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(荒木経惟写真全集17『花淫』(平成9年[1997年]平凡社刊)より)

 

 

 昔から、写真については腑に落ちないことがあった。それはジャンル分け、すなわち写真の分類である。風景、人物、静物などと分けられているのが、何となく不思議でたまらない。それが無意味かというと、素材写真を探すときなどには確かに役に立つことも多い。欲しい写真が風景なのか、人物なのか、具体的にどんな物なのかはあらかじめイメージされているケースが多いからだ。

 

 しかし荒木経惟が言うように、「お写真」とは「押しゃーしん」であって、押しゃあ写る。シャッターを押したら、広々した風景の中に中途半端な大きさの人物が何人か写り込んでいて、手前の芝生に蜜柑が転がってる、という写真は、ではいったい何に分類されるのか。

 

 こんな疑問を引きずっているのは、もちろん私が写真について無知だからに違いない。写真にはフォーカスというものがあって、それによって何を撮りたいのかが伝わる。撮りたいものをクリアに撮るために露出というものもある。カメラがほとんど自動になったということは、撮る人の狙い、意図を読み取り、そこに自動で都合よく合わせていってくれるということだろう。そして狙いが定まらない写真というのは、つまりは下手くそということになるのだろうか。

 

 風景、人物、静物と、水彩画や油絵ならそれぞれに磨くべき技術があろうものだが、押しゃーしんではおそらく何を撮ろうとするのか、何を写し出してやろうとするのか、意図する力が技量だと言うべきなのだろう。さらにはその念が生み出すタイミングだとか、人物ならば被写体への説得や、有名人ならば事務所への根回しも含めてカメラマンの実力ということになろう。そしてその意図なり念の力なりは、確かに印画紙に写る。何を撮ろうとしたか、何の狙いがあるかは、観る者にはっきり伝わるのだ。押しゃー写るだけであるからこそ、なおくっきりと。印画紙というのはそのくらい敏感な代物で、私たちの網膜もまた。

 

 そうならば写真とは、撮る者の写真に対する認識や知性が、描き手の絵画へのそれよりもずっと露わになりやすいものと言えるかもしれない。そして写真に対する認識や知性は、取りも直さず被写体に対するそれということになる。世界中のすべてが押しゃー写るのなら、それは無際限の批判精神ということになりはしないか。無際限の批判精神はすなわち批判の蕩尽に至るだろう。

 

 押しゃー写る器械を手にしているからこそ、明確な認識を持っていなくては、それこそ押して写ったものになってしまう。持つべき最初の、そして全うすべき認識とは、まさにその押しゃー写るということであって、だからこそ何を写すべきか、この世で何が価値あるものなのか、という自我を離れた価値観に相違ない。

 

 荒木経惟の撮る花が好きだ。それは花という概念を超えて淫らで美しく、血が出るように生々しい。しかしそれはジャンルとしては静物写真なのだという。果物籠とか食器の並ぶテーブルと同じく、動くことのない静かなものだという。

 

 そんなことがあるかと思う。写真に写ったものは、すべて動かないではないか。もとの被写体が本来、動くものかどうかなど誰にもわかるものではない。そしてそもそも、花は動いている。私たちの時間とは違う、ゆっくりした時間を生きているだけで、静物ではなく生物なのだから当たり前だ。

 

 生物たる花とともにあるものは、より静物的なものだ。ヤモリのミイラ(ヤモリンスキー)、じっと動かないハエは生きているのか死んでいるのか、わからない。恐竜のおもちゃ。あるいは新巻鮭の頭が花器になる。ときには上の塀を猫が横切るが、露出が長いので輪郭 = 存在が掠れている。

 

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(同)

 

 すなわちこれらの〝死〟を示唆する物たちは、花の〝生〟に包まれている。この世で最も美しくエロティックな女性器そのものに包まれるそれらは、男性器の喩でもある。荒木自身が「ヤモリンスキーはアタシの分身、オチンチン。花びらの上にごろーんとして気持ちよさそうだろう。女陰に憩うって感じが出てる」(「アラーキー『花淫』を語る」)と言う通りだ。

 

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(同)

 

 女陰は生きた女の肉体から切り離すことはできないけど、そもそも男性のそれは動きがあっても無生物、奇妙な装置のようにしか見えない。ムスコなどと呼び習わしながら人格がないとも言われ、男の人たち自身もやや持て余している一種の静物ではないか。

 

 その、それは生きて活動している男の人たちとは、とりあえず切り離されている。一方で、男の人たちが自我を縮退させ、〝死〟のフィルターを通して自身を見ようとしたとき、それは自身の分身、文字通りムスコとか墓標のようにはたらく。

 

 すでに死んで干からびているヤモリンスキーを荒木は、「気持ちよさそうに女陰に憩っている」と言う。それはそのように見えるし、そのように狙って撮られているということである。これらは最近の作というわけではないが、カメラマン荒木の意識は、すでに生と死の境を乗り越えようとしている。かつて生きていたヤモリンスキーはいまや死んだ静物だが、生物たる花と交わって気持ちよさそうだ、と。それは彼岸のセックスであり、ヤモリンスキーは自身の分身である、と。

 

 死を近づけ、魅了して憩わせることで、花の生はいよいよ鮮やかに力を漲らせる。だから花は、それ自体にすでに死を内包している。荒木は枯れた花を撮ることを好む。枯れかけた花は生の火花を散らし、枯れて死んだ花はその生の輪郭をくっきりと示す。ある種のテキストのように。

 

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(同)

 

花を最初に本格的に撮ったのは、70年代のはじめ、アタシが生まれ育った三ノ輪の浄閑寺だった。お彼岸のころって花がいっぱいお供えしてあるじゃない、それを1、2週間待って、枯れかけを撮る。墓守と仲よかったから、『片付けないでくれ』って話つけて、白いボードをいろんな墓の前に立てかけて、白バックにして、枯れかけの彼岸花を撮りまくった。

(「アラーキー『花淫』を語る」)

 

 三ノ輪の浄閑寺は、いわば荒木のルーツである。経帷子を思わせる荒木経惟という名はその和尚が付け、子供の頃の荒木は、遊女の墓でその骨をごちゃまぜにして遊んでいたという。その墓に備えられた花こそが生と死、そして性を色濃く帯びた、荒木にとっての〝花〟そのものである。言葉を変えれば、あらゆる花は寺の墓の前で性の匂いをいっぱいに放ち、生と死のあわいに咲くものでなくてはならないはずだ。しかし生物としての肉感的な花を撮ることは、荒木の狙いとしては二の次でしかないかもしれない。

 

背景は白ですよ、『無』でなくっちゃ。花の内面というか、内側にあるものが太陽のつくる影で出てくるから。(中略)ときには遊んで背景の色を変える。(中略)色を使うと格調のない感じになる。白バックだと精神性みたいなものが出るんだけど、背景に色を使うと花が動物的な感じになるんだよ。

(同)

 

 背景の白ボードは、浄閑寺で最初に花を撮ったときからのものだという。この白は、太陽のつくる影をそのまま受け止めるためのものだ。太陽とは花を開かせ、枯れさせるもの、死に向かわせるもの。つまりは時間そのものだ。時間がつくる影、それがすなわち内面であるに違いない。白の背景に映った影とは、精神に映り込んだ言葉のように表れるものであろうか。もし色が入れば、その内面は肉体の風情として表現されるようでもある。

 

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(同)

 

 時間とともに死を内包し、死へ向かう花でなければ、〝内面〟はあり得ない。それは人もまた、同じだろう。写真に人の内面が現れるというのなら、それは花の内面が写るのと同じ原理であるはずだ。印画紙は光と影のみに感応し、それが言語化して目に映るとき、私たちはそれを内面と呼ぶ。花の背後の白バックは、「写真における内面の示され方の原理」を端的に示している。

 

 私たち自身は、言語によらない表現形態として「顔」というものを持っている。肉体・姿態もまた表情を帯びるが、その饒舌性と明確さにおいて「顔」は言うまでもなく突出している。荒木はまた、様々な顔を撮ってきた。人間の顔の中でも、表現としての表情を最も豊かに、衒いなく示すものは子供の顔である。荒木のデビュー作『さっちん』は、今はその原型そのままを確認することはできないが、まさにそのような「顔」の集成だ。荒木自身は「しょんべんリアリズム」と自己批判するものの、 子供文化やノスタルジーといったコードを読んでしまうのは社会の大人たちであり、そうである以上はそれを狙っていたと言えるが、過剰ではない。

 

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(荒木経惟写真集『さっちん』(平成6年[1994年]新潮社刊)より)

 

 子供にも過去はある。生まれてからの数年で、それなりに形作られた内面は深刻であったり、先々オヤジになったときの風情をすでに浮べていて笑ってしまったりする。ただ子供の内面は、たいていはその瞬間、瞬間の喜怒哀楽に吹き飛ばされている。子供とは唯一、豊かな表情を無条件に許された存在だ。

 

 荒木の撮る大人たちの顔は、どちらかと言うといわゆる無表情である。子供とは違う、大人の表情が語る饒舌な何かを拒絶している、というよりは、あまり信じていないようである。子供の涙は樹木を切ったときの樹液のように流れ落ちるが、大人の涙には理由がある。多かれ少なかれ社会的な、その物語をあまり信じていないということだ。

小原眞紀子

(後編に続く)

 

 

 

 

 

男 アラーキーの裸ノ顔 (ダ・ヴィンチBOOKS) 写狂老人日記 嘘

 

 

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