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『月刊俳句界』2013年2月号は気楽に読むことができた。小林一茶と鈴木真砂女の特集が組まれていたからである。『月刊俳句界』に限らないが、雑誌ジャーナリズムは因果なものである。優れた作品が掲載されていれば事足りるかといえばそうでもない。確かに文学界を活性化させ、その新たな表現可能性を切り拓くのは優れた作品である。しかしそれは一定期間ごとに公刊される雑誌に掲載されている必要は必ずしもない。作家が作品を書くのは当たり前のことであり、極論を言えば発表場所は作品集で十分なのである。

 

ジャーナルが必要とされるのは、停滞しがちな読者や作家の精神を活性化させるためである。精神を本質的に高揚させてくれるのは優れた作品だが、そういった作品が毎号雑誌に掲載されることはまずない。〝ああそうだね〟と同意するにせよ〝それは違う〟と反発するにせよ、精神を活性化させてくれる刺激が必要だ。ジャーナルに掲載される批評やエセーによって、作家や読者間で現代的諸問題が整理・共有され、その矛盾や混乱を統合・昇華する形で作品が書かれるのが文学の一つの理想である。文芸誌の編集方針が大きく偏っていれば、それは特定集団のための同人誌や広報誌となんら変わらない。『俳句界』は比較的リベラルな雑誌だと思う。

 

今さらの説明になるが、小林一茶は宝暦13年(1763年)に信濃国で生まれ、文政10年(1827年)に65歳で没した俳人である。3歳で実母に死別した後、8歳の時に来た後妻に継子苛めにあったらしい。父と継母の間に弟が生まれたが、一茶は長子であるにも関わらず江戸に奉公に出された。しかし商人としての奉公は続かず、乞食同然の俳諧師になって放浪生活を送った。39歳の時に父が死去すると継母と弟を相手に遺産相続を申し立てた。遺産譲渡の約束が成立すると、50歳で故郷に戻り妻・きくを娶った。4人の子供をもうけたが全て夭折し、きくも37歳で病没した。その後2人の女性と再婚したが、文化10年の大火で家を失い焼け残った土蔵の仮住まいで生涯を終えた。波乱の多い人生だった。

 

鈴木真砂女は明治39年(1906年)に千葉県鴨川市で生まれ、平成15年(2003年)に96歳で没した女流俳人である。22歳で結婚して一女をもうけたが、賭博癖が元で夫が蒸発してしまい離婚した。真砂女の実家は老舗旅館だったが跡を継いでいた長女が急死し、家を守るために義兄と再婚した。28歳の時のことである。しかし旅館に宿泊した海軍士官と恋に落ち、出奔事件を起こした後、50歳で離婚している。離婚と同時に真砂女は銀座に卯波という小料理屋を開店した。以来、女将として生活しながら旺盛な俳句活動を行った。こちらも波乱の多い人生である。

 

一茶と真砂女の特集が同じ号に掲載されたのは偶然だろうが、〝刺激〟になる取り合わせだと思う。特集には俳人、小説家、批評家の方々が執筆されているが、どの原稿も読みやすかった。その理由は一茶や真砂女の人生を一つの〝物語〟として読み解くことができるからである。実際、一茶については藤沢周平や井上ひさしが小説や戯曲に書いている。真砂女は丹羽文雄や瀬戸内寂聴がその人生を小説作品化している。裏付けの有無に関わらず、一茶や真砂女の俳句は彼らの実人生と関連付けて読解することができるのである。

 

涼しさや欠釜一ッひとりずみ                        一茶

梅がゝやどなたが来ても欠茶碗

元旦や我のみならぬ巣なし鳥

藪むらや貧乏馴(なれ)て夕すゞみ

先祖代々と貧乏はだか哉

 

一茶は好んで貧乏生活を俳句に詠んだ。ただその描写は淡々としている。一茶には『芭蕉翁の臑(すね)をかぢって夕涼』がある。俳諧師の仕事の道筋を作ったのは蕉翁だが、農民や商人のように日々仕事にいそしむことなく、風流に生きることを決意したからには困窮は必然である。しかしだからこそ悠然と夕涼みを楽しむ心性を得られたのである。貧乏を主題にしても、一茶の俳句には単なる不平不満や開き直りとも違う現実肯定がある。

 

一茶には全集もあり代表作は文庫本で簡単に入手できるので、ここでは作家論に深入りすることは避けるが、この作家はなかなか厄介である。すでに諸賢が指摘されているように、一茶が継子として辛い幼少時代を送ったのは事実だろうが、その叙述はワンサイドストーリーである。また一茶は『父の終焉日記』で継母と義弟の仕打ちを激しく指弾し、自分に家の財産半分を相続する権利があると強く主張した。日々努力して家業を守り財産を増やし続けた義母や義弟にしてみれば、15歳で家を出て気ままな風流生活を送った一茶の主張が受け入れがたいものだったことは容易に想像できる。しかし一茶は小林家の長子(家長)であることを理由に自己の権利主張を曲げなかったのである。

 

貧民という一茶の自己認識は別として、信濃天領の土地持ち百姓である小林家は当時の社会階層では中流に属する。そもそも読み書きはもちろん、文学の知識や能書の能力が必要とされる俳諧師を生み出す家が、最下層の水飲み百姓であるわけがない。その意味で一茶作品には虚構(フィクション)がある。ただそのフィクションの質が問題である。

 

一茶の叙述はすべて事実に基づいている。その意味で絵空事という意味のフィクションではない。散文を読めば、多くの人が一茶が現代人と変わらない強烈な自我意識の持ち主だったことを理解できると思う。しかしその自我意識には動かしがたい枠組みがある。封建社会の〝分〟の意識と言えば実も蓋もないが、一茶には明治近代以降の立身出世主義的上昇志向は見られない。一茶の自我意識は強かったが、それは自我意識よりも上位にある社会的〝分〟意識を超えないのである。

 

一茶作品では強烈な自我意識と社会的〝分〟意識が奇妙な均衡を保って共存している。一茶は自己に降りかかった事件をあっさり受け入れるが、その表現は強い自我意識のフィルターを通して微妙にフィクション化されている。社会的〝分〟に守られた範囲内で最大限の自己主張が行われるのである。文学の問題に即して言えば、全盛期の蕉門はもちろん、江戸期を通して知識人の指標であった漢文体を決して用いない、簡素で平明な庶民文体が曲者なのである。

 

たまに来た古郷の月は曇りけり                       一茶

雪の日や古郷人もぶあしらひ

古郷やよるも障(さわる)も茨(ばら)の花

是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺

 

最初の三句は遺産相続協議のために故郷に帰った時の印象を詠んだ作品である。自分を冷たくあしらう継母と義弟を非難した句だが、奇妙に熱のない作品である。近親者(故郷の人々)の敵意に満ちた態度をきっちり感受しているが、どこか他人事のような客観性が漂っている。四句目は遺産相続が済み、故郷に落ち着いて家を構えた後の作品である。不平不満がないとは言えないが、満足をもって現実を受け入れている。これがいわゆる〝一茶調〟である。一茶作品を単に親しみやすく平明な作品だと考えるとその本質を見誤る。一茶の平明文体にはそれを支える構造(世界観)がある。

 

決して社会的〝分〟意識を超えることがない自我意識は、江戸期特有の人間の心性だと思われがちである。しかしそうではない。作品と実人生を切り離すことのできない山頭火や放哉文学でも同様のことが起こっている。彼らは創作者であり強い自我意識の持ち主だった。しかし一方で、彼らは自己の社会・個人的能力に対する強い断念を抱えていた。それが一定の〝分〟意識を形作り、文体となって表れている。

 

一茶はもちろん、山頭火や放哉には新しい表現地平を切り拓こうとする言語的前衛意識がない。前衛中の前衛作家である高柳重信が正確に指摘したように、山頭火や放哉の無季無韻俳句は俳句形式の厳しさに直面することを避け、そこから逃げ出したことで生まれた衰弱表現である。それを前衛と呼ぶことはできない。彼らは表現者として決して高望みすることなく、ある断念をもって平明な言葉で折々の自我意識を作品化した。彼らの作品が実人生と不可分になってしまうのはそのためである。一茶や山頭火、放哉よりも悲惨な生活を送った作家はたくさんいる。しかし作家がはっきりとした自己能力への断念を抱えていなければ、作品と実人生は乖離してしまうのである。

 

一茶の代表句に『我と来てあそべや親のない雀』『痩蛙(やせがへる)まけるな一茶是(これ)にあり』がある。作品単体を読めば、これらの句には一茶の温かいヒューマニズムが表現されている。しかし一茶文学全体に照らし合わせれば、意外に奥行きのない句ではないかと思う。一茶文学の本質は、親からはぐれた小雀や痩せこけた蛙に温かい言葉を投げかけながら、つっと視線を逸らし、その場から立ち去ってしまう後ろ姿にあるだろう。どうすることもできぬという断念を抱えた上での一茶の温かさである。

 

罪障のふかき寒紅濃かりけり                       真砂女

こほろぎや眼を見はれども闇は闇

高波のなまじ色ある寒さかな

人は盗めどものは盗まず簾巻く

花冷えや箪笥の底の男帯

今生のいまが倖せ衣被

死なうかと囁かれしは螢の夜

生身魂生涯言はぬこと一つ

 

真砂女は優れた俳句作家だが、一茶と比べればその作品は高度に修辞的である。そのため一茶の作品と生涯を小説や戯曲化しようとする作家の視線が一茶その人に集中するのに対して、真砂女の場合、真砂女を中心とした人間関係に作家の興味が注がれている。『生身魂生涯言はぬこと一つ』は墓場まで口を閉ざして言わないことを持っているという意味と、ほんとうは告白したい隠された内面が存在するのだという二通りの意味に解釈できる。真砂女の実人生の作品化は一茶と似ているようでその質が違う。

 

一茶は身の丈に合った平明文体しか持っていない。一茶の場合、自己の身に起こった出来事は自我意識のフィルターを通して取捨選択されることがない。そういうものだと現実を受け入れ、あますことなく言語化することで、自ずから自我意識が表現されるのである。一茶は句日記に妻との交合(セックス)回数まで記している。一茶の作品言語は恐ろしく平板で単調である。しかし平板で単調なエクリチュールだからこそ、貧乏暮らしといった些細な生活の機微すら劇的な出来事として表現できるのである。

 

作家の実人生と作品との関係は微妙である。現代作家のほとんどは、作品の修辞、言い換えれば言語的前衛表現に多少なりとも意識的だろう。前衛を指向する作家ともなれば、その興味のほとんどが新たな言語表現を生み出すことに集中するはずである。そして前衛であろうとすればするほど、作品から作家の実人生の手触り、手がかりは失われていく。その陥穽に気づいて作風を修正しようとしても、たいていの場合手遅れである。一つの前衛的書き方しか育んで来なかった作家が作品に実人生を滑り込ませようとすれば、それまでの作品成果がガラガラと崩壊してしまうことも珍しくない。

 

ただそれはまだ潔いのかもしれない。ほとんどの作家は、最初から中途半端な前衛言語意識と実人生を擦り合わせる折衷文体に慣れきっている。中庸と言えば聞こえがいいが、要はどっちつかずの作風である。一茶は親しみやすいが俳句文学における巨峰である。彼の文学は言語的修辞意識を大胆に切り落とした断念の上に築かれている。優れた前衛俳句と同様に、極端(エクストリーム)な文学なのである。

 

『一茶ごときが』と思うなら、軽々と一茶を超えてみせるべきだろうが、それは誰にとっても困難だろう。ほとんど肉体と化した文体を自在に使いこなすのは一つの特権的才能である。一茶の自在さはその多作にも表れている。中途半端な悩みや逡巡を突き抜けなければ作品を量産することはできない。人生と作品の関係を曖昧なまま放置しておくのではなく、一茶や真砂女を読むことで根本的に考えてみることも作家には有益だと思う。

岡野隆