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荒木経惟ポラロイド写真展『鏡の中』ハガキ(2015/5/1~10日 下北沢LA CAMERAで開催)

 

 

ポラの見(せ)方

 

 「荒木経惟のたのしい写真術」という特集に導かれて『SWITCH』を繰る。目当ては荒木の処女出版『センチメンタルな旅』(1971)のコンタクトプリント18枚と、ホンマタカシによる荒木経惟写真論――読み応えのある特集で、荒木の膨大な写真作品の山を前に立ちすくむ我々を適切な入口へと道案内してくれる。しかし案内人の測量技術をもってしても、その山の山体は完全には捉えられないようである。写真の地図上でもアートの地図上でも、他のだれそれの写真家とは明らかに分別されて位置づけられているその山は、まるでルビンの壺のように両義的である。それは語り得る「図」なのか、語りをすり抜けた「地」なのか――この言葉遣いは、特集中のホンマタカシと保坂健二朗との対談内容から借用した。

 

 荒木の写真は私写真である。それについて語ろうとする我々の(・ ・ ・)言語は、必ずその私性と反発する。写真の画面には、ある特別なプライベートな(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)ものが写っている。写っている、とまで言いかけるが、その先にいくら言葉を継いでも嘘っぽさの比率が増すだけなのを、我々は即座に察する。そこで被写体から写真撮影に目先を変えるわけだが、上記の対談の焦点である荒木の写真撮影のシステムは、重要な示唆をあたえてくれる。

 

K 「同じ方法論でたくさんつくる」というルールを明確にしたら、次の展開は形態上の差異を探していくか、集積による意味を見るか、そのどちらかを検討していくことになるので、いずれにしても量は必要ですよね。ただし、このルールの特徴は「見せ方」にこそ顕著に現れてくると思います。それによって、時間をつくることも、時間をフリーズさせることもできるようになるからです。

 たとえば、横一列に並べれば時間的に展開させていくことができるし、ベッヒャー夫妻がよくやるような3×3のグリッドに配置すると逆に時間がフリーズするんですよね。

(中略)

T なるほど、反復や繰り返しによって時間が生まれ、さらに操作できるようになるんですね。

K 一方で、絵画において時間が生まれるのは、そこに物語があるからだとも言われます。つまり抽象だろうと具象だろうと、キャンパスの「地」に対して何らかの「図」が描かるからこそ、その図の意味を解釈しようとして物語が生まれるわけです。したがって時間を乗り越えるためには、まずこの地と図の関係を断たなくてはならない。

(『SWITCH』vol.33 no.2 p.44 K…保坂健二朗 T…ホンマタカシ)

 

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(Water Towers, 1980 © Bernd and Hilla Becher)

 

 「量・反復・時間操作」というシステムに支えられた荒木の写真シリーズのうちで、もっとも静謐でありながらダイナミックに展開しているのは、ポラロイド写真であろう。荒木の膨大な写真作品のうちでポラロイド写真は物理的に巨大な堆積である(量)。ポラロイド写真撮影は荒木の仕事の全領域を包摂した「繰り返し」の記録である(反復)。そして、ポラロイド写真の堆積とポラロイド写真撮影の記録は、「いま」という時間を帯びることになる。荒木自身の語るところだ。

 

荒木 ずっとね、現在なの。ポラって現在っていうか、いまなの。むかしのが出てきたでしょう。でもすっごく同じだろ。ポラってそういう魅力があるんだよね。すべてを「いま」にさせちゃうんだよね。

(『ポラエヴァシー』 2000, p.111 飯沢耕太郎を聞き手に迎えた対談より抜粋)

 

 荒木とポラの出会いは「四角いポラ」が出たときだという。つまり名機SX-70が生まれた1972年から(荒木曰くポラはSX-70から人格=ポラ格を獲得した)、荒木のポラの膨大な「いま」は堆積し、ゆうに40年分を超えたわけである。ポラの展示空間を訪れるとその「いま」の在り様がよくわかる。下北沢のギャラリー「ラ・カメラ」では毎月10日間、ポラロイド写真の定期展が開かれているが、先月の展示作品と今月の展示作品の間に、旧作と新作のような乗り越えや刷新は感じられないはずだ。その時空間の均質さについては拙評「『ラ・カメラ』という暗室でも触れた。

 

 ポラロイド写真はその場で現像が行われて一枚の写真として出てくるのだから、一口に堆積と言ってもネガフィルムとは比べるべくもない。何万枚もの写真は大きく、重い。にもかかわらず、400冊以上もある荒木の写真集のなかで、ポラロイド写真集は数点しかない。私が手に取ることができたのは、上記の『ポラエヴァシー』(2000)とRAT HOLE GALLERYで開催されたポラロイド写真展「POLART 6000」に合わせて出版された『POLART』(2009)の二冊である。しかもこの二冊は、ポラの見方/見せ方で好対照をなしている。

 

 

『ポラエヴァシー』

 

 本作に集積したポラは撮影日時も被写体もばらばらに選別されているが、1ページに6枚の配置をもって、ポラの「いま」がマッピングされている。真四角のカラーフィルムはその風合いや質感も均質に感じられる。被写体は、様々な撮影仕事のモデルや、スナックのママ、カラオケの一般客、空、愛猫のチロ、身の回りの道具――つまり荒木の写真のあらゆる被写体が、撮影され、フィルムに収められる合間に(荒木は撮影のピークにポラを撮るとも述べているが)、ポラロイド写真によってまるで舞台裏のように撮影され、繰り返されてきたことが想起される。そこに「いま」が顕在化する。標題の通りだ。「パブリックなもの」に対してポラは「プライバシー」として相対する。「パブリックなもの」とは、社会的な発注・要請に応えたり、なおかつ現像・印刷において他者との協働があるような一連の制作過程を意味する。だが、それは荒木の単独の作業であってもいい、荒木のうちにも他者はあり、パブリックな欲望をたぎらせていよう。ポラの「プライバシー」に相対するとき、「パブリックなもの」は社会通念のそれよりもはるかに広義的だ。まず「プライバシー」を同定しよう。それはどこにある? ポラロイド写真の持つ特別な機構、不可侵の暗室がそれである。撮影者も鑑賞者も、そこから吐き出され写真に像が浮かび上がってくるのを手をこまねいて待つほかない、という機構。ポラの「プライバシー」はその機構においてパブリックな欲望を免れる、一言でいうなら、写真に「記念」を付与しようとする欲望を免れる。最たるものが日付の挿入である。『ポラエヴァシー』に「記念」の痕跡を探そうとしても徒労に終わる。荒木は先手を打っている。「記念」はすでに取り去られているのだ。

 

飯沢 しかも、すぐ見られて、撮っている人と一緒に楽しめるじゃないですか。

荒木 そう。これは2人だけのことなんだよ。そういう秘密っぽいことがなくちゃ。写真はそういうことがいちばん大切なのに、それをさあ、パアーッと広げちゃうのはダメよ。だから1枚ものっていうのがいいんですよ。でも僕だけのものじゃないんだよ。君と僕のものだという、そういうことなんだよ、これは。

飯沢 だから共同作業なんですよね。

荒木 そうなの。そんで、一応複製はできないじゃない。せいぜいお互いに持っていようね、と2枚撮るだけ(笑)。

飯沢 そうか2枚撮ればいいんだ。

荒木 あげるよってね。飲み屋で女の子を撮るじゃない。ちゃんといちばんステキなものをあげる。「オレ、悪いけどこっちはいつか使うからね」とかいう。

(『ポラエヴァシー』 p.102-3)

 

 見開きに12枚の写真のどこを探しても「記念」はない。モデルなどの情報を残らず検分すれば撮影日時や場所は同定できるかもしれないが、秘密にされたその「記念」の瞬間は誰の目にも触れられない。2枚撮ったもう片方を入手して並べたら、あるいはその2枚の微細な差異の中に「記念」を錯覚するかもしれないが、これもルビンの壺であることは明白だろう。すべてのポラは「プライバシー」を誰の目にも触れないところに閉じ込みながら、鑑賞者との間に即時即席に形作られると同時に破綻する「いま」へと開く。「プライバシー」の遺構として。さすが『写狂老人日記 嘘』(2015)ですべてのカットに「2014.4.1」の「偽記念」を挿入し、その欲望を皮肉ってみせた荒木である。

 

 

POLART』(包囲、そして失敗)

 

 『ポラエヴァシー』がポラの「プライバシー」の不可視性に根ざすのなら、『POLART』の作為的な構成は、ポラに対するどのような試みなのか。ここでもまた標題が雄弁である。ポラとアートの接続。保坂の言に戻ろう。それはポラをアートの手法で再構成し、「図」を再発見しようとする試みではないか。さらに言えば、物語の不在に耐えきれなくなったパブリックな欲望によるポラの包囲である。「記念」はもう取り去られているというなら、「偽記念=フィクション」によって写真集を一冊構成する。もちろん「POLART 6000」と題した展示も同時進行である。本作に収録した約1000枚のポラには「夜顔チロ」「kaori2001-2009」「闇夜2 射精」「バルコニーの空は西の空」「百花淫 乱」「エロッキー」「明太子」といった写真作品のシリーズが含まれている。冒頭一枚目をかざる荒木の言葉「写真は淫売である」から始まり、ページを繰っていくと、そこにある物語性を捉えることができる。執拗にヌードと女性器を捉える真四角の画格は、だんだんと性を思念化していく。女性器には日の丸の赤く塗られ、ヌードの輪郭線をペンで縁取り、温泉卵に割れ目を入れた連作、一口大にぶつ切りにされた縦位置の明太子の連作、と続く。『ポラエヴァシー』状に無秩序な配置は影をひそめていき、作品シリーズがその連続性を持ってページを構成していく。「闇夜2 射精」のシリーズであろう、真っ黒に飛んだ写真に白濁したインクを散らす。対照的に、真っ白に飛んだ写真には色とりどりの絵筆を走らせる。掉尾をかざる連作は夕焼け空の空景。写真作品のシリーズは荒木の反復の一部であるが、それだけで構成された見開きの紙面は明らかにアートの枠組みでポラを包囲している。写真集全体としては、本の本領に立ち返るように、物語を付与しようとしている。荒木のパブリックな欲望、しかしそれがポラへの一時の欲情のような「偽記念」であることは、荒木にとって自明である。「闇夜2 射精」はそうした欲情への批判でもある。ポラが写し撮ると同時に奪い去ってしまうあの不可視の「プライバシー」を、見ないための(・ ・ ・ ・ ・ ・)闇夜。その代わりに錯覚する甘美なフィクションに対する欲情をぶちまけるのである。欲情は、しかし、一時の発散を経て、解消されるものだ。終わりにかけて秩序立っていく本作の構成は、その後アートの包囲がポラの量的優位に破られて、無秩序な堆積に回帰することを予感する。

 

 

できない、できない

 

 『ポラエヴァシー』も『POLART』も、荒木による命名だ。写真家本人が名付けによって二つの写真集の構成に動機と欲望を与える、というのなら、この自己矛盾的な名付けは荒木のどんな動機と欲望に由来するのか。それはポラを撮りつづけてやまない、やめることができない、荒木の視線の欲望である。我々は荒木の展示するポラを鑑賞するとき、その均質さと「いま」の質感を束ねる荒木の目を追体験することになる、とは前述の拙評と本論の接続点であるが、ここをもう一歩踏み込まねばならない。鑑賞者の鑑賞の一回性が必ずしも捉えきれないのは、荒木の視線の反復する欲望である。それはポラロイド写真に呪われた呻吟である。曰く、「できない、できない」

 

 本論の標題「不可侵の暗室、不可視の私室」も、パブリックな欲望も、その一時的代理となる物語への欲情も、すべてはこの視線の困窮に由来するのである。シャッターを切って、写真がべーっと吐き出され、徐々に像が浮かんでくるその時間感覚が、荒木の写真家の全時間へと引き伸ばされているのだ。写真に像が定着したその最後の瞬間には、あの2人の秘密は、「プライバシー」は、現像された遺構に隠されてしまう。「いま」が到来する。では2人のあの瞬間はどこへ? 「できない、できない」 すべてのポラロイド写真に彼/彼女と分かち合ったもう1枚が存在する。それは彼/彼女にあげてしまう。2人の「プライバシー」を守るために、自分自身からも取り上げてしまう。写真家の欲望は自己矛盾を起こす。また撮影する。また矛盾する。また撮影する。繰り返す。「できない、できない」 視線はさらにねばっこく、強度を増す。いずれ死が盲目を運んでくるだろう。ポラの像が定着するまでの数十秒の間に。もし写真家の欲望が満たされ、「いま」を開かずに済むとしたら、その時だろう。

 

 現在、ポラロイド社が中止したポラロイド写真のフィルム生産は、IMPOSSIBLE社によって復活し、像の定着に数分を要する新方式ながら、ポラロイド写真家の活動を一手に支えている。2012年、IMPOSSIBLE社のフィルムと世界最大のポラロイド写真機を使った巨大ポラが荒木の手で撮影・展示された。約51cm×61cmの巨大ポラロイド写真は、撮影から数ヶ月を経て定着し、モデルを務めたKAORIの像はついに「いま」に開かれた。数十秒、数分、数ヶ月、徐々に引き伸ばされた像の定着と、「プライバシー」のための猶予期間。鑑賞者がその時間に触れた時、均等で静謐なポラロイド写真の展示空間は、呻いてやまない写真家の欲望の展示へと変容する。

星隆弘

 

 

 

 

 

男 アラーキーの裸ノ顔 (ダ・ヴィンチBOOKS) 写狂老人日記 嘘

 

 

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