僕の苦悩にかかわらず世界はなにごともなく過ぎてゆき
といった
百年前のリルケみたいな
大時代的タイトルの詩を書きたくなることがあるんだけど
そんな苦悩なんてたかが知れている
たいていはお金がないとか
世の中に認められないとか
誰かに悪口を言われたとか
そんな程度
病院のベッドに寝て生死の境を彷徨っていれば
世界のことなんて気にならないさ
ちょっとした病気になってもそうだ
『正岡子規論』を書いてた時に首が痛くなってね
寝違えかと思ったんだけどいつまでたっても治らない
しまいには激痛になって眠ることすらできなくなった
「こりゃ大変だ」と思ったのが間の悪いことに土曜日で
ネットで土曜診療の整形外科を探して駆け込んだんだ
センター北のショッピングモール街の
最上階にあるこぎれいなT医院で
レントゲンを見ながら若い医師が「頸椎症です」
カラー印刷された紙を手渡した
「頸椎症でお悩みのみなさんへ」とあって
「重症なら手術が必要ですが軽症なら自然治癒します」という箇所を読み上げると
「あなたは軽症です」
爽やかに笑った
ホッとするよりショックだった
大げさに言うと死を予感させるほど僕を悩ませた痛みは
シオノギ製薬か武田薬品が作ったペラ紙一枚の疾病だった
世界が雪崩れ込んでくるのを感じたよ
首の痛みは医師が処方してくれたロキソニンを
オーバードーズ気味に飲んで治ってしまったけど
それ以来僕と世界の関係は逆転したままだ
思い出すのはいつも過去のことだろ
今はとてつもなく難解だから
チェロ弾きの女の子に恋した友だちがいてさ
有名な交響楽団の奏者じゃなくて
豪華客船のラウンジで退屈そうなお客の前で
毎晩演奏する仕事にありついてた子でね
その子に会いたいから
友人はお金をためて航海ごとに船に乗った
年が近かったからすぐに仲良くなれた
仲良くなると女の子は
恋焦がれている年上の有名音楽家の男について
控室で切なく熱っぽく恋心を喋り続けた
チェロは両脚の間に楽器を挟んで弾くんだけど
船のエンタメマネージャーの指示で
女の子は長いドレスじゃなくいつも短めのスカートで演奏してた
たいていの男性客は女の子の脚にしか興味がないから
「ストッキングが伝線してるんだけど」
気づいた友人がおずおずと言うと
「あらありがと」
そう言って女の子はあっさりストッキングを脱いだ
カバンから新しいストッキングを出してはき始めた
「あなたといると気楽だわ」と笑った
「彼女は残酷だよ」
恋破れた友人は辛そうな顔で言ったけど
僕は無意識にそんなことをする女の子には恋しないな
僕がどう思うのか
どう苦しむのかわかっててそうする女の子なら恋に落ちる
世界には謎が必要だから
だけど結末は同じだろうな
謎はいつか解けて恋は成就しない
だから純な君の恋の方が素敵さ
仕事場のある団地の敷地は1ヘクタールもあって
900戸もカマボコ型の建物が並んでいる
敷地が広いから建物の間隔も広いけど
それでも窓から見知らぬ隣人の生活が垣間見えることがある
斜向かいにある号棟の三階の窓から
朝身体を乗り出して手を振っている女性がいて
初めて見たときは
僕に手を振ってるんじゃないかとドキリとしたんだけど
よく見ると
道路を歩いて学校に行く中学生くらいの男の子に手を振っている
よほど可愛い息子さんなんだろうな
午前中に飲むためのコーヒーを煎れていると
真向かいの四階の窓を初老の女性が毎朝必ず掃除する
今日もそう
内側から二面のガラスを丁寧に拭き
身体を乗り出して外のガラスを一面ずつ
隅々まで拭いてキレイにする
昼間は窓の側に座って
ぼんやりと外を眺めている
昨日の夜遅く
僕は文庫本が詰まった本棚から
サリンジャーの本を引っ張り出して読み返した
古い方の訳の『フラニーとゾーイ』
つまり僕は神様について考えてたんだ
一番やさしく単純な方法で
家の中に座って編み物をしながら
ときおり窓の外に視線を走らせる太ったオバサンが
世界を変えすべてを解決できる何かを持っているんだよね
僕らがそう感じる限りそれは真実かもしれない
シーモアの詩は
あまりじょうずじゃないけど
父親が緊急入院して帰省しなくちゃならなくなったので
読まなきゃならない本をキャリーバッグに詰めていったら
腰を痛めてしまった
右手で引っ張ったのでバランスを崩した左側が痛い
2週間の帰省中に痛みは引いたけど
運動不足が原因なのは知れている
夏の暑さと陽射しは毎年強くなるばかりだから
スマホで調べて日没30分くらい前にウオーキングに出かける
急な坂を登って車通りのほとんどない羽沢の農業保全区域に散歩に行く
車は通らないけど農地なので街灯もない
2キロほどの広大な畑をぐるっと一周すると日が暮れる
日が沈むのと同時に僕のわずかな体力も尽きる
汗まみれになって道ばたに座りこむ
ほんとうに暗い誰一人通らない
それでも何度も誰もいないことを確かめて
アスファルトの道路の真ん中に寝そべってみる
昼間の陽射しの名残でびっくりするほど熱い
ここがどん底だ僕はどん底にいるんだと感じる
子どもの頃 野原で仰向けに寝て青空と雲を眺めた
大人になって道路で大の字になるとすべてが変わる
星が見え雲が見え月が見えても暗い夜に閉ざされている
だけどもっと下があるもっともっと下が
そこでは雪が降っている
暗い夜空から無数の白い雪が降ってくる
父と母と姉が眠る家がある
僕は世界から放逐されている
僕がいなくても世界は何事もなく続いてゆく
世界を見失った僕が最後に見るのは
白い雪に包まれてゆく実家のヴィジョンだということが
はっきりわかる
僕は白い雪に包まれ眠り込むだろう
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