Interview:ミッキー&ミニー吉野(1/2)
ミッキー吉野: 1951年神奈川県横浜市生まれ。4歳でピアノを習い始め、10代から横浜本牧近辺の米軍キャンプなどで演奏を始める。17歳の時にゴールデン・カップスに加入しメジャーデビューを果たす。アメリカのバークリ-音楽院に留学後、1975年にスーパーグループ『ゴダイゴ』を結成。ゴダイゴのほぼすべての楽曲の作曲と編曲を手がける。1985年にいったん解散するが、2006年に恒久的な再結成を果たす。
ミニー吉野:1971年東京都世田谷区生まれ。2003年に韓国のソウル弘益大学絵画科に入学。2005年、同大学美術学部の成績優秀奨学生に選ばれ、フランスパリ国立美術学校へ交換留学。2007年、ソウル弘益大学絵画科を卒業し帰国。2008年2月、麻布十番のギャラリー東京映像にて初の個展を開催する。
ミッキー吉野氏はスーパーグループ〝ゴダイゴ〟のリーダーであり、グループサウンズ時代の〝ゴールデン・カップス〟以来、一貫して日本のロック・シーンを牽引してきたミュー ジシャンである。ミニー吉野氏はミッキー氏の奥様で、韓国・ソウル弘益大学絵画科に入学され、成績優秀奨学生に選ばれて交換留学生としてフランス・パリ国立高等美術学校で学ばれた。洋画家だが優れたデッサン力を活かした日本画風の絵もお描きになる。ジャンルは異なるが、共に第一線でご活躍されているお二人に、創作姿勢やその秘密についてお聞きした。
文学金魚編集部
―――――本日の午前中、再結成されたゴダイゴの打ち合わせをされていたとか。
ミッキー そう。海外に住んでいるメンバーもいるから、今日しか全員揃わなかったので・・・。再始動は2006年、東大寺からスタートしましたけど。今日は新しいマネージメント体制に関しての打ち合わせです。
―――――恒久的な再結成なんですね。
ミッキー もう解散はなし。
―――――私どもはゴダイゴと言えば、あの大ヒットを飛ばしたグループをイメージしてしまうんですが、実際にはかなり先進的な、クリエイティブなことをしていた、ということが影に隠れてしまっています。本当はどういうグループだったんでしょう。
ミッキー 真面目な話になっちゃうけど、僕がアメリカに渡った1970年代の日本というのは、まだまだ戦後の失語症にかかった日本だった。当然じゃないですか、原爆落とされて、負けて、言いたいことも言えない。なんとかその心を開かせたい、意識革命を起こしたいと思っていました。必ずしもヒットを飛ばしたいと思ったわけではなくて、僕らの曲を聴いて、いろんな職業の人が元気になってくれたらという気持ちで作ったのがゴダイゴです。ネーミングは小さい頃から後醍醐天皇が好きだったからですが、僕の名前が「吉野」だから繋がりもある。それにゴダイゴって、ちょっと可愛いらしいような、また、強い響きでしょう。それプラス「go die go」、不死鳥という意味もかぶせた。まあ、マスコミ向けには、そういう意味合いを持たせていましたね。
―――――再結成されて、実際にそうなりましたね。
ミッキー さらなる意味もあるんですよ。「God I Ego」、つまり精神と肉体のバランスを、〝I=愛〟をもってバランスをとる、というのもある。こちらが本当の意味で、アートの追究のためのものです。
―――――ミッキーさんはさまざまなグループで活躍されてきましたが、ゴダイゴの結成は前から計画されていたんですか。
ミッキー アメリカから帰る前の1974年ぐらいかな。その頃、二十歳ぐらいだったから、当時はレッドチャイナって呼ばれていたんだけれど、共産圏の中国にロックバンドとして最初に行ってやろうとか、いろんなことを考えていたわけです。
2011 年12 月12、13 日に渋谷マウントレーニアホールで行われた、ミッキー吉野氏の還暦を祝うライブ『ミッキー吉野BAND 狂時代(Mickie Yoshino “The Bandof Wine and Roses”)』のパンフレット表紙。LP ジャケット版の二つ折り用紙に、計二枚の紙に印刷された吉野氏へのインタビューが挟み込まれている。
―――――70年代は、みんな欧米をめざしていたのに、めずらしいですね。
ミッキー アメリカは勉強する場所としては最高なんだけど、意外とアートを感じられなかった。自分はどこどこ出身だとか、アイデンティティは持っていたが、社会的には幼稚に感じた。そして、こんなとこにぐずぐずしてられないと思ったな。で、日本に帰ってやっていくうちに、日本って20世紀の文化の最終到達地ではないかと感じた。そしてここからまた返伝しなくちゃならない。
―――――極東、どんづまりですもんね。
ミッキー そうするとまた、日本は本当は多民族ではないのかとか、神武天皇の頃はどうだったのかとか、いろいろ考える。
ミッキー氏参加バンドフォトアルバム①。(上)The Golden Coups/(二段目左から)今野秀尊&ニューキャメリアズ/The Chosen Few/ 第一期ミッキー吉野グループ/ ミッキー吉野&柳田ヒロ/ ミッキー吉野&成毛滋/ サンライズ/Funky Tongue/Rapscallion/Flesh&Blood/Duch Baker Band/第三期ミッキー吉野グループ/ニューイヤーロックフェスティバル ミッキー吉野グループセッション
―――――70年代の日本では、ロックミュージックの市場が確立されていませんでした。そういう状況でミュージシャンとして活動されるのは、相当、厳しくなかったですか。
ミッキー 今年、ちょうど日比谷の野音が90周年で、その実行委員をやってるんだけど、1969年に僕も参加して、何人かで10円コンサートを開いた。これは、ミュージシャンの自立をうながし、新しいリスナーを開発するためだった。野音でのロックコンサートの始まりだった。
―――――ただミッキーさんは、音楽業界でずっと表街道を歩いてこられたわけですよね。基本はクリエイター、音楽を造りだす人ですが、自分がやりたいことと、レコード会社なんかが求めることをすりあわせていくのは、大変ではなかったですか。
ミッキー うん、僕ら以前に手本がないんだな。僕なんかの先輩は、ヘタすると戦争で亡くなっている。優秀な人がね。僕らはセルフサポートしていかなくちゃなんないってのと、まだまだ芸能界というフィールドは、人権無視してるみたいな業界だったから、そこを変えてゆくってのが大変だった。1976年に音楽著作権の統一契約フォームがやっとできたぐらいですよ。僕が得意なアレンジの著作権は、97年になってからようやく認められた。それまで歌もののアレンジは著作権を認めてくれなかった。
ミッキー氏参加バンドフォトアルバム②。(上左から)第六期ミッキー吉野グループ/ ミッキー吉野& Char/ ミッキー吉野&サミー・デイビスJr/ インナー・ギャラクシー・オーケストラ/ カレイドスコープ・セッションバンド/PAN/P.S.M.AllStars/ ポール・ジャクソン・バンド/EnTRANS/Silver Cups/ ミッキー吉野&ジェニファー・バトン&ヒノダ修一/ ミッキー吉野 new group/GODIEGO
―――――ギターで始まるか、ピアノで始まるかで、ぜんぜん印象が違いますものね。
ミッキー 電車が走れるように、線路を引いていくみたいなものだから。ゴールデンカップスの頃は、もっと大変だった。各レコード会社にまだ専属の作家がいた時代だから、オリジナルはなかなかやらせてもらえなかった。
―――――カップスの頃は、レコード会社の意向を窺わないといけなかったですか。
ミッキー 言うこと聞かないと、レコードが出ない。僕なんかは結構、反抗した方で。何するかわからないとか言われた。ゴダイゴはメジャーだったから、スタジオを持って、インディーズでやろうとしたんだけど、僕がやるとみんな真似するからって、すごくプレッシャーをかけられた。他の人はよくても、僕はダメだって拒否された。1980年代でもダメだった。僕は先を見たんだけどね。レコードショップ流通も変わってゆくだろうし、自分たちでスタジオ持って、アトリエ作って、そうやっていかないとって思った。
『ミッキー吉野BAND 狂時代(Mickie Yoshino “The Band of Wine and Roses”)』のパンフレット裏表紙。ライブ初日は『The Golden Coups Night』で、ミッキー吉野 New Group、Char、ゴールデン・カップスが出演。二日目は『GODIEGONight』でEnTRANS、Mickey Curtis、GODIEGO etc が出演した。
―――――先を見据えて闘っていたんですね。今、理想としていたところに、近づいているのではないですか。
ミッキー ネットの時代になって、ルネッサンス以来の文化産業革命が起きてるんじゃないかって思う。でもいつも最初にやる人ってのは損なんだ(笑)。お金を使って、さらに自分で追究しちゃうわけだから。
―――――沢田研二さんにしても、グループサウンズ時代にできなかったことを、今、やってる感じですね。
ミッキー 僕は1970年代にすでに、日本は20年から30年遅れているという前提のもとで音楽活動をやっていたんです。だからその頃の音源が、意外と今でも使われている。当時は「未来からやってきた自分たち」というイメージでやっていたけど、あんまり理解してもらえなかった。でも本気でしたよ。マーケティングも徹底して考えた。レコード会社も、営業所が一番多いコロンビアにしたりとか。そういうの、アメリカで学んだことだけどね。
―――――昔どこかで、「自分が持っている能力は全部使う」っておっしゃっていたのが印象に残っています。
ミッキー 持ってるもの全部使わないと、そこで停まるんだよね。出し惜しみはできない。
―――――こういう路線なんだから、こういうことはしない、とか言わないんですね。
ミッキー そこなんだよ。全部使わないと伸びない。しかも魂を売らずにそれをやる。僕は本気で歌っちゃうんだよ、”Nobody takes my spirit away”って。
―――――それも表現してしまうわけですね。
ミッキー ポップだから迎合しているように見えるけど、実際は全然そうじゃない。一番難しいのがポップです。アートの究極が教育だとすれば、難解なものをいかにわかりやすく見せてあげるかだね。
―――――ゴダイゴも最初、プログレっぽい楽曲をやってますよね。あれだとシングルにならないでしょう。
ミッキー だからさ、難しいことを難しくやるのは簡単なことなんだよ。今日、たまたまタケカワユキヒデと話していて、彼が今度セルフカバーしなくちゃならなくて、昔の音源を自分で全部コンピュータに打ち込み直している。で、僕のアレンジをコピーしたら、驚いたって。難しいことをやさしく表現しているってね。
―――――ポップが一番難しいって思われますか。
ミッキー ポップスはきっちり決めなくちゃならないじゃない。感情とか、気分ではできない。パッケージにするために、いろんな角度から作品を検討するしね。それは疲れる。
―――――ゴダイゴの曲は、ヒットさせようと思って作られたんですか。
ミッキー 『ガンダーラ』はそうだな。『モンキーマジック』も。だから先にアレンジができてる楽曲がありますよ。今、ハリウッドで、『ラストサムライ』なんかのキャスティングディレクターなどをやっている奈良橋陽子さんが詩を書いてくれたんだけど、彼女のガンダーラの英語の原詩なんか、すごくいい。それにアレンジですよね、こだわったのは。
―――――ヒットさせようと思ってヒットさせるのは、すごいですね。
ミッキー パトロンがいるわけじゃないからね、そこは考えないと。ヒットが出ないとグループはもたないじゃない。たとえば三年とか、いっしょにやっていくのは大変じゃないですか。共同生活しているのではないけれど、経済力がないとバラバラになる。それが一番大変だったかな。今でこそ自由にやってるけど、ずっと人を食べさせているって感じがあった。しょうがないよね。それは。
―――――マネジメントを含むいろんな交渉などがありますから、音楽だけの才能ではやれなかったでしょう。
ミッキー そうね、だからすべてをクリエイティブに考えるのが大事なんです。ビジネスも、ABCとかで考える。Art Business Cashね。思いがアートで、ビジネスとして展開して、キャッシュがフローするということです。あるいはアラー、仏陀、クライストでもいい。アラーが初心で、仏陀が教育者で、クライストが表現者だとか、そういうふうに整理する。マーケティングと同じように、その整理を一番にやったかな。70年代はそんな時代だったけど、80年代は専門家と非専門家が分かれる時代になると予測した。自分が何をするか、選別できるのかが専門家で、できないのがアマチュア。自分が何をできるのかが大事です。
―――――なるほど。
ミッキー 話はちょっと飛ぶけど、皇紀と西暦の違いとかも面白いよ。神武天皇から660年経つと、キリストが生まれる。そこから660年経つと聖徳太子。そこから660年経つと1320年、後醍醐天皇ね(笑)。そこから660年経つと1980年ですよ。ここから事態が変わるんだと考える。そういう発想が大事だと思う。『西遊記』で言えば、なぜ5040日かかったのか、と。5040ってのは、1から10まで全部割れるんだ。とにかく僕は学校嫌いだったから、自分で文字や数字の意味を考えていた。やり過ぎなくらいね。
―――――一種、詩的ですね。
ミッキー 世の中には陽の当たってるところと当たってないところとあるでしょう。陰陽の関係とかさ。自分がどこに立ってものを見るかですよ。僕は音楽より、文字数字を追究してる。
―――――そこから生まれる発想って、ありますね。
ミッキー (星氏に)君はまだ若いね。いくつ?
―――――僕は86年生まれです。
ミッキー オリジナリティってのは、40過ぎないと出てこない。それまで一生懸命やってればいい。
ミッキー吉野氏と金魚屋演劇批評担当の星隆弘氏
―――――でもミッキーさんは、若い頃からスポットライトを浴びておられましたよね。
ミッキー そうなんだけど、僕は20歳のときに、はやく46歳ぐらいになりたいと思ってたの。くだらないことなんだけどさ。一個の音を弾いただけで、スイングしたい。40過ぎた人はそれができる。やっぱり40歳になったら、出たよ。
―――――肉体的なものでしょうか。
ミッキー そうね、時のめぐりかな。早く死んじゃうのはヒーローでしょ。天才でも何でもない。僕は10代から音楽やって稼いでいたから、天才とか言われたけど、天才って誰も定義できない。で、考えたんだけど、同じくらいの才能を持った人が現れれば、天才って何かがわかる。だから一人では天才はわからない。天っていう字は、二人と書くしね(笑)。朝ってのは、十月十日と書く、とかさ。そういう字とか数字に込められているものって、素晴らしく面白いんだよね。そういうのを一日一個でも発見していきたいよね。
―――――確かに、ミッキーさんの音楽の作り方の発想の元になっていますね。普通に見えているものをアレンジして、変えてゆくというのは、そういうことですね。
ミッキー そう。でも80年代が終わって90年代に入って、商業音楽家って感じになっていた。いつまで経っても人の家の看板塗ってるみたいなね。これじゃいけないと思って、20世紀に起きた出来事に対する自分の思いをまとめて40曲ぐらい書いた。詞も自分で書いて、試しにクリントン大統領からローマ法王、細川さんのところまで送ってみたんです。
―――――ほう。
ミッキー 一番返事が早かったのは、ホワイトハウス。次が国連。フランスの文化大臣が半年ぐらい遅れて、返事が来なかったのは総理府と、バチカン。別に試したわけじゃないけど、面白かった。そういうことを楽しんでる。あとは計画せずに、朝起きて感じた通りに行動するっていう、風来坊みたいな生活も3年ほどやってみました。
―――――今の方が自由に動けますか。夏木まりさんの曲なんかも自由な感じですね。楽しんでやっておられるのが伝わってくる。
ミッキー 市原悦子さんとの二人芝居もね。市原さんは稽古が大好きで、面白いんです。9月からやるのに5月ぐらいから、一人で電車乗って、おにぎりとか買って、ここへ来ちゃう。数少ない素晴らしい役者さんですよね。
―――――ミッキーさんと似てますね。ポップなところにいて、本当は舞台の人。
ミッキー そうね、両方できるっていうか。一つのジャンルにいるだけの人は、アマチュアと同じだから。プロなら全部できるはずなんだ。ほら、こだわってる人って、いるじゃないですか。ブルースしかプレイしないとか。よく飽きないなぁと思います(笑)。だってそれ、おかしいですよ。
市原悦子×ミッキー吉野のショーライブ『二人だけの舞踏会』(2012 年9 月1 日~ 10 月20 日)ポスター。ミッキー氏が楽器を演奏し、市原氏が歌い踊るミュージカルショー。
―――――まったく同感です。文学者でも小説はわかるけど、詩はわかんないとか平気で言いますものね。それじゃあプロの文学者とは言えない。
ミッキー アメリカの有名なミュージシャンって、みんな幅広いですよ。ブルースって言えば、ハイスクールの頃、やったなあとか。
―――――音楽の才能は、子供の頃からおありだったんでしょう。
ミッキー ピアノをやったりしてたんだけど、バークリーを卒業するときも、耳でコピーしてバルトーク弾いたりね。小さいときから譜面が嫌いでさ。譜面があると弾けなくなる。自分で楽譜を書くのは、書きますけど。
―――――耳だけでコピーってのは、モーツァルトですか。
ミッキー たとえばショパンを上手く弾いてるレコード聞いて、真似したら弾けるじゃないですか。それで大学の、演奏の試験はとおっていた。いちいち見ながら弾くの、嫌なんです。アレンジャーになったのも、譜面読むのが嫌だったからだな。スタジオミュージシャンもやったけど、あれは譜面読んで演奏しなきゃならない。それより書く方がいいじゃんと思ってね。それが意外と得意だったんだね。だから仕事になった。得意なものはおろそかにしちゃいけない。いくら好きでも、お金になるとはかぎらない。
―――――そうですよね。好きなのと、稼げるのとは違いますね。ところでアレンジを作ってゆくときというのは、まず肉体的な感覚というか、勘から入るんでしょうか。
ミッキー 歌がないものは、まずオーケストレーションとかね。すべてがアレンジじゃないですか。だけど歌があるものは、やっぱり詞だよ。詞を見てからアレンジに入る。何かを売ろうとしたときは、そこにパワーを持ってくる。目的によって違ってくる。
―――――そのときにミスマッチを避けるということは、お考えになるんですか?。たとえば作詞者と作曲者の打ち合わせは、するものなんですか。
ミッキー 最後の判断は聞く人だからね。だからミスマッチはない、と思うんだ。インスピレーションを大事にして、こっちで決めすぎない方がいい。
―――――僕は演劇が専門なんですが、演劇も最初は台本があって、そこに複数の人たちが集まってきて、解釈を載せてゆく。音楽と共通点がありますね。
ミッキー ブレンドだね。与えられた要素の。
―――――つまりプロデューサーなんですね。
ミッキー オー・ヘンリーの『ロスト・ブレンド』。どうやったのか、再現できない。すべてが毎回、ライブであればいい。市原悦子さんの舞台でわかることは、あの人は完璧なセリフの人だけど、音楽は「あ」と言ったら、「うん」という呼応が大事です。
―――――そういうことを舞台でやったら、市原さんに怒られませんか?(笑)。
ミッキー 全然。僕はあの人に音楽を教えるし、僕は芝居を教えてもらう。いい感じです。
―――――肉体と精神のお話で、演劇では「肉体」は俳優の身体、「精神」が台本の奥の解釈と捉えられると思いますが、音楽の場合、「肉体」ってのは何でしょう。
ミッキー やっぱりパフォーマンスでしょうね。単に演奏っていう意味じゃなくて、詞とかの「精神」も含めてね。簡単なことを言うと、昔、ジョン・レノンが「Don’t let me down」と歌った。それに応えればいいんだよ。「I never let you down」と、やさしく応えればいい。その呼応の中で、同じレベルのものが出来るはずなんだけど、そういうふうに考える人が少なすぎるよね。時を超えて、昔の詩人とかに応えてみればいい。そうすれば、その人の意識とかもわかってくる。
―――――ひとりで蛸壺に入らないで、呼応していればいいと。
ミッキー 自分の脳は自分で使わない。僕は初めて会った人に言います。今、私の脳を使っているのはあなただ、と。
―――――開かれた脳、ですね。
ミッキー 脳を自分で独占しちゃってると、広がらない。
―――――面白い発想ですね。
ミッキー いろいろと人に会ううちに、思ったの。こいつと会うと、いろいろ話させられちゃうな、と。あ、こいつが俺の脳を使ってるんだと気付いた。それで答えが出る場合も多いです。一人で考えていると、空回りしちゃったりするからね。
(2013/02/04 後編に続く)
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