俳句界 2014年 06月号 [雑誌]

 

 

 今号の「月刊俳句界」では「特集 俳句史 師弟対決名勝負~新しい俳句は師弟の対決から生まれた!」が組まれている。「正岡子規vs高濱虚子」、「高濱虚子vs日野草城」、「水原秋櫻子vs高屋窓秋」、「飯田蛇笏vs飯田龍太」、「加藤楸邨vs澤木欣一」の五本の論考が掲載されているが、大井恒行氏の「水原秋櫻子vs高屋窓秋」が面白かった。「秋櫻子vs窓秋」は、簡単に言えば新興俳句から現代俳句への流れだと言って良いだろう。俳人の方は頭に入っている句ばかりだと思うが、大井氏選の秋櫻子と窓秋の代表句を転載しておく。

 

梨咲くと葛飾の野はとの曇り

葛飾や桃の籬も水田べり

高嶺星蚕飼の村はしづまり

冬菊のまとふはおのがひかりのみ

余生なほなすことあらむ冬苺

秋櫻子

 

頭の中で白い夏野となつてゐる

ちるさくら海あをければ海へちる

山鳩よみればまはりに雪がふる

雪月花美神の罪は深かりき

花の悲歌つひに国歌を奏でをり

窓秋

 

 秋櫻子は明治二十五年(一八九二年)生まれで、昭和五十六年(一九八一年)に八十九歳で没した。帝大医学部卒で産科医を職業とし、宮内省侍医も勤めた。俳句は高浜虚子主宰の「ホトトギス」に参加し、山口誓子、阿波野青畝、高野素十とともに「ホトトギス」の4Sと呼ばれた。この時期が「ホトトギス」の全盛期だった。しかし花鳥諷詠、有季定型写生俳句厳守の虚子と次第に対立するようになり、「馬酔木」の主宰となって虚子門を離れた。当時は俳壇イコール「ホトトギス」の時代だったので、秋櫻子の離脱は俳壇全体に大きな衝撃を与えた。秋櫻子の「ホトトギス」離脱が新興俳句の出発点だと言われる。子規-虚子と続いた有季定型写生俳句時代の終わりであり、秋櫻子起点の新興俳句が現在にまで続く百花繚乱の俳句風土を用意したのである。

 

 だた秋櫻子の新興俳句が、形式的にも内容的にも「ホトトギス」的有季定型写生俳句を基盤としない、いわゆる現代俳句に直結しているとは言えない。大井氏選の秋櫻子句を読めば明らかなように、彼の詠みぶりは古典的である。「との曇り」、「籬」、「高嶺星」などの単語は『万葉集』からの影響である。様々な読解評価があるだろうが、単純化すれば秋櫻子作品は〝清い〟。あと一歩で観念の世界に届きそうなほど清く、またそれゆえ時には表層的言葉遊びにも映ってしまうのである。山本健吉なら「もっと濁りが欲しい」と言うだろう。

 

 高屋窓秋は明治四十三年(一九一〇年)生まれで平成十一年(九九年)に八十九歳で没した。奇しくも師・秋櫻子と同年齢だった。窓秋自身は「なにも謎はありません」と断言するだろうが、この俳人の軌跡は実に奇妙だ。友人に勧められて俳句を書き始め、句集を出版しろと促されて出したと回想している。窓秋の場合、決して韜晦ではない。では俳句に対する情熱がなかったかというと、そうとも言えない。窓秋は「ぼくの、「俳句」に対する愛情観を延べておこう。〝人類の、最短詩への表現欲求は、永久になくならない〟この一言に尽きる。俳句が滅びる、などとは、とんでもないことだ」と書いている。しかし俳句への情熱を燃やし続けた人だとも言えない。戦後の昭和二十六年(五一年)から、高柳重信に促されて「俳句研究」に作品を発表した昭和四十五年(七〇年)まで、二十年近く句作を行わないで平気でいた。窓秋作品は全四百句ほどで極めて少ない。

 

 しかし同時代の窓秋俳句の評価は高かった。秋櫻子に愛されたのはもちろん、西東三鬼、石田波郷、渡辺白泉らの同世代も彼の作品を高く評価した。秋櫻子の「馬酔木」の中核同人だったのはもちろん、戦後の山口誓子中心の「天狼」、高柳重信による現代俳句の牙城「俳句評論」といった、俳句史に名を残す重要な雑誌に窓秋は参加している。窓秋自身はまったく熱を感じさせない人だが、常に同時代の俳句熱に巻き込まれていたのである。

 

 窓秋の俳句も〝清い〟。その意味で窓秋は間違いなく秋櫻子の弟子である。このような血脈が俳句の世界にはある。それがなぜなのか、どういった質のものなのかを説明し尽くすことはできないだろう。だが現世的なしがらみではなく、秋櫻子-窓秋のような優れた師弟関係の血脈によって、今も俳句芸術の最良の部分が支えられているのは事実である。大井氏選の窓秋句を読めばわかるように、窓秋作品は、氏の秋櫻子が到達し得なかった〝清浄の域〟にまで達している。観念を通り越してほとんど無を感じさせるような領域である。

 

当時〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉が決定的に新しかったのは、窓秋の「夏野」がすでにそれまでの制度的な季語の範疇を超えているということである。それはそれまでの俳句にはなかった発想であり、方法だった。このことは、清新なる抒情と言われた師の秋櫻子でさえ及ばなかった新興俳句の新境地であった。新興俳句運動を唱導し、後に、その運動から有季定型の砦に戻った秋櫻子と窓秋の方法論の決定的なちがいであった。つまり、有季定型と花鳥諷詠を両輪としてきた俳句における近代的な写生の方法を伝統俳句の内部から克服して、俳句における短詩型の詩学を現代俳句に樹立してみせた高屋窓秋が、俳句表現史に建てた大きな塔こそが「白い夏野」の句だったのである。

(大井恒行「水原秋櫻子vs高屋窓秋」)

 

 必要十分な読解だと思う。窓秋には前衛-つまり強い決意をもって俳句を変えようという意識はなかったはずだ。大井氏が指摘するように、「近代的な写生の方法を伝統俳句の内部から克服して、俳句における短詩型の詩学を現代俳句に樹立してみせた」のである。窓秋は「ちるさくら海あをければ海へちる」が戦時中に、戦意高揚映画のテロップに使われたと回想しているが、時代の影響を受けた作品とはいえ、窓秋にそのような意図はなかっただろう。「ちるさくら海あをければ海へちる」に〝作家の意図(思想)〟などないのである。窓秋はただそれを詠んだ。句の読解意味は後から生じるのであり、それは原則無限である。

 

 窓秋はなにかもやもやとした、ほとんど不吉とも言えるようなある割り切れなさを激しく喚起させる作家である。窓秋は情熱があると言えばある、希薄だったと言えば希薄と言える姿勢で断続的に俳句を書き続けた。しかし彼の俳句には、「俳句はこれでいいのだ、俳句とはこのようなものだ」と感じさせる何かがある。ある意味で窓秋は、必要最低限の俳句だけを書いた。そして彼の俳句は常に諦念から発して諦念に戻るような気配がある。大らかな万葉ぶりで「梨咲くと葛飾の野はとの曇り」と詠んだ師の秋櫻子はどこまでも健康なのだ。しかし比喩的に言えば、窓秋は生きているのか死んでいるのかわからない作家である。

 

蝶ひとつ 人馬は 消えて しまひけり                   窓秋

 

 窓秋は「そういう読み方もありますね」と薄く笑うだけだろうが、「蝶ひとつ」の句は富澤赤黄男最後の句集、『黙示』末尾に置かれた「(ゼロ)の中 爪立ちをして()いている」に奇妙に近い。あるいは西東三鬼辞世の句「春を病み松の根つ子も見飽きたり」の少し先にある句だとも言えるだろう。花鳥風月には飽き飽きした、だが俳句にはそれしか表現基盤はないのだとでも言いたげだ。

 

 窓秋は「ぼくの句は、いろいろのものが「消し去り消しさられ」、ほとんど何もなくなったときが、いちばんいいようだ」と書いている。正確な自己認識である。この寡作な作家は間違いなく俳句芸術の本質を捉えていた。窓秋の清浄な空無の世界と、豊饒で多様な俳句の表現世界は表裏一体だということである。現代俳句のゼロ地点は、秋櫻子から窓秋へと受け継がれた作品の中に読み解くことができるだろう。

岡野隆

 

 

 

 

 

 

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