時に欲望している。その重なり合った視線の再現が、本作なのではないか。

 

 一枚に重なり合った二つのフレームは、時間を遡行してそれぞれの半分をかつての暗室に戻した写真の姿のように思える。それと同時に、画面内に残った半分ずつが総体としての世界を欲望する視点に提供される。この画面構成は右目を失明する荒木の視界とも呼応していよう。右と左に移る別々の世界、時間、光。そして画面の隠れた部分は一本の線に凝縮されてかつての暗室にしまいこまれる。そこで新たに開かれるのはめいめいの鑑賞者の思い描くフィクショナルな物語ばかりではない。かつて確かにあったものが、線の向こう側、フレームの、写真の外側に開かれるのを待っている。ポラロイド写真を真っ二つにしたその線は、重なり合う視線を放つもう一つの目、その閉じた瞼でもあるのだ。

星隆弘

 

 

 

 

 

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