「人妻エロス」シリーズ
写真展の最初の方には「週刊大衆」連載の大好評企画、「人妻エロス」の写真が展示されていた。荒木さんにヌードを撮ってほしい人妻を一般公募した企画で、ヤラセは一切ないようだ。それは写真を見れば自ずからわかる。彼女たちの裸は〝商品〟ではない。芸能人がヌードやセミヌードになる場合、たいていは数ヶ月前からダイエットや入念なスキンケアをする。しかし人妻エロスにそんな気配はない。応募してくる方も撮る方も、勇気あるなぁと感じてしまう。ただそれが荒木さんのヌード写真でエロ(ス)写真なのだ。
もちろん写真は被写体によって印象が大きく変わるから、中には確かに性的興奮を喚起させるような写真もある。しかし何枚も荒木さんのエロ(ス)写真を見れば、ほとんど人がごく一般的なポルノグラフィーとは質が違うことに気づくだろう。このあたりの機微はなかなか説明しにくいが、つい〝猥褻〟といった言葉を使ってみたくなったりする。辞書的に言えば猥褻は「善良な性的道義に反するもの」ということになる。しかし荒木さんの写真は男たちがポルノグラフィーに期待する性的表現とは決定的にズレている。〝猥褻〟という画数の多い漢字から視覚的に喚起されるようなゴチャゴチャさ、淫靡さを含む混沌としたエネルギーがある。
荒木さんが本格的にエロ(ス)写真を撮り始めたのも電通時代である。一九七〇年開催の個展「カルメン・マリーの真相」などがその嚆矢である。クライアントが求めるコマーシャルフォトを撮ろうとしない荒木さんは電通で飼い殺しになっていたようで、銀座の街で、当時フーテンと呼ばれていたカルメン・マリーと名乗る女の子をナンパして、電通のスタジオで勝手にヌード写真などを撮っていた。この頃の荒木さんが、作為に満ちたコマーシャルフォトに相当にカッカ来ていたのは確かで、「カルメン・マリーの真相」展では女性器の接写を大判写真に引き延ばして展示したりした。当時はもちろん今だって違法である。しかしお客は集まらなかった。
この展覧会について荒木さんは、「お客は、パラリパラリンコ、オマンコあるのにパラリンコ。孤独な私は、B全に引伸した女陰に我が聡明なるオデコをぶつけて終日オナニーしていた」と書いている。ユーモラスな文章だが、荒木さんが心底ガッカリしたのは本当だろう。男たちが見たいと望む女性器、社会全体が隠そうとする猥褻の象徴をあからさまに写真に撮って展示すれば、人々(主に男たちだろう)が大挙して押し寄せて来るはずだった。女性器の写真は隠されているものを暴く、人々が見たいと欲望する何かを露わにする写真の原理であり、その象徴のはずだった。思い立ったら一気に極端にまで進んでしまう荒木さんは確かに〝聡明〟だが、彼のエロスと人々が欲望するエロは決定的にズレていた。
「遊園の女」シリーズ
荒木さんの写真の基盤は一九七〇年の「カルメン・マリーの真相」展や、七一年刊行の『センチメンタルな旅』といった電通時代の仕事で表現されていると思う。写真はその発明以来、〝作為〟を王道的表現としてきた。写真撮影が珍しかった時代はもちろん、一般化した時代でも周到に計算された写真が世の中に溢れていた。しかし人々の見たいという欲望には限りがない。人は他者の隠された生活、隠された秘め事が見たいのだ。
他人のアルバム写真を見るとき、わたしたちはなんとも言いようもない不安を感じることがある。写真の普及によって、人は一人一冊のアルバムを持つようになった。それは基本的には本人と家族しか手に取ることがない書物である。よく知っているつもりの恋人や知人でも、アルバムを開けばそこには知らない生活がある。知らない時間と空間と表情がある。他人の生活の機微を覗き、見てはいけないものを見たのではないかという感覚はポルノグラフィーに近い。比喩的に言えば、荒木さんはごく初期の作品でアルバムとエロ(ス)を同質のものとして表現している。ただそれが決定的な表現の高みではないのが荒木さん最大の特徴だ。
巨匠の評価が定着したので荒木さんには真面目で四角張った賛辞が寄せられるようになったが、ご本人は相変わらず写真的猥雑を生きている。写真は隠された何かを白日の下に暴く表現だが、暴いてみればそれは一瞬で日常化する。雑誌「写真時代」のスター・エロカメラマンだった時代、当時は陰毛を写すのがタブーだったから、荒木さんは女性の陰毛を剃って恥丘を撮影した。それに飽きるとツルツルの恥丘にマジックで陰毛を描いて撮影して、編集長の末井昭さんといっしょに警察に呼び出されて怒られていた。警察はコケにされるのを何より嫌うのだ。家宅捜索や罰金刑も受けている。そのあたりのことはあまり語りたがらないが、荒木さんや末井さんは警察と相当激しくやり合ったはずだ。でなければ写真時代はあんなに長く続かなかっただろう。杓子定規に言えば彼らは反権力である。ただ政治的意図はぜんぜんない。スリッパで権力のうしろ頭を叩くような反権力である。
猥褻の定義は曖昧である。時代ごとに、また国によっても大きく異なる。アルバムとエロ(ス)をごたまぜにしたように、荒木さんは猥褻をグチャグチャにしてしまう。第二次世界大戦前後の日本社会を見れば明らかなように、たいていの反権力者は権力が本気になって潰しにかかればあっさり黙る。平時の反権力と危機の時代のそれは質的に違う。また権力による圧殺死に至るまで思想信条を貫くのは立派だが、芸術家にとってそれが最善の道かどうかは議論の余地がある。
荒木さんの反権力(的姿勢)はしぶとい。まれに権力と正面衝突してしまうこともあるが、たいていは脱力系のユーモアで権力者をも苦笑いさせてしまう。そしてブレずに表現し続けるうちに、現実に人々の強い支持を集めてしまった。今、荒木さんを猥褻で告発するのは権力にとって大きなリスクだろう。寝た子を起こしてしまうことになりかねない。
「空百景」シリーズ
隠されたなにかを暴くと、荒木さんはそれをまた隠すようにして写真を撮ってゆく。一枚の写真で表現されるような真実などこの世にないのだ。しかし取り返しのつかない今を切り取る切実な写真が束となり、アルバム=写真集となって積み上がってゆくとき、ある本質のようなものがぼんやりと浮かび出てくる。決定的な真理など、どこまで行ってもありはしないのは変わらない。どんなに衝撃的な何かが写っていようと、紙にプリントされた写真の裏は白いのだ。写真には隠された裏の意味などなく、すべてが表面に表現されている。写真がなければ誰もがすぐに忘れてしまう白紙的現実だけがある。
荒木さんが空を撮り始めたのは、妻の陽子さんがお亡くなりになってからだと思う。それは今では荒木さんにとっての定期的な原点確認になっている。荒木さんは空景を〝彼岸〟と呼ぶこともあるが、それは現実を写した写真でありながら、写真の裏側のような白でもある。空くらい誰が撮っても絵になる対象はない。だからアンセル・アダムスのように、〝まるで一枚の絵画のように〟美しい自然を背景にしなければ写真家は空を撮って来なかった。しかし荒木さんは凡庸な空が、何か特別で異様に見えて来るまで執拗に撮り続ける。ここでも確信に裏付けられた量が空を特別な表現にしている。荒木さんの空景によって、わたしたちはクウでありソラであるわたしたちの認識の源に近づく。
「切実」シリーズ
今回の展覧会は「大光画」「空百景」「花百景」「遊園の女」「八百屋のおじさん」「写狂老人A日記 2017.7.7」「非日記」「ポルノグラフィー」から構成されていて、最後のセクションは「切実」だった。それは公式図録の帯にあるような「切ない真実」の意味であると同時に、〝ある決定的現実が写った写真を切って、元の木阿弥の混沌に戻してしまう〟という意味でもあるだろう。写真は確かに感情の高みである切実を表現できる。しかしそれが人々に見られ、いわば言葉に囲まれ始めた瞬間からどんどん切実さは薄れてゆく。荒木さんはまた別の切実を求めて写真を撮り、それに色を塗り切り刻んでゆくのである。
「大光画」シリーズ
展覧会しょっぱなの写真は、確かこの楳図かずおさんと荒木さんのツーショット写真だった。この一枚だけでも五枚くらいのエッセイは書ける。いったいこの写真は誰が撮ったのか。荒木さんではないのは確実である。またちょっとピントが合っていないようだ。しかしそれらを含めて荒木さんの写真はある。荒木さんは写真が映し出す(と期待されている)真実ではなく、いつだって写真そのものが持っている真実に忠実なのだ。だから荒木さんには、少なくとも写真という表現の中では怖いものがない。
インスタントカメラが発売された時、荒木さんはいち早く「これから押しゃーしんの時代よ、みんなカメラマンだね」と言った。仕事がなくなるという恐怖など微塵もなかった。デジカメの時代になってさらに荒木さん的予言は世の中に浸透した。プロのカメラマンに求められるのは、クライアントや被写体とうまくやってゆける人当たりの良さや、スタジオでの照明機材の知識だったりする。しかし一歩外に出ればみんな同格のカメラマンだ。その中に小さいデジカメを手にした荒木さんもいる。ただこの写真家は写真の原点のように、ずっと前から人混みの中でカメラをのシャッターを押して来た。
ちょっとワタクシゴトを書くと、僕は小説や批評も書くが表現の骨格は詩人だ。そして屁理屈をこねていると思われるかもしれないが、〝詩的〟という言葉が大嫌いだ。今も昔も、詩は〝詩的表現〟が大半で、〝詩〟になっていないと思う。なぜか。詩的という雰囲気はわかっても、ほとんどの詩人が〝詩とはなにか〟という原理を捉えきれていないからである。しかし原理を把握すれば、人は詩的といった曖昧なアトモスフィアからも自由になれる。詩は詩であって詩的な表現などない。近代詩も戦後詩も現代詩もたいした問題ではなくなり、詩は詩であると言い切ることができる。
荒木さんを見ていると、本当に真実は人を自由にするんだなと思う。もちろん荒木さんだって、様々な世の中のしがらみと日々戦っているだろう。しかし写真以外の芸術ジャンルを見回しても、荒木さんほど自由な表現者はいない。このお方、今ではもうやりたい放題で、世の中がそれをあっさりと受け入れている。あくまで写真の真実に、原理に忠実であったことが荒木さんを自由にした。荒木さんは僕が憧れ見習うべきマイスターである。(了)
鶴山裕司
展覧会場のミュージアムショップで荒木さん関連グッズを買うと、このメタリック仕様のステッカーがもらえるようです。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■