1月の終わりに訪れた時には閉室、ガラス戸には暗幕がかかっていた。下北沢駅南口から雑貨屋居酒屋が連なる商店街を10分ほど真っ直ぐに突き抜けると、左手に代沢小学校が見え、車通りのエンジン音が人の賑わいに取って代わる。小学校を過ぎたあたり、緑道が交差する角の2階に「La Camera」はある。’Camera’はイタリア語で「部屋」を意味する女性名詞、英語に置き直せば性差を失い’The room’となる。カメラ=写真機の、ラテン語由来の語源である。小さな穴を通った光が薄暗い部屋(カメラ・オブスキュラ)の中で上下逆さの像を結ぶ。その現象の発見は古代中国やギリシャにまで遡るらしい。18世紀頃には持ち運びできる小型のカメラ・オブスキュラが発明され、写真機の原型となった。’Camera’は「部屋」から「箱」になり、やがて「カメラ」として英語に定着する。そのような歴史の積層を切り裂いて、ギャラリー「ラ・カメラ」は下北沢にあり、ガラス戸の暗幕の内側は、薄暗いというよりも「暗室」である。
この「カメラ/暗室」で、荒木経惟の新作ポラロド写真展「POL A NOGRAPHY」が毎月1日から10日まで定期開催されている。アラーキーの新作写真展、と聞いてどのような展示風景を思い浮かべるだろう。同じくポラロイド写真限定の個展「POLART 6000」(RAT HOLE GALLERY:2009年)では、数千枚のポラロイド写真が足元から天井の高さまで壁一面を覆い尽くした。それは被写体以上に、ポラロイド写真という具象と、ポラロイド写真を6000枚撮影するという営為を展示した空間だ。対して、本展は胸の高さに水平線を引き、写真は静穏に配されている。多くの来場者は線に沿って、写真から写真へ均等な視線の水平運動をもって場内を一周する。中心はない。行き止まるところもない。おそらくはじまりも終わりも。ただ壁面積の限度が、その周回運動の途中に、今月と来月の間の20日間のインターバルを設けるだけだ。
それは極めて私的な空間である。2月の展示には「神さまがいるとしたら、ここ」というテーマが設けられていた。「ここ」に対応するように、作品は人形や弁当や写真集を写し、しかもその「モノ」そのものよりも「モノの在り方」を写し取っていた。私がもっとも目を惹かれたのはベッドを写した一枚だ。誰かが起き抜けたときのまま固まり、誰かがもう一度潜り込むのを待っているように布団がめくれている。神さまの在り処は、各作品のばらばらな具象に散在しながら、「いるとしたら」という仮定法のテーマのもとで相互に連絡する。ジグソーパズルのような几帳面な接続ではなく、「記憶の地図」のような地下茎の連絡である。鑑賞者は各作品間の脈絡を求めて荒木の「撮影=生活」を想像する。ポラロイドの1×1の小さな画面が否応なしにそうすることを欲求する。すべて写真が均等になにかを写し、なにかを隠し持っている。作品はすべて新作で、まだだれの説明にも晒されていない撮影=生活の空気が漂っている。
各鑑賞者の連想と解釈に身を委ね、即時即席に意味を生成しては棄却するその展示空間に、それでもなにか一貫性のようなものがある。毎月変わるテーマも実際にはその一貫性のサブテーマにすぎない。表層的には、それは写真作品の均質さにある。ポラロイド写真という構造も均質なら、ばらばらの被写体もまたどこかで均質である。「モノの在り方」を写し取っていた、と上で述べたが、付け加えよう。「モノの在り方の均質さ」を写し取るのである。その均質さとは、ひとことで言うなら、’Privacy’である。「私生活」を意味するこの単語は’Camera’と同様にラテン語の語源を持つ。その語義を英語に訳せば’Apart from’となり、辞書によっては’Bereaved’の意も加えられる。前者は空間の隔たりを指し、後者は時間の隔たりを反映する。時間の隔たりは過去との距離だ、それは現在にしか実存しえない生者によってしか観測できない。’bereaved’が意味するのはなにかを「奪われた」存在、広義における「遺族」であり、その現在である。
写真作品が隠し持つのはそのような時空間の「へだたり」ではないか。作品の均質さは、その「へだたり」の均等さから来るものではないか。すべての作品から等距離の一点に、もうひとつの焦点が結ばれる。結論は凡庸である。われわれは作品の先に荒木の「目」を見ようとしている。その眼球の水晶体が網膜上の焦点に結像した光景を求めて--いや、その光景が撮影とともに奪われていくのを目撃し続ける荒木の「私生活」を求めて、なのだろう。
「薄暗い部屋」から始まったカメラの意味の積層は「暗室」の上に「目」を獲得し、カメラマンが現れた。なかでも独特な「目」を持つものが写真芸術家となった、はずだ。しかし誰でも大量の写真を携帯する現在、カメラの意味は、光景をピクセル変換するプログラムへと急激に収斂しているように思われる。光景は奪われているのに、写真はまるで自己増殖し、共有され、ネットワークの空白を埋め尽くす埋め草のようだ。
そんな現在に「ラ・カメラ」という「暗室」がある。まだだれの説明にも晒されていない新作作品が終わりのない水平線を引いて、奪われた光景の遺構が毎月10日間だけ瞼を開ける。極めて私的な空間である。
星隆弘
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■