三十歳までに自分の店を持つという夢をかなえた小さなダイニングバ―だった。コロナも終息し、料理の腕にも接客にも自信があった。それがたった三年でつぶれてしまった。なぜなのかと自問自答しても答えは出ない。俺はどうしたらいいのか、俺は今や〝無職透明〟・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第6弾!
by 金魚屋編集部
一、
思いっきりシャッターを下ろす。ガシャンという乾いた音が、明け方の一番街商店街に吸い込まれた。現在時刻は午前四時。本当にこれで終わりだ。気が抜ける、というのは多分こんな感じなんだろう。ノロノロとスクーターが一台通り過ぎ、電線から二羽のカラスが億劫そうに羽ばたいた。オープンして三年。まだ綺麗な看板がうらめしい。
一瞬、写真を撮ろうかと思ったがやめた。店のインスタにアップして、実は今日が最後の営業でした、今まで本当にありがとうございました、なんてメッセージを添えたら、一人くらいは気付いてくれるかもしれない。でもそんなのは惨めだ。帰ったらビールを飲んで寝る。いつも通りでいい。そして起きたら昼過ぎだ。布団から出て、顔を洗って、歯を磨いて、それから、と考えて更に気が抜けた。もう買い出しに行く必要はない。いや、買い出しどころか顔も洗わなくていい。このとおり、俺の店は潰れている。
三十歳までには店を持つ。いつの間にかそう決めていた。一年遅れたが、どうにかその目標は達成できた。四月八日。忘れもしないオープンの日。誰かが「釈迦の誕生日じゃないか」と笑っていた。花、酒、金。みんな祝ってくれた。本当に嬉しくて、柄にもなく涙をこぼした。よく覚えている。色褪せてもいない。当たり前だ。たった三年で色褪せてたまるか。あの日も明け方にこうやってシャッターを閉めた。
コロナ騒動が収まりかける中での船出だった。翌月からは五類移行、飲食店のアクリル板設置義務は廃止。そんなタイミングだ。当然、国から協力金は貰えないが、それでも大丈夫だろうと確信してこの店をオープンした。少しヒーローぶっていたかもしれない。逆風に抗って俺は、なんて浮かれていたんだ。
潰れた理由は分からない。細かいことの積み重ねとしか言いようがない。バイトの人件費、些細な接客態度、価格設定。どれも決定打にはならないが、言い出せばキリがない。裏を返しても同じだ。立地の良さ、客の平均単価、安い家賃。潰れない理由だって幾つもある。結局よく分からない。

十人も入れば満員になる狭いダイニングバー。開店当初は連日大盛況だった。それが、ここ半年はどうだ。週末はまだしも平日は本当にひどかった。二、三組しか入らない日もザラ。挙句バイトの方から気を遣って辞めてくれた。情けない。そして二ヶ月前、久しぶりに親から借金をした。
二人とも、もう還暦を迎えている。この店にはオープンして間もない頃、一度だけ来てくれた。口を揃えていい店だと喜んでくれたし、料理も美味しいと褒めてくれた。それだけではない。その場にいた客全員に「どうか息子をよろしくお願いします」と頭まで下げてくれた。あの時は往復の交通費も、ホテルの宿泊費も全部俺が出した。
あれから三年。本当に情けない。七十万円と頼んだが、振り込まれていたのは百万円。返すものを返したらすぐになくなった。助かった。そして弱気になった。もうこんな思いはしたくない……。ふと浮かんだ弱音が大きく拡がるのに時間は要らなかった。もう一度頑張ろうとはどうしても思えず、密かに店を閉めることを決めてから二ヶ月。今日までスイッチをオフにして、淡々と日々の業務をこなし続けてきた。こんなことは初めてで、自分がこういう時に普段より饒舌になることも初めて知った。
「なんかマスター、最近機嫌がいいじゃん。いいことでもあったの?」
そんな風に言われる度、曖昧な笑顔を返しながら早く時間が過ぎることを祈った。そう、俺はこの最終営業日を待ち望んでいたんじゃないか。もっと嬉しそうにしろよ。
あの百万円のおかげで今、俺の身辺は綺麗だ。そういう意味では俺の決断は正しかったのかもしれない。ただ一つ、気が重いのはその百万円の出どころ、両親のことだ。まだ店を畳むと報告をしていない。天気がよければ綺麗に富士山が見える静岡の実家で、今も息子の店が営業を続けていると親父もお袋も思っている。それが辛く、そして鬱陶しい。
写真こそ撮らなかったが、やはり名残惜しかった。向かいの薬局のシャッターにもたれかかったまま、しばらくぼんやりと店を眺め続けた。
あんなにたくさんいた客は、いったいどこへ行っちまったんだろう?
また来るよ、と言ってその後来なくなった客は何が気に入らなかったんだろう?
ここの料理は最高だ、というあの言葉は酔ったうえでの戯言だったのか?
そんな粘っこい疑問が頭の中を回り続けている。
最初から黙って店を畳もうと思っていたわけではない。それなりに悩んだ結果、客には閉店を告げなかった。言えば顔を出してくれる人もいただろう。
「どうしてやめちゃうの、もったいない」
「もっと頑張りなよ、応援してんだから」
「いい場所なんだしさ、そのうちまた儲かるよ」
多分、そんな言葉もかけてもらえるだろう。でも、だからこそ誰にも告げなかった。俺は心のどこかで客に対して憤っている。筋違いなのは百も承知だ。でも仕方ない。
口先ばかりうまいこと言いやがって、お前ら全然顔出さなかったじゃねえか。ほらほら、目を開けてよく見てみろ、店を潰した男のマヌケ面は酒の肴にちょうどいいだろう――。
そんな風にぶちまけたいという気持ちがある以上、閉店を告げるべきではない。発つ鳥跡を濁さず。それは他人への配慮ではなく、自分の見栄だ。
並びの居酒屋から店員が出てくる。両手には水色のゴミ箱。多分、同年代だろう。よくこの時間帯に顔を合わせる。いつも声をかけてくれるのは彼の方だ。
「どうも、お疲れ様です」
「あ、どうも」
「今日は忙しかったんですか?」
「え?」
「いや、お疲れみたいなんで」
一瞬、全部彼に打ち明けてしまいたくなった。今日でこの店終わるんだ、そうなんだよ潰しちまったんだ、全く客が来なくなっちゃってね、勝手なもんだよな客なんて、てめえの気分で持ち上げる時は持ち上げて、気が向かなけりゃそのままトンズラだ、馬鹿にしてやがる、ねえ、そう思うでしょう?

彼なら理解してくれるような気がした。本当おっしゃるとおりですよ、と甘やかしてくれるかもしれない。一度店内に戻った彼が新しいゴミ箱を持って出てきた。声をかけてみよう。そう思った。でも、やっぱりできなかった。物欲しそうな顔で会釈をし、俺は駅へと歩き出す。
バッグの中にはタオルで巻いた包丁が入っている。オープンした時に自分への褒美として買った高級品だ。名前も彫ってある。いっそ店に置いてこようかとも思ったが、結局手放せなかった。昔から俺は踏ん切りが悪い。バッグを軽く叩いてみる。言葉にするなら「ごめんな」だろうか。包丁一本、と祖父が好きだった歌を口ずさもうとしたがやめた。あれは明日も料理を作れるヤツの歌だ。俺にはふさわしくない。
スマホで喋りながらコンビニから出てきた女は妙に甲高い声で笑っている。前から歩いてくる金髪頭のみすぼらしいカップルは楽しそうだから尚のこと寂しい。ラーメン屋の看板は壊れたままだし、民家の塀にはスプレーで吹き付けられた落書きが折り重なっているし、電信柱の周りには派手に嘔吐した形跡が残っている。そんないつもの商店街を俺は茫然と歩いた。
しばらくはこの時間帯にここを訪れることもないだろう。もしかしたらこれが最後かもしれない。喉元にじわじわ込み上げてくるものがあった。歩きながら、固く拳を握り締めて堪える。さすがにここでは叫べない。立ち止まり振り返ってみると、もう俺の店は見えなかった。また気が抜けた。これで最後、もう何も残っていない。そんな感触がある。でも、変だった。全部抜け切ったはずなのに、身体はずっしり重くなっていた。
家に帰った途端、一気に力が抜けた。後ろ手で鍵をかけ、そのまま膝から崩れ落ちる。立ち上がるための力を振り絞る必要などない。当然ビールを飲む余裕もない。捨てる為に束ねてあった週刊誌を枕に、俺は靴も脱がず玄関先で寝転んだ。
少しでも出費を抑えようと、先月越してきたばかりの安アパート。場所は一階の一番奥。この街にだって探せば安い物件はある。これも余分に振り込んでくれた親のおかげだ。
忙しかったからではなく、やる気が起きなかったから荷物は段ボール箱から出していない。越してきた日のままだ。家賃は半分になったが、エアコンも風呂もないしトイレは共同。テレビは買い換えるつもりで捨ててきた。もちろん木造だから音は筒抜けで、今も倒れこんだ俺の耳には隣の部屋のテレビが聞こえている。音だけのテレビはつまらない。
うつ伏せのままだと首が痛いので、横向きになって膝を抱えた。胎児のポーズ。もちろん母親の心音は聞こえない。隣のテレビの音がさっきより鮮明に聞こえるだけ。畜生うるせえな、やっぱり靴脱いでちゃんと寝ようかな、でも面倒くせえな……。そうやって迷いながら深く眠れるはずもなく、ただ「起きる」と「眠る」の間をゆらゆら漂っていた。そのうち「起きる」の方から戻れなくなり、目を開ける。失敗だ。まずいな、寝ることも満足にできなくなっちまった。
それもこれも玄関が狭いせいだろう。寝転ぶ前より疲れてどうする。だったらこれで、と向きを変えて再び膝を抱えてみた。ちゃんと分かってるんだ。こんな応急処置ではすぐにまた痛くなる。でもそうなったらそうなったで、また逆を向けばいい。人生、そんなことの繰り返しだ。
テレビの音はもうあまり気にならない。再び目を閉じ考えていたのは明日のことだった。このまま眠って目を覚ますと俺は無職になっている。無職透明。つまらないか。いや、そうでもないか。さあ、どうしよう?

(第01回 了)
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*『ど、泥卍』は毎月07日にアップされます。
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