母親の様子がおかしい。これがいわゆる認知症というやつなのか。母親だけじゃない、父親も年老いた。若い頃のキツイ物言いがさらに先鋭化している。崩れそうな積木のような危うさ。それを支えるのは還暦近いオレしかいない・・・。「津久井やまゆり園」事件を論じた『アブラハムの末裔』で金魚屋新人賞を受賞した作家による苦しくも切ない介護小説。
by 金魚屋編集部
十五.
江ノ電鎌倉高校前駅の坂を上りきった左手、相模湾を一望できるめぐまれた敷地に聖ヨハネ病院はある。リハビリ専門の中規模病院である。入院手続きを済ませると、担当医はじめ看護師と理学療法士、ヘルパー、薬剤師に栄養士、ソーシャルワーカーまで、父を受け持つスタッフが揃って病室を訪れ、自己紹介してくれる。四人部屋、カーテンで仕切られた病室の環境は前と大差ないが、父を残し別室でスタッフとこれまでの経過、今後の方針、退院までの具体的な治療の進め方について質疑応答を行った後、スタッフの一人が院内をぐるっと一周しながら説明してくれる。どこかのセレブでも入院したのかと疑うほどの待遇である。
しかし肝心の父親がいけなかった。
朝から移動で疲れが溜まっていたところへまたぞろ拘束され、あれこれ検査が続いたせいかすっかりお冠で、薬を呑ませようとすると、
「イヤだよ。何するんだッ」
宥めようとしたのが火に油、すっかりキレた父親は一人の看護師に、
「この女ァ。あっちへ行けえッ」
と大声で罵声を浴びせたため、彼女はおどおどして震えている。ベッドへ横たわるとたちまちグォーッ グォォォーッと鼾を立てる父。
目を覚ますのを待って、ぼくが粉薬を与えると大人しく呑む。中には鎮静剤を入れてある。退出した時にはもう日が暮れかけていた。やれやれ初日から波乱含みか。通用口へ向かって歩いて行くと、正面に等身大よりやや小さい、石膏に彩色を施した修道女の立像が飾ってあった。母国フランスの読み名でテレーズ、通称小さき花のテレーズまたはリジューの聖テレーズと呼ばれた一人のカルメリットに、ぼくは思わず話しかけた。今日から父とここへ来ました。いま二人が置かれているこの状況に、なにか意味でもあるんですか。代わりにいいことでもあるんですか。聖人のあなたならわかりますよね。あなたがたカトリックはよく〝苦しみの秘儀〟って言うけれど、頭の壊れちゃった人にはちんぷんかんぷんでしょ。この始末はどうつけてくださるんですか。奇蹟でごまかさないで下さいよ。テレーズは黙ってぼくに微笑んでいる。
翌日、そろそろ入浴が終わるころあいかなと思って来てみたら、看護師が待ちかねていて、入るのを拒否されたんです、大声で叫ばれてと涙声で訴える。父はぼくに気づいて目を開けると、
「無理やり服を脱がされるは身体をなで回されるは、お前どうなっとるんだここは。何でこんな目に遭わにゃならんのだ」
こうなったのはお前のせいだと言わんばかりの父。
転院三日目になって、ようやく落ち着きが出てきた。ぼくを認めるなりニコッと笑顔で応じる。ひと誑しの父が戻ってきていた。
夕食の時間だ。ベッドから起こして車イスに乗せてもらうと、あとはぼくが引いて食堂へ連れていく。
そこは食堂というより多目的スペースで、四人掛けテーブルを一〇卓ほど並べたガラス張りの明るい吹き抜けのある窓側にテレビ・新聞・雑誌・CDプレーヤー、ビデオデッキ、碁盤やら将棋盤やらが置かれてある。時間になると調理場からワゴン車に乗せられて各患者の食事が運ばれてくる。基本の献立は共通だが、患者の状態に合わせて一人一人カストマイズされ、トレーで配られる。Aさんはトロ味が付いた味噌汁にお粥、Bさんはデザートが果物でなくゼリー、Cさんは肉や野菜も舌ですり潰せるようペースト状になっていて、箸でなくスプーンを用いるといった塩梅である。患者たちは朝昼晩そこへ集まって時間をつぶす。お喋りに花が咲いているのはたいてい女性たちだ。男たちは互いに打ち解けることもなく、むっつりとめいめいに過ごしている。朝は食事前に皆で簡単なリハビリ体操をしたり、晩には唱歌を和したりする。自由参加である。 この日は林古溪作詞、成田為三作曲の「浜辺の歌」。父は集まって歌い出した患者たちの姿をぐるっと眺めわたして、
「あれは◎×△とかいう旅行ツアーだよ。全部で五〇人くらいのな」
いっそ壊れ果てて死んでしまった方が幸せなのか。でも本人は何だかちょっぴり楽しそうだった。
翌日も壊れている。ぼくを見てニコッとするとこちらも嬉しくなるが、
「シズ子は元気か」
「ああ元気だよ」天国でね。
「しかしなぁ、奇妙なものだが、シズ子はいったん死んだ筈なのに、元気というのがどうもなァ」
ほんとうは何もかも承知していて、息子のオレをからかってるんじゃないのか。
「この旅行はオレが企画したんだが、もう明日あたりに終わるんじゃないか」
「家に帰るってこと?」
「ああ。それぞれの家にな。明日にもツアーが終わるんじゃないか」
何言ってるんだ? このときは思った。しかし後々になってみると、このときのことばはなかなか意味深だった。
日に日に悪くなる父。翌日の朝には、
「このツアーには二度と行きたくない。酷いツアーだった。ずっとお腹が痛くてちぎれそうでなァ。なぜこんな目にあわにゃならんのかなァ」
愚痴なのか泣き言なのかわからない。
翌日病室を覗くと、小さなショルダーバッグと下着の替えを持ち、黒いジャージとスウェットパンツを穿いた格好で、ベッドから降りようと膝から下を外に突き出してミズスマシのようにもがいている。
「どうしたの」
「今から帰ろうと思って」
「どこへ」
「家に決まってる」
「家って、今から? 何で」
「つまらない。ここに居たって良いことはない」
「帰ってどうするの。誰がオヤジの面倒見るの。そんな状態で」
「シズ子は怒るかな。オレがこんな風に皆に迷惑をかけていることを」
「怒りゃしないよ。ただ心配してるよ。早く元気になってほしいから」
「それじゃあ、まだ我慢して努力する意味はあるんだな」
「あたりまえでしょ。いまはガマンが大事だよ」
「お前にも苦労かけるなァ。辛くって淋しくってなァ」
向こう気の強い、性根の据わったひとだったのに。
このあとは駄々をこね続ける父。
この三日間、同じスウェットの黒い上下を着たまま鼾をかいている。着替えさせようものなら身をよじらせて暴れる。リハビリを拒絶する。皆で行う毎朝の体操にも毎夕の合唱にも加わろうとしない。困ったのはクスリである。血栓の形成を抑え、脳梗塞や心筋梗塞を予防する抗血小板薬・クロピドグレル硫酸塩と、心臓の過剰な働きを抑制し血管を拡げ、慢性心不全を防止するカルベジロールはとりわけ欠かせない。昔からの持病である糖尿病は、血糖値を測った上でインスリン製剤の皮下注射を要する。そう説明しても「いらん。何をする」「何で呑まなきゃならんのだあ」大声で怒鳴るから手が付けられない。スタッフから愛想をつかされ、本人が返品要求されるのも時間の問題か。
じっさい彼女たちも手を焼いているようにみえる。入院初日から父親から怒鳴られ悪態をつかれてビビッていたある看護師は、翌日から他のフロアへ移ったらしく、二度とふたたび姿を見せることはなかった。いつも不機嫌なせいで、みな腫れ物に触るように接している。本人がイヤだと言うならそっとしておく。
それってプロのすることなんだろうか。扱いにくい患者なんて父だけではないだろう。味方をするわけではないが、父の態度はある意味筋が通っていなくもない。薬効や使用目的を理解した上でクスリの服用を拒否するのは、こんな入院生活もうイヤだ、死んだってかまわないから早く家に帰らせてくれ、どうせ残りは短い、好きなものを食べ好きなように過ごさせてくれと訴えているのだ。〝患者〟となったとたん、その意思も権利も自由も奪い取られてしまう。それでいいのか。家族もそれでいいのか。
この日は昼食時から夜の七時過ぎまで付き添った。付き添うことしかぼくにはできない。父の不満や愚痴の受け皿になるのを厭うわけではない。けれどオレの受け皿には誰がなってくれるんだ。ヘトヘトになって玄関の扉を開け灯りを点すと、目の前でササササッとクロゴキブリが長いヒゲを震わせ出迎えてくれる。お前だけかい。スリッパで思い切り叩きつけると、潰れるときのクシャっという嫌な音がした。まだ動いてやがる。オヤジとオレが死んだら、ここはお前らの天国だな。
十六.
父の生まれ故郷である愛知県日進から、はるばる見舞客があった。
父の末の弟で、ぼくの叔父である忠広さん夫妻と、末妹の詠子さんの三人である。四月の末だった。待ちきれない様子で、数日前から「今日来るんじゃなかったのか」と急かす父。当日も珍しくスマホから家に電話してきて「今日はまだ来ないのか」いま朝の六時だろ。
来るなりニコーッと零れるような笑顔で応える。病室を出、車イスを引きながら皆を多目的スペースまで案内すると、しばし故郷の話に花が咲いた。車イスに乗るのは食事とトイレとリハビリの時だけ、あとはベッドに横たわったまま黙って目を閉じ、渋面を作ってばかりという患者が、二時間も上半身を起こし肘をついて談笑する姿に病院のスタッフは目を丸くした。忠広さんたちが気を遣って、長居したら身体に障るからと席を立つ。すると自ら車イスを押してエレベーターの前まで先導する。三人がエレベーターに乗り込むと、車イスから立ち上って扉が閉まるまで直立不動の姿勢で見送った。そんなことが出来ようとはつゆほども思っていなかったぼくもスタッフも仰天した。忠広さんは齢八十、父と同様、糖尿病を抱える身で遠路も厭わず往復のハンドルを握った。詠子さんは心身とみに衰え、入院して一時は危なかったと聞く。これでもうお互い最後かもしれない。そう察し合っての、父の歓待だったのだろう。目の前の光景にぼくは呆然と佇むしかなかった。
転院して二週間が経った。
父はこれまでにないほど壊れているようにみえた。笹目のじぶんの家のことが憶い出せないらしい。暮らしたおぼえがないという。
「そのササメというのは、庭に狛犬の石像がある家か。お前見たか」
「こま犬って、さあ……灯籠みたいな石なら見かけたかな。狛犬はなぁ」
「狛犬というか……動物の、あるいはもののけの石像といってもいい」
「いやぁ、そんなものは見たことがないなあ、お寺じゃあるまいし。藤枝のオヤジの実家の方じゃないの」
「お前、おかしなことを言うな」
いかにも怪訝そうな様子である。おかしいのはそっちだろ。
「その石像にな、手を合わせたんだ」
「夢にしたって縁起が良さそうだね」
父は黙って笑った。相変わらずバカな奴だ、と苦笑したようにみえた。
いまぼくが住まっている家、つまり鎌倉市笹目町〇番地の父母の家が建つだいぶ以前のことだから、もう三十年以上昔の話である。この庭の西側の一角にお稲荷さんを祀った祠があったという。近隣に代々住まっている旧家の当主と後日話す機会があって、この御仁からぼくが直接聞いた話である。同じ話を父も耳にした記憶があって夢の中で再構成されたのだろうか。父の話はまんざら妄想ではなかったのだ。
*
世の中はゴールデンウィーク真っ只中だった。江ノ電の鎌倉高校前駅周辺は連日賑わっていた。四方から中国語が飛び交い、ここは青島か海南島かと思うほどだ。右手に江ノ島、その向こうには富士山、左手は稲村ヶ崎に挟まれ眼前には湘南の海が広がる絶好のロケーションもさることながら、「スラムダンク」の〝聖地〟であることをぼくは知らなかった。人波を避け、海ぎわの一三四号線を回避してわざわざ七里ガ浜の急斜面に開けた住宅地を自転車でハアハア言いながら登っては降りる。最後の坂を上がると右手に校門、左が病院である。この日はあいにくの雨だったにもかかわらず、駅前は色とりどりの傘であふれていた。
雨が止んだのを機に、外へ海を見に行こうよ、とリハビリのお兄さん・Eくんと一緒に誘ってみた。ご機嫌斜めな父は嫌がってベッドから離れようとしない。この日もイヤだイヤだの一点張りである。キレてEくんに、
「しつこい奴だな、何するんだお前」
これを見てぼくの方が逆ギレする。
「何のためにここにいるんだよ。良くなるためじゃねえのか。良くなって早く家に連れて帰りたいから、オレだって毎日こうして来てんじゃねえか」
そこへ様子を見に来てくれた看護師が起こそうとすると、
「このアマぁ。オレの身体に触るんじゃないッ」
手で払い除けようとする。
「情けねえオヤジだな。見たくもねえ。オレは帰る。二度と来ねえッ」
怒鳴ると、向こうも「どうぞどうぞ」と挑発するように眼をギロリと光らせ、たかが息子ごときが生意気に何を言うかとばかりに睨み返してくる。いやらしいほど同じDNAを感じさせる親と子と、火花が飛び交うのが見えるような睨み合いになった。扱い慣れているのだろう、いま手を払われた佐伯さんという看護師がまあ冷たいお茶でも召し上がってとなだめすかしたら、やっとベッドから起き上がる。
Eくんが「まだ僕、時間ありますから」と言ってくれたので、ぼくも気を取り直して一緒に外へ出た。まだ二十代後半だろうか、背が高くて細身でイケメンで、高校の時はバスケの選手だったという。まさにスラムダンクから抜け出してきたような好青年である。
海へ向かってゆっくりと車イスを押す。広大な敷地を抜けて行くと、切り立つ崖に突き当たる。下は国道一三四号線である。その手前に鎌倉高校前駅が見え、向こうには相模湾の眺望が広がり、遮るものはない。雨上りの海辺には人気はなかった。空の高いところで鳶たちがヒョロロローと会話しながら忙しく飛び交っている。富士山はあいにく雲の中だった。久しく目にしていなかった七里ヶ浜の海原を、父は黙って見つめていた。
「あれが江ノ島か」
足下から遮断機のカンコンという音が響いてくる。
「今の音は江ノ電か」
「すぐそこが鎌倉高校の駅だよ」
「そうか」
部屋へ戻るとトイレに行きたいと言う。さっきの看護師が連れて行ってくれる。すると彼女に向かって、
「ありがとう」
*
五月の終わり、新緑が色濃くなるこの季節の鎌倉は、四季をつうじてもっともうつくしい時期である。家の庭では「太平記」の故事から美女にたとえられてきた数十ものアヤメが誇らしげに紫の香気をただよわせると、それに刺激されたかのように紫陽花があちこちで芽吹きはじめている。ぼくはというと、何を目にしても感情が起こらない。
朝五時に起きる。コーヒーを挽いて淹れる。一杯のブラックコーヒーなしには一日がはじまらない。浦和の社宅から持ってきたノートパソコンを立ち上げ、メールをチェックし、原稿を書く。誰のためでもない。わき上がった考えを書きとめずにおれなくてひたすらキーを叩き続ける。この間、二時間ちょっとがぼくだけの時間だ。朝食は前日に買っておいたコンビニのパンかおにぎりでそそくさと済ませる。ゴミを分別して捨て洗濯機を回し、各部屋に掃除機をかけ床を拭き、晴れていれば二階のバルコニーに布団を干す。庭のサボテンの鉢植えたちに水をやったら次は草むしり……気づけばもう十一時だ。前日に干しておいた父の着替えをリュックに入れ、自転車にまたがり、江ノ電と競争しながら一三四号線を五キロ先の病院まで漕いで行く。父の昼食時に間に合わせなくてはならない。食事の前、血糖値の検査と腹部へのインスリン注射を行うのがぼくの役目だからだ。はいチクッとするよ。父に抵抗されたことは一度もない。黙って手指を預け、腹部を触らせてくれる。かつての父は、毎朝じぶんで欠かさず実行し、数値を手帳へ細かく几帳面な字で書き込んでいた。それを憶えているから協力してくれるのだ。
食後、病室へ戻る前にトイレを介助する。病室に備えつけの洗面台で歯磨きを手伝う。外した入れ歯は使い古しの歯ブラシで洗って薬液に漬けておく。車イスからベッドへ移乗し、目覚めたらリハビリに付き合う。週に一度の入浴は、男性ヘルパーに教わりながら介助する。シャンプーしながら、
「かゆいところはないかな」
「ない」
「湯加減はどう」
「ハイ結構です」
浴槽に入れる時と上げる時、上がって身体を拭いた後、直立姿勢のままオムツをはめる作業は慣れないぼくがやるとたちまち汗が吹き出し、どっちが風呂上りかわからないほどポタポタ床に落ちる。スタッフはそのあいだぼくにああじゃないこうじゃないと指示する。いよいよ迫る在宅介護に向けて、短期間でみっちりノウハウを仕込もうとしているのだ。ぼくはまるで新人実習生扱いだった。毎日正午から夜までそのようにして過ごした。それはぼくに与えられたつかの間の猶予期間(モラトリアム)だった。そして父親と多少なりともコミュニケーションらしい関係が持てたのも、このときまでだった。
(第05回 了)
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*『春の墓標』は23日にアップされます。
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