俳句界 2014年 09月号 [雑誌]

 

 

 「月刊俳句界」今月号の特集は「再検証 大正俳句の格調」である。編集部の文章には「俳句の格調は大正時代において、その絶頂を見ることが出来る。虚子、蛇笏、石鼎、花蓑などの花鳥諷詠派はもちろん、論客でもあった大須賀乙字らが新風を起こし、松根東洋城らの渋柿派も清廉潔白な句風を樹立した。また、文人俳句の最盛期も大正時代に見ることが出来る。現代俳句の興隆は、大正時代の絢爛たる遺産あってのことと言っていい」とある。なるほどそういった捉え方もできるんだなぁと素直に思った。

 

 前回、「個々の作家性とは別に、全俳人の作品は、いわば俳句文学を主体(創作者)と措定して選び直される可能性がある。その意味で俳句は集団的芸術であり、座の文学だと言うことができる」と書いた。個々の作家の俳句人生をY軸、時代をX軸と措定すれば、Y軸を水平に貫くX軸として各時代の俳風(俳句状況)を概観できるわけである。もちろん自由詩や小説でも同じ操作はできるが、俳句文学ほど鮮やかには時代性が浮かび上がって来ない。自由詩と小説は明治維新以降に確立された自我意識文学である。しかし俳句はそれ以前から続く非自我意識文学の側面を引きずっているのである。

 

時代の趨勢を捉えたのは河東碧梧桐の新傾向俳句運動であった。(中略)しかし(中略)あまりにも性急な碧梧桐は俳句の革新運動を文学運動の場へと拡散させ、季題の放棄、十七音字の破壊、自由律から短詩へと変貌をかさね、その上、当人の俳壇引退という結末になってしまった。そのために、碧梧桐に対抗し、守旧派と称した高濱虚子の「俳句の土台」を堅持した「ホトトギス」の俳句運動だけが勝ち残り、大正俳句の歴史は、即「ホトトギス」誌での俳句俳人の祖述に終始してきたことは衆知である。

(「大正俳句の特徴-実感重視と地貌の発見」宮坂静生)

 

 引用は宮坂静生氏による特集のためのレジュメ的文章である。必要十分なまとめだと思う。正岡子規以降の俳壇に新風をもたらしたのは河東碧梧桐だった。碧梧桐起点の新傾向俳句運動は荻原井泉水、中塚一碧楼らの理解者を得て種田山頭火、尾崎放哉らの俳人を輩出し、現在も自由律俳句として一派を成している。しかし五七五に季語の、いわゆる〝俳句定型〟からの逸脱を積極的に許容した新傾向俳句(自由律)派が俳壇の大勢を占めることはなかった。高濱虚子が大正二年に俳壇に復帰すると、〝有季定型花鳥諷詠写生俳句〟を是とする「ホトトギス」が俳人たちの圧倒的な支持を集めた。特集のテーマになっている「大正俳句の格調」とは、虚子俳壇復帰後の大正年間の俳風を指すのである。

 

春風や闘志いだきて丘に立つ                    高濱虚子

 

 「春風や」は大正二年二月十一日の紀元節の日に三田俳句会で詠まれた句である。虚子の俳壇復帰の覚悟を表現した〝述志〟の作品として名高い。この句について宮坂氏は「とはいえ、季題「春風」は一切の「闘志」云々の激しさを包含するにはおっとり過ぎないか」と批判しておられる。なるほど虚子が強い自我意識を表現しようとしたのなら、「春風」と「闘志」の組合わせは〝ぬるい〟かもしれない。しかし俳句文学に即せば、作家の強い自我意識は室町から明治時代まで基本的に変化しなかった俳句定型に異議申し立てをした、新傾向俳句派の方にこそあるだろう。虚子が新傾向俳句への対抗意識もあって俳壇に復帰し「春風や」を詠んだのなら、述志が花鳥諷詠の文脈に沿っていることは必然だとも言える。

 

 よく知られているように、虚子は子規門俊英として俳人として頭角を現しながら、若い頃から小説家になることを夢見ていた。虚子青年時代の小説界は文語体から言文一致体への移行期で、子規がいち早く言文一致体で小説を書く文章会を開いた。虚子はそれを受け継ぎ言文一致体小説やエセーを「ホトトギス」に掲載した。夏目漱石がこの文章会に最初(第一回目)の「吾が輩は猫である」を提出し、それが嚆矢となってあれよあれよという間に流行作家になっていったのは衆知の通りである。虚子は漱石と肩を並べるように小説創作に精力を傾けたが、ある時点で小説に見切りを付けた。それが大正二年の俳壇復帰に繋がっている。一説には漱石門から芥川龍之介がデビューし、その作品を読んだ虚子が、もはや自分の小説家としての時代は終わったと感じたからだと言われる。

 

 小説家になるという志を貫徹できなかった虚子の心には忸怩たるものが残っただろう。しかし僕は小説家になれなかった虚子というマイナス面に注目したいわけではない。むしろ虚子の断念の深さがその後の俳句文学に決定的な影響を与えたのではないかと思う。漱石を別格とすれば、子規門は二人の小説家を輩出している。伊藤左千夫、長塚節である。左千夫の『野菊の墓』は当時のベストセラーになり、それにいたく感動した漱石が『坊っちゃん』を書くきっかけになった。節の『土』も名作として名高い。子規は左千夫や節を愛したが、虚子宛の手紙でしばしば左千夫や節は本当に頭が悪いと愚痴をこぼしている。子規が後継者と見なした門下の俊英は虚子だった。しかし子規には愚鈍と映った歌人二人が小説家として成功し、俳人から作家は現れなかったのである。

 

 

芋の露連山影を正しうす                         飯田蛇笏

日輪を送りて月の牡丹かな                      渡辺水巴

頂上や殊に野菊の吹かれ居り                    原石鼎

海の中に桜さいたる日本かな                      松根東洋城

さみだれのあまだればかり浮御堂                  阿波野青畝

流氷や宗谷の門波荒れやまず                    山口誓子

葛飾や桃の籬も水田べり                         水原秋櫻子

春水や蛇籠の目より源五郎                        高野素十

 

 特集から大正「ホトトギス」的な格調高い作品を抜粋した。これらの作品が発散している清新さは、端的に言えば虚子の花鳥諷詠、有季定型写生が斬新であった時代精神の賜だろう。新傾向俳句派の新しさを横目で見ながら、大正デモクラシーへと向かう自由な気風の中で有季定型にこだわり、古典的花鳥諷詠を表現の基盤とすることには勇気が必要だったはずである。またそこには虚子の俳句文学への本質的理解があったと考えられる。

 

 左千夫、節を始めとし、林芙美子、岡本かの子と小説家としても成功した作家には歌人が多い。短歌は物語文学の母胎だからと言ってしまうと実も蓋もないが、俳句よりも人間の情念を歌うのに長けた文学であるのは確かである。しかし俳句は異なる。俳句が短歌とは異なるアイデンティティを確立できたのは、その表現から情念を排したからだとも言える。単純に自然(花鳥)を詠むことで人間精神の様々な機微を表現できると発見したことから俳句文学は始まっているのである。その意味で俳句における述志の作は、イレギュラーな作品だと言うこともできる。虚子の小説断念と俳壇復帰は、自らの資質の再確認と俳句文学の本質把握が同時進行したものだと言うこともできると思う。

 

神田川祭りの中を流れけり                       久保田万太郎

木がらしや目刺にのこる海のいろ                  芥川龍之介

  夜寒

鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな                   室尾犀星

 

 これらはいわゆる文人俳句である。専門俳人以外の作家が書いた作品を文人俳句と総称するわけだが、大正時代は文人俳句の隆盛期だった。現在も小説家や自由詩の詩人たちが俳句を書くことはある。しかしたいていは手慰みの遊びか、小説や自由詩で行き詰まった作家による俳壇への色目であることが多い。しかし大正期の文人俳句はそれとは質の異なるものだったと言っていいだろう。

 

 大正時代は戦後にまで続く詩壇、文壇の揺籃期だった。「ホトトギス」から漱石がデビューし、明治末から大正時代前半にかけての小説家たちがまず同人誌によって頭角を現したことからわかるように、大正時代後半になってようやく商業誌主導の詩壇・文壇が成立した。〝権威〟としての詩壇・文壇が確立されるのと同時に、作家たちは自ずとそのシステム(制度)に取り込まれるようになった。逆に言えば大正初期までの作家たちは、文学ジャンルの区分を現在のようにスタティックなものとしては捉えていなかった。虚子が自らの資質を再発見することで俳句に回帰したように、様々なジャンルでの試行錯誤を経てメインの表現ジャンルを定めた作家が多かったのである。大正文人俳句に軽味(俳句専門ではない、専門とはしないという断念)があり、かつ俳句文学のある核心を踏まえている気配があるのはそのためである。

 

 俳人に限らず作家は皆自らの表現ジャンルに意識を集中させる。そのジャンルが〝世界〟そのものなのだと思い込むほど熱中しなければ、優れた表現者にはなれないのも確かである。しかしあるジャンルは万能ではない。俳句では表現できない(しにくい)事柄はあるし、自由詩や小説でも同じである。自らの表現ジャンルを愛する余り、それを世界と取り違えるのは危険である。それでも俳句万能主義を唱えるのなら、逆接的だがまず俳句は何が得意で何が不得意なのか、そのアイデンティティは何なのかを的確に認識する必要があるだろう。

岡野隆

 

 

 

 

 

 

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