自由詩は現代詩以降の新たな詩のヴィジョンを見出せずに苦しんでいる。その大きな理由の一つは20世紀詩の2大潮流である戦後詩、現代詩の総括が十全に行われなかったことにある。21世紀自由詩の確実な基盤作りのために、池上晴之と鶴山裕司が自由詩という枠にとらわれず、詩表現の大局から一方の極である戦後詩を詩人ごとに詳細に読み解く。
by 金魚屋編集部
横書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
*『対話 日本の詩の原理』は毎月01か03日にアップされます。
■対話への反響と要望■
「『現代詩手帖』と小田久郎氏の功罪について検討が進まれんことを望んでいます。」(T.K.)
「若山牧水がそんなにスゴイ人だとは知りませんでした。何だか詩の未来が見えたような気がして面白かったです。」(H.A.)
「最初から最後までおもしれぇし、俳句界に言及したところは痛快だった。俳人は絶対読んどけ。」髙 鸞石
「とりわけ若山牧水とジャンルの話は、「自由詩」というものを、換言すれば未来の「詩」を考える上でとても刺激的でした。課題は、では自由詩は何をもって評価の基軸とするか (すなわち、今日において美学はありうるのか) ですが、それは次回以降で語られると期待しています。」萩野篤人
「鮎川信夫の詩「橋上の人」は未完の「架橋」であることに気付かされた。「架橋」という営みは、本質的に未完だ。しかしその営為こそが未来へと開かれる。戦後詩は置き去りにされたようにみえるが、その精神性は潰えることはない。橋上の人よ、と自らに呼びかける鮎川の輻輳する声に共鳴。画期的対談。」萩野篤人
「対談2回目もたいへん面白かったです。
詩が何を表現しようとしているのか、
詩人本人もうまく詩言語に昇華できないけれども、
そこに何か意味のある芯を伝えよう、表現しようという意思が
鮎川信夫の詩にはありますよね。
池上君のいうように、戦前の橋の上で景色を見ている自分に
戦後の橋の上の同じ場所からまったく変わってしまった風景を
見ている自分が、戦前の自分に対して「橋上の人よ」と呼びかけているんじゃないかと思います。
戦前の自分は、今の風景の向こう側の空の中に透けて見えてるかもしれないですね。
同じ空間に2つの時間が流れてるんですね、きっと。
または、風景の向こう側にレイヤーのように昔の同じ空間が重なっていると
いいますか。
呼びかけだけではなくて、そこには戦前の自分に対して伝えたい何かが
あって、それは詩全体で言うしかないんだけれども、
やっぱり、今は風景だけでなく、すべてが戦前とはまったく変わってしまったんだという
決別と覚悟のようなもの、詩も今までの伝統や流れから断絶して
まったく違う立脚点に立たないといけないんだ、というようなゴツゴツした感慨の塊
が詩になってるんじゃないかと思います。」林常樹
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■