母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
二十九.
「よる」という字は何て書くのだっけ。
夏目漱石がどこかに書いていたけど、文字って代物はいつも見慣れているはずのその形があるとき突然喪失して、奇怪な模様に見えることがある。ちょっとちがうかもしれないが、父親にも似たことが起きる。このひと誰だっけ、って思うことがときどきある。見かけも中身もまったく見おぼえのない怪しい人物に思えることがある。
……ガサゴソ……ギシギシギシ……ああ今夜もはじまった。三時を回っていた。
服のホックを外そうと執拗に弄る姿をしばらく黙って見ていたが、けっきょくはキレてしまう。
「それを外したらどうなるか、わかってんだろうな」
「……」
「外したら殺すからな」
「……」
ホントに外したらどうする。恐れおののいているじぶんがいる。外すときは必ず来る。父親の首に手をかけているじぶんの姿がありありと目に浮かんでぶるっと身震いする。ぼくは父親と闘っているのではない。ゾンビと闘っているのだ。ホックを外すか否か。この一線だけが、ぼく自身もゾンビになってしまうことからかろうじて免れるための形而下的国境なのだ。
それにしても、父親はどうしてあんなにも執拗に服を脱ぎたがるのだろう。
放っておけばオムツを外し、ベッドの上で放尿するに決まっている。ぼくは放尿するなと言っているわけではない。トイレも尿瓶も面倒だからイヤだというなら、オムツの中でしてくれと言っているだけだ。けれどいくたび懇願し怒ってみてもダメだった。ある男性ヘルパーがそんなぼくに「じぶんでやってみたらわかるけど、オムツの中になんて男にはそうそう出来るものじゃないよ」と生意気に意見するものだから、よし、それならオレがやってみようじゃないか、と自らオムツをはめて検証してみた。なるほどはじめは中に出すとき抵抗があったが、慣れるまでに三日と要しなかった。むしろ頻尿と過活動膀胱で悩んでいたぼくにはもってこいだ。これで「じぶんでやってみた」わけでもない若造のただの憶測だったことが証明できたが、そもそもそれは自力でトイレへ行けるフツーのひとの話だ。もはやトイレとベッドの区別もつかないほどボケてしまい、立ちションするつもりでベッドで放尿するようなヤツが、オムツの中では出来ないなどとは筋が通らない。だって、そのほうがよっぽど楽じゃないか。犬や猫でさえ教えてやれば決まった場所でできるじゃないか。なのにわざわざ服を脱いでベッドでするなんて、あんたそれで人間か。これがぼくの言い分である。
そこで思い至った。この老人はベッドとトイレの区別が出来ないのではなく、もともとそんな区分なんてどうでもいいのじゃないか。放尿さえできれば、どこだろうとかまわないんじゃないか。放尿とオムツの中ですることとの本質的なちがいは何か。ほかでもない、男根が解放されているかどうかである。放尿のさいおぼえる解放感は、射精でえられる快感につうじている。男性の象徴である男根、その解放は自由の象徴でもある。フロイト的な考え方だが、射精には縁がなくなったはずの老人であっても、いや縁がなくなったからこそ、同じ快感原則に由来する放尿への欲求はむしろ高まるきらいがあると考えてもおかしくはない。そう考えれば、あの執拗なまでのこだわりにも得心がいく。するとそれを抑圧する側、つまり端的に〝父殺し〟であるぼくの存在は疎ましいだけ、いくらなだめても脅しても言うことなど訊くはずがない。かくして父子が互いに憎み合うこの構図は、必然的かつ不可避というわけだ。
*
ショートステイは隔週、一回につき七泊八日で回している。その間、ぼくは習志野にある元自宅へ戻り、愛車のロードバイクにまたがって、たいていは中房総の、バブル期にはゴルフ銀座と言われた丘陵地帯を往復百五十キロ、二百キロと終日駆け回って過ごした。あるときは利根川を越え筑波山を登って帰り、またあるときは秩父や越生、奥多摩の峠道まで赴いた。
やむなく居を鎌倉へ移しはしたが、笹目のそれは両親の住まいではあってもぼくの家ではない。げんみつにはぼくの実家ではないのだ。ふるさとなどぼくには存在しない。良いところへお住まいですねえ、とよく言われるが、鎌倉という地はぼくにとって、トポスとしての光芒をとうに失っていた。ここは観光客とそのための商いをするひとたちと、いつも紀伊國屋で買い物をしているようなひと握りの金持ちのための街で、ぼくにはただ疎ましいだけだった。幕府創建このかた海浜を除く三方を丘陵と狭い切通しに囲われたこの地には、コンビニはさすがにあるしスーパーとドラッグストアとファミレスも駅周辺なら数店、回転寿司は二店あるが、マックとケンタは駅前に一店ずつ、百均は小型店舗が一つ、昔は五、六店あった本屋もいまは半分、牛丼屋になると一軒も存在しない。イヤなら大船や藤沢まで行くしかない。映画館もデパートも銭湯もあった往時の記憶を刻む者は年々鬼籍に入り、洟垂れ小僧たちがワイワイ走り回る姿もさっぱり見なくなった。
かたや自転車で五分圏内に必要な店が揃い、大型ショッピングモールや丸善まであり、かつて家族と住まった習志野のマンションを出て一〇キロから二〇キロも走ればみどりなす里山の風景が広がり、尽くせないほどの谷津道が田園を縫うように張りめぐらされ、さらに分け入れば大小ゆたかな湖沼が点在する房総の丘陵地帯へと至ることができるおかげで、ぼくは介護ウツを免れたのだった。誤解しているひとも多いが、ショートステイは本人のためにあるのではない。介護する家族のためにあるのだ。家人たちをリフレッシュさせるほど本人へのリターンになる。これがショートステイの存在理由だ。この制度がなければ、全国の老人養護施設はたちまちオーバーフローしてしまうだろう。
三十.
一週間ぶりに戻ってきた父親におかえりと声をかけた。向こうは黙ってぼくを一瞥すると、すぐ逸らしてしまう。鎌倉に戻ったのは前日の夕方だった。習志野に一日でも多く泊まりたかったが、気になって早く切り上げた。正解だった。ポストの外まで郵便物があふれ、下の雑草の上に落ちて濡れていた。薄暗い和室へ踏み入ると、亡母の仏檀とぼくの敷き布団のあいだに何か黒いものが落ちている。活けておいた樒の葉だろうか。いやまさか。殺虫スプレーを手にそろそろと近づいたところで蛍光灯の紐を引いたら、畳の上にいたのはクロゴキブリの成虫だった。すでに死んでいた。仕掛けた毒餌のトラップに引っかかったか。わざわざこんなところに転がっているとはイヤミな奴だ。点した蛍光灯には、先日とおなじ羽虫たちが早くも集まり出していた。まもなく雨が激しく降り出した。この地からのぼくへの歓迎のようだった。
その夜の六時過ぎ、車イスで食堂まで移動する力も元気もない父親の上半身をベッドごと起こし、ここでいいからご飯食べようと言ってお椀を盆に乗せて運んだ。放っておくと身体が左右に傾いて倒れてしまうので片側を支えながら、残った手でお椀を持つ掌を下から持ってやった。そうしないと椀ごと下へ落としてしまう。それでもスプーンを自らの意志でゆっくりと口へ運んでいく。と、途中でその手を止めお椀を盆へ戻し、エプロン代わりに胸の上へ敷いてやった手ぬぐいを両手で持ち上げて、じいっと見つめている。何かを憶い出しているのだ。それは白地に淡いブルーの線でアニメの「ゴマちゃん」が描かれた浴用タオルだった。脱衣所の亡母の衣類棚にあったものだ。
こんなほのぼのとしたアニメキャラやカワイイ系のモノを好んで用いるひとだった。父親以上に頑固、ときに頑迷とすらみえたが、いつももの想いに耽って深く秘め、ずっと懐にあたためているせいでもあった。一緒に食事をしていると、突然口をついて出るひとことがよく父親やぼくをドキリとさせたり苛立たせたりした。図星だから苛立つのだ。「やぶから棒に何を言い出すんだ」と父親は怒ったが、ぼくらにしてみれば突然でも、必ず彼女なりの文脈があっての話だった。ある夜の食卓で、妹が通っていた養護学校のクラスの話題になった。前後はよくおぼえていないが、
「……ウチだけこんな扱いを受けるのよ。この子の方がよっぽどマシなのに」
「お前の考えすぎだ」
「ちがう。あんたには見えないのよ。見ようともしないから。わたしたちのことを。わたしとこの子がいつもどんな思いでいるのかを」
母の愚痴は執拗で、なかなか終わらない。
「あんたはねえ、社長や部下の話は聞いても、わたしの話はいつだって聞こうとしないで逃げてばかりなのよ。それで人望があるんだってさあ」
トーンは三オクターブくらい上がっていく。
「誰もわかってくれない。泣きの涙よ」
「もういいッ。止めろ。メシが不味くなる」
黙って箸を動かしているぼくも安全圏にはいなかった。
「あんた。毎日ブラブラしているくらいなら新聞配達でもしたらどうなの。あんたは過保護に育った生煮えだからダメなのよ。もっと世間様に揉まれなさいな」
「いきなり何だよ。うっせーな」
すねかじりの学生のくせに、授業をサボって本とレコードにのめり込んだあげく留年したぼくの痛いところを突いてきた。
いいところは何につけてもまったく遠慮を知らない代わりに悪気もこれっぽちもなく尾を引かないことで、父親やぼくと諍いを起こしてもちょっと経つとケロッとしているからこちらが拍子抜けになった。ささいなことでもひとり背負い込むというより、湯舟に浸かるように夢想のなかを揺蕩っているかにみえた。洗い物やアイロン掛けをしている最中いきなりクスクス笑い出して止まらなくなることもあった。
「ゴマちゃん」のタオルはお気に入りだったのか、同じ絵柄のものが何枚もきれいに畳んで棚に置かれてあった。そういえば元気なころ凝っていたフラダンスの衣装は、原色を惜しみなく使ったフリフリのデザインばかりだった。よくもわるくも、母は死ぬまで乙女心を忘れることがなかった。それも含めて頑固と言ってよかった。
亡母の遺影へ目をやった父は、いったん逸らしてからふたたび目を向けている。
こんなことは家へ帰ってから一度もなかった。「ゴマちゃん」のタオルに母との知られざるエピソードが刻まれていたのだろうか。口元がわずかにほころぶように見えた。そして元気だったときにも見せたことのない、何とも優しい顔つきになった。ほんの一、二分のことだ。
それでスイッチが入ったか、出し抜けに「洗面所へ行く」と言い出し、足をベッドから降ろそうと半身をねじった。こんな行動は、しかも声に出してじぶんの意思を告げることなど家に戻ってから絶えてなかった。自力でやろうとして、けっきょくは途中で力尽きてしまいまた横に臥せった。それでもつかの間このひとのなかに何かが点ったようだった。
認知症とか認知障害と呼ばれるものは、老人にとっての鎧なのだろう。もちろんなりたくてなっているわけがない。だからこそその堅固な鎧の下に、そのひとがほんとうに望み、欲していたことをじぶんに対してさえ隠し持っているのだ。
認知障害に陥ったひとは症状が進むにつれ、やがて忘れてしまったこと自体忘れてしまう。けれどそれを「ああこんなになって」とかなしむのは、当人でもないぼくらが忘却の意味をよくよく胸に刻んでいないからだ。忘却とは、忘れるよう切に望まれたことと、けっして忘れられずまた、忘れられてはならないこととが、お互いを呑み込もうとせめぎあって生じる稜線上の雲である。たいていは前者がまさるから雲はいつも厚く垂れ込め、冷たい風雨にさらされる。たまに雲が切れ、晴れ間が見えることがある。下界には、想い出といううつくしい嶺々とゆたかな森や渓間が広がっている。しかし本人も含め誰もそれに気づかない。気づけるのはただ一瞬かぎり、たまたま晴れ間に居合わせることができた幸運な登山者だけだ。
認知症といえば、新薬の開発がめざましい。戦略も機序もさまざまらしいが、この日訪問医に紹介されたのは「イクセロン」という貼り薬で、アセチルコリンの分解酵素のはたらきを抑え脳内アセチルコリンの量を増やすことで、認知障害の進行を遅らせるらしい。ひとによってはものの三日でそれまで会話もできなかったのが、お喋りするようになったという話もある。訪問医から「試してみませんか」と言われ採用したが、ぼくは内心複雑だった。中途半端に改善なんてして、いきなり風呂へ入りたい、外を出歩きたい、二階へ上りたいなどと対応できない要求が頻出すれば、むしろハタ迷惑なだけである。懸念は遠からず現実となった。
(第12回 了)
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*『春の墓標』は23日にアップされます。
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