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 INAX 出版から発行されている、文字通り “ お風呂の本 ” の傑作である。どのように傑作かというと、絵のある本としてのテキストとヴィジュアルの他に、手触りといった皮膚感覚が伝わってくるのだ。それはお風呂の本としては、実に欠かせない要素だと気づく。

 

 この手触り感はしかし紙質といった物理的なものからではなく、ヴィジュアルの質からもたらされているのだ。これが絵のある本としても傑作である理由である。キャサリン・カナーのマットで柔らかい、それでいて芯が冷たく硬質な感じのイラストはどこか石鹸を思わせる。紙面全体に湯気がこもったように、ふんわりした、それでいて清潔な空気に満たされている。

 

 INAX は現在、LIXIL と変わり、つまり出版から時が流れている。しかしながら、浴室には時間というものがないのかもしれない。少しも古びてはいないし、それは本書にも描かれているローマの昔から変わっていないように思えるのだ。つまり快楽に時代はない、ということか。

 

 眺めているだけで快楽のバスタイムそのものであるような本書だが、同時に実用書でもある。ハーブや重曹、シャンパンまでも用いた入浴剤のレシピの数々には魅惑的な名が付いていて、やはり試したくなる。そしてこれらの材料には、確かに時間は関わらない。太古の昔からミントはミントであり、薔薇の花びらは薔薇の花びらで重曹は重曹、シャンパンはシャンパンだ。

 

 生まれたままの裸で、湯や水に肌を晒している状態というのは、五感がよほど研ぎ澄まされるのだろうか。太古の昔から変化していない天然の香りと人工物の匂いとの差異を、ほとんど皮膚でそれを吸い込みながら嗅ぎ分けていくようにも感じる。そして湯の温度、水の柔らかさ、しゃぼんの肌理など陶然としつつもこれほど敏感になっているときはないのではないか。

 

 そしてそれへの判断は、おそらく昔から変わらないのだ。本書に描かれている様々なグッズについてもまた、不思議なほど私たちの嗜好は変化していないように思う。つまりそこに流行はない。なぜかと言えば、もしかして服を着ていないからかもしれない、と思う。

 

 たとえば私たちは本書を開くとき、白くマットな滑らかさを持つ猫脚の浴槽を古めかしいとは思わない。(そして何らかの理由により、もし浴槽が白ではなかったとしても、やはり猫脚は金色であってほしいと思う。)その快楽は、今現在の快楽と直接的に結び付いている。それは実のところ身体のラインに沿った縦長の浴槽で、身体を伸ばせる、というものではないか。

 

 今も昔も猫は伸びをするし、暖かな日差しにとろとろ眠る。快楽の象徴としての猫脚は文句なく輝かしいもので、それは私たちが視覚的に求めるものだ。開くたびに湯気と香りが立ち上る本書では、目に入るもののすべてが快楽のかたちをしている。字体までが美しい。

金井純

 

 

 

 

 

 

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