妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
夜、飲みに行く時は、永子にも一言伝えておく。
「うん、わかった」
別に反対はしない。でも約束は毎回させられる。はい、と突き出す小さな小指に、小指の腹でぽんぽんとタッチしながらの指切りげんまん。
「わすれないでよ」
私のことを、ではない。翌日食べるスイーツのことだ。そう、お土産を買うことで、パパちゃんの夜遊びはどうにか黙認してもらえている。
もちろんメディアで頻繁に紹介される有名店の逸品などではなく、コンビニで何か一品買っていけばよいのだが、意外とこれが噛み応えのあるプレッシャーで、今まで約束を破ってしまったのは一度だけ。その時は結構大変だった。
「じゃあさ、これから美味しいのを買いに行かない? で、永子の好きなのを選ぼうよ。買ってこなかった分だけじゃなくて、ごめんなさいの分もプラスして二個」
ちゃんと謝った後に、なるべく明るい声で提案してみたが、永子は背中を向けて絵本を読み始めた。シンプルな拒絶・抗議のサインに少し焦る。
次に提案したのは、前にトイザらスでずっと見惚れていたぬいぐるみ。かなり自信はあったが、それでも状況は変わらない。最終的に人生初の東京ディズニーランド行きを持ちかけたが、やはり永子の機嫌は直らず背中を向けたまま終始無言。顔を覗き込もうとしても、硬い表情のまま移動されてしまう。結局マキが説得して何とか許してもらえた。
「こういう時は女同士で話す方が早いんだから」
おどけて胸を張る姿に苦笑しながら、あの頑なさはこの母親譲りだなと思った。
もちろん今日も公園で昼飯を一緒に食べながら、夜は飲みに行くと伝えている。
「うん、わかった」
そう言って小指を出した永子に「今日は二軒行くんだけど」と付け加える。ん? と数秒不思議な顔をしていたが、「わかった。じゃあ、もうひとつね?」と確認してから、二度指切りげんまんをした。このちゃっかりしたところも母親譲りで間違いない。
パン屋が休みだったマキに残りの作業を任せて、夕方五時過ぎにはエプロンを外して出支度を始めた。客入りは半分ほど。母親は何か言いたげな様子だったが、小声で「あまり遅くならないのよ」と告げただけ。これもマキへの遠慮なのかもしれない。
「じゃあ、そろそろ行ってくるからね。いつもみたく、いい子にしててな」
一番端っこの席に座り、昨日図書館で借りてきた絵本を広げている永子に声をかけると、「うん。あまりおそくならないのよ」と、真面目な顔で母親とまったく同じことを言う。もしかしたらマキは地獄耳なのかもしれないな、と考えながら俺は店を出た。
元々今日の予定はひとつ、大学時代の同級生である「余り者」の連中と会うだけだったが、時間が遅かったので先に「夜想」へ顔を出そうと考えていた。これで計二軒。
両国から来るようになって以降、マスターは「いいねえ、呑気で」と出迎える。わざわざ電車に乗って飲みに来るなんて、という意味だが特に反論もない。まあ、仰る通りだ。表面上、店は継いでいるが、まだ書類上の「ピース」の経営者は父親のまま。お世話になっている税理士から、正式な継承はもう少し後でいいと言われたらしいが、詳しいことは知らされていないし、積極的に知ろうともしていない。ただ、このタイミングで変更すると色々損なんだろうなあ、と漠然と考えている。本当、呑気だ。
店のドアを開けたが、いつもの「いいねえ、呑気で」は聞こえてこなかった。それもそのはず、カウンターの中にマスターの姿はない。代わりに聞こえてきたのは「あら、いらっしゃい」というかすれ気味の声。マスターの恋人、チハルさんが手を振っている。
「あ、マスターは?」
「うん、何か新宿のデパートに寄ってから来るって」
いいねえ呑気で、とは言わずにビールを頼む。そういう軽口を叩くほど、この人とは親しくない。どちらかというと、ちょっと苦手だ。
「多分、ラーメンのフェスティバルに行ってんじゃないかなあ。この間、熱心にスマホで調べてたから」
そんな先客の一言に「あら、イヤねえ」と彼女は笑い、大瓶の栓を抜いて俺の目の前に置いた。店を手伝うようになったのは半年ほど前からだが、それ以前に経験があることはその所作から予想がつく。
「今日はちょっと早いのね」
「これから人と会うんだけど、まだ時間があったんで」
決して嘘ではないが、どこかしっくりこないのは、マスターがいない落胆を気付かれたくないからだ。
二、三十分で来なければ出よう、と密かに決めると先客が会計を済まして二人きりになってしまった。苦手意識があるから他愛のない会話も続かない。曖昧な微笑みを浮かべながら、スマホを眺めていると「もしよかったら、どう?」と声がかかる。これ、と差し出されたのはトランプのようなカード。
「?」
「あれ、前言わなかったっけ? 私、ちょっと出来るのよ、タロット」
たしかにマスターから聞いたことがある。意外と当たる、と言っていた気もする。占いには興味がないが、時間をつぶすには最適なので「へえ」と身を乗り出した。
「占ってほしいこと、ある?」
たいして考えもせず「今日の運勢」と言うと、「もう残り時間、少ないけどね」と笑いながら占ってくれた。カウンターの上で器用にカードをシャッフルし、綺麗に並べた中から俺に一枚を選ばせる。いくつかの質問に答えた後、カードの説明を受け、待つこと一、二分。
「近い将来、良いことが起こるんだけど、もしかしたら今日これから、そのヒントになるような体験をするかもしれないわね」
雲をつかむような言葉だったが、一応「お、そうなんだ」と満更でもない表情を作った。
結局、ビールの後に薄いチューハイを作ってもらい、滞在時間は四十分ほど。たったそれだけなのに、店を出ると肩の辺りが少し重かった。
「余り者」の連中が四人とも揃うのは半年ぶり。間隔が開いた原因は間違いなくヤジマーにある。
二年前、あいつは品川の本社ビルから奈良の事業所へと飛ばされた。理由は、部下との不適切な関係。即ち不倫。俺たちと同じクラスだった妻のミホコも仕事を持っているので、自動的に単身赴任確定。会社の意向もあり、表向きは「関西エリアのテコ入れの為」となり、ミホコは本当の理由を今も知らないという。
正に首の皮一枚。ギリギリセーフだったな、とからかう俺たちに「いや、考えようによってはラッキーだったかも」とヤジマーはニヤッと笑った。
単身赴任に伴う諸々のバタバタを受けて、ミホコが熱望していた子どもの「お受験」計画は立ち消えとなり、奈良では広くて綺麗な社宅住まいを、独身時代のように満喫しているという。
それ以降、半年に一度は出張で都内に来るので、そのタイミングに合わせて今日のように集まっている。
今回、トダがセッティングしてくれたのは池袋の焼肉屋の個室。店の常連さんから紹介された店で、部屋に通される前に店長らしき人物と挨拶を交わしていた。
「飲み放題、二時間のところ、時間無制限でいいってさ」
そう言われても、永子との約束がある俺としてはあまり喜べない。ちゃんとセーブしながら飲まないとな。
ヤジマーが少し遅れるというので、まずは三人で始めることになった。ジョッキまでキンキンに冷えた生ビールで乾杯してスタート。全員揃うまでは、力を抜いておかないと後がキツくなるが、まあ、このメンツなら大丈夫。他愛ない話を無限に続けられる。
「おい、またリッちゃん連れてきてくれよ。いくつか新しいカクテルも考えたからさ」
トダのバーには去年、山梨から引っ越して来たばかりの彼女を三年ぶりに連れていった。今回は最初に種明かしをしてからノンアルコール・カクテルを作ってくれたが、それでもずいぶん喜んでいた。
「了解。あと、お前もうちの店来いよ。コーヒー飲み放題にできるから」
「いや、チョコレートパフェとかがいいな」
うちの喫茶店からトダのバーは結構近いが、時間帯が違うので普段はなかなか会わない。何ならイノウエと会う方が多いくらいだ。永子より一歳下の女の子がいるので、何かと話題も合う。
父親歴では俺の方が一年先輩なので、色々と尋ねてくるが、あまり期待通りの答えは返せない。知識系だけならまだしも、「こういうこと、永子ちゃんにもあったか?」という問いにさえ詰まることが多く、「おいおい、初めての子なんだから覚えてろよ」と呆れられている。
今もそうだった。
「永子ちゃんさ、どれくらいまで指しゃぶってた?」
「えっと……、しゃぶってたかなあ? あれ、ちょっと待って」
そう告げて必死に記憶の糸をたどろうとしていると、イノウエがまた「初めての子なんだからさあ」と呆れてみせた。
その言葉にいちいちドキッとするのは、もちろん強のことがあるからだ。強の存在を知っていても知らなくても、永子には百パーセントの愛情を注げるが、知っている場合と知らない場合では、百パーセントが示す大きさ、重さ、深さが違うのかもしれない。
テストの結果が悪かった時、「ちゃんと百パーセントの力を出したか」と生徒を問い詰め、「はい」と答えると「お前は百パーセントじゃ足らんのだ。五百パーセント出しきって、ようやく人並みだろう」と切り返した、高校の化学の先生を思い出す。
百パーセント出すだけじゃダメかもしれないんだよな――。
そんなことを考えつつ、高級そうな皿の上に並んだタンを網に載せる。と、遅れてヤジマーがやって来た。ようやく全員集合。乾杯からやり直して、それぞれの近況報告へ。勝手に先頭を切って話し始めたのはヤジマーだった。
「当たり前だけどさ、何を食べても、いつ寝ても、いつ起きても、何しててもいいんだからさ、気楽でいいよ。最高に気楽」
単身赴任生活の自由さを熱弁するその堂々とした態度に、既婚者の俺とイノウエは呑み込まれそうになる。
「でもまあ、子どもとは一緒にいたいんだけどな」
ふとそう呟き、ヤジマーがトーンダウンしなければ危なかった。うっかり羨ましがるところだった。一瞬の沈黙。肉を焼く音だけが個室に響く。そろそろ食べ頃のミノを箸でつまみ上げると、「あ、そうだ」とヤジマーが我に返った声を出す。
「そういえばさ、先週、コケモモを見たかも」
(第23回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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