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荒木経惟 『男 ーアラーキーの裸ノ顔展ー』(ダ・ヴィンチ創刊20周年記念事業)

会期:2015年4月24日-5月6日

会場:表参道ヒルズ 本館地下3階 スペース オー

主催:ダ・ヴィンチ 表参道ヒルズ

 

 

 表参道ヒルズ地下3階、文芸雑誌「ダ・ヴィンチ」で1997年から連載している巻頭企画「アラーキーの裸ノ顔」を総ざらいする本展は、連載第1回目のビートたけしから始まり、最新撮り下ろしの北野武まで、207点を一挙展示する。居並ぶ各界の著名人は誰もがよく知っている。テレビで雑誌で街頭広告で見る面々だが、どういうわけか、そちこちで見た彼らの顔とは異なる印象を受けてやまない。この人はこういう顔だったんだ、来場者は毎日毎週見ているはずの男たちと対面する。「見る」よりも「会う」のほうが適切な写真鑑賞がある。瞬間、来場者と被写体の間に何があったのか、我々を彼らに会わせなかったガラス戸のような透明な存在が、浮き彫りとなる。荒木はそれを「過去」と呼ぶ。

 

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「男の顔っていうのは男の裸、人生なんだよね」(ダ・ヴィンチ 2015年5月号 p.166)

 

「男にはいろんな魅力があるってことですよ。それを表現してるから、顔で。その人の根性でさ。そこにただいれば、それが出ちゃんだな。男は、だからやってきた過去を背負ってないとダメなんだよね。過去がないと未来が見えないんだよ。生きてるって感じがでてこない。」(同上 p.167)

 

 

 さらに「仕事」と読み換えれば、我々と彼らの間にさし挟まっていたものがはっきりしてくる。我々にとって彼らの自伝的な「過去」はあまり重要ではない。それは一部のファンや芸能記者がありがたがるものだ。我々にとってーー彼らの仕事を享受してはささやかな対価を支払うばかりの大衆にとってーー重要な「過去」は、彼らの作品や成績に凝縮し点在する瞬間的な具体としての「過去」である。どんな小さな広告写真であっても、それを見るとき、我々と彼らの間には「仕事」が挟まれている。我々はそのような窃視を行って日常を送っている。だから面食らう。荒木の写真が用意する対面の瞬間、我々ははじめて「仕事」の前景にせり出した彼らの「顔」を目撃するのだ。

 

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「『裸ノ顔』っていうのは、つまり日常のことじゃないんですよ」(同上 p.174)

 

「秘密だよ、秘密。どんなヤツでも一番の魅力は。やっぱりね、隠しごとがないとつまんないんだよ、男も女も。」(同上 p.174)

 

 

 そのような写真が撮影される現場について、荒木は「真剣勝負」という表現を好んで用いる。被写体と真正面を切って対峙すること。そこでは素顔は捨象される。真正面を切る以上、背中を覗き込むような真似はできないからだ。隠し事は隠したままであり、ただ隠しごとの気配だけを事実として複写する。白バックを背景に、仕事と秘密は、被写体の背景に見えあるいは隠れ、その佇まいの明暗だけがモノクロームのフィルムに化学反応する。そのような彼らの「顔」を我々はほかに見ることがない。

 

 背景化する彼ら被写体の「仕事」の代わりに、前景化するのは荒木の「仕事」でもある。真剣勝負に例える写真家の態度は、<私写真家>荒木経惟にとっての日常である。被写体が人であれ風景であれ、「時を撮る」というのが荒木の言い草だ。この<時>の観念には、<荒木自身の生きる時>と<被写体の存在する時>の二重の意味がある。写真はその無数の交点に点在する。2013年に右目を失明した荒木は、撮影した写真作品の右半分を黒く塗りつぶした(『左眼の恋』)。失明という私的な<時>の受容を写真の写した被写体に接続する、それは「私写真家の仕事」である。我々は荒木の写真と対峙するとき、荒木の目を想起せずにはいられない。本展の構成は同一サイズのオリジナルプリントを被写体の年齢や職業を問わず一列に並べる。その均等さは、荒木の目という中心点からの放射線を反映する。つまりそこに視界が現在する。荒木の写真の展示空間には荒木の視界が構築されるのだ。

 

 

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「わざわざ遠くのお山まで行くことないんだ。隣の家の紅葉が風に吹かれて落ちてきた、そっちのほうが魅力的だっていう写真家だね、俺は。」(同上 p.169)

 

 

 多くの場合、写真とは畢竟、窃視であろう。写真家は被写体の視界に介入・干渉する自身の存在を無に近づけ入念に窃視を行うものだ。しかし荒木はその存在のユニークネスを被写体に放射しているのではないか。荒木が被写体に気が付くその瞬間に。写真作品がいかに窃視的な構図であろうとも、写真原理において荒木の写真は窃視ではない。被写体は荒木の<時=視界>との交点に発見され、シャッターを切るとともに正対面から見据えられる。遮断をもって照射する。

 

 

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 本展に浮かぶ男達の顔、顔、顔。ビートたけしから北野武まで一周した来場者は、まさにそれが一周回であることを知り、その構成の均等さ、中心のなさになにを想起するのか。大物俳優と人気子役が隣り合い同じ画角に収まり得る空間とは。すべての作品が荒木の<時>との交差、あるいは邂逅によって切り取られたものであることに思い至るとき、本展の中心が現れるのである。荒木の目を通して彼らに対面したという実感はたしかに残るのではないか。真剣勝負の夢のあと、特別な回廊を通り抜け、再び我々は表参道の大衆の日常に回帰する。我々の窃視的なプライベートに。そうして、荒木のプライベートな空間を後にするのだ。

星隆弘