月子(つきこ)・楡木子(ゆきこ)・好女子(すめこ)・夾子(きょうこ)の医家に生まれ育った四人姉妹に、立て続けに事件が襲いかかる。始まりはあのとき。いや、違う。絡まり合った過去の記憶。あるいは謎の糸口は…。詩人・批評家でもある小原眞紀子の手になる、ノスタルジックでハードボイルドな金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第5弾!
by 小原眞紀子
第十二幕(後編)
「ありふれた薬物って、何よ?」わたしは大声を上げていた。
「ありふれた薬物じゃないわ。ありふれた注意事項、って言ったのよ」
姉は冷淡な、いつもよりいっそう落ち着き払った声で答えた。
「尿酸値を調整する薬だけど、頻繁には使われない。でも痛風の患者がいれば、発注しても不思議じゃない代物よ」
実家の医院の、薬の発注。
電話は母がかけていた。父が指示したものでなくとも、品切れを理由に、母の判断で代替物を取り寄せるぐらいはしていた。
姉はわたしの顔を眺め、そう、というように頷いた。
「別の、もう一つの成分って何なの?」
「水仙の根やなんかに含まれる。そういったものを摂る食文化のある地方では特に要注意って、教科書に書かれてるわ」
「そんなもの、わたしたちは、」
言いかけて口をつぐんだ。
実家の裏の花壇。
母が丹精していた庭に水仙があった。
「あの時分はまだ、わたしも近くに住んでいたし」
何の反証にもならなくとも、言わずにはいられなかった。
「夾子だって宅浪中だったのよ」
「あんたも好女子も、実家に入り浸ってたわけじゃないでしょ? 夾子は晴れた日には、単語帳を持って散歩に出ていた」
「お父さんだって医者よ。自分が飲んでる降圧剤との見分けぐらいつくわよ」
「夫婦ならごく少量ずつ、繰り返しやるのも簡単ね」
本を読み上げるような口調で、姉はいったい、何の話をしているつもりなのか。
「もともと使用が認められている薬だから、強い毒性を示すものじゃない。でも、毎日の酒肴に混ぜられたら、心停止の危険を慢性化させる可能性はある」
「可能性って。それは可能性じゃないの?」
「そう。この実験の第一人者は、やった本人というわけよ」
「お母さんに言ったのね。そのこと」
声が掠れていた。
何が何だか、よくわからない。
「そうせずにいられる?」月子は再び激しく言い募りはじめた。
「そしたら、あいつは自ら消えたのよ。認めたようなものじゃないの。お父さんは生命保険に入っていたし、預貯金だってあったでしょう? なのに実家の土地建物以外、ほとんど何も残ってなかった」
だけど、というわたしの反駁を姉は無視した。
「金次第で付いてくる男なんていくらでもいるわ。証券会社の営業マンと限らず」
「でも、お母さんはいなくなる前日、わたしに電話を」
「月子を説得して誤解を解いてくれ、とでも頼むつもりだったんでしょ。でも結局、逃げるしかないと悟った」
あのトパーズの指輪を置いて。
自分には持つ資格がないから。そう言いたかったのか、と嫌な汗が滲んできた。
「夾子たちのために、わたしが指一本動かさなかったって、あんたは文句を言いたいんだろうけど」
月子は自嘲交じりの笑みを浮かべていた。
「なんて因果な、って呆然としていたというのが、本当のところよ。夾子の彼が、よりによって薬殺犯を疑われるなんて」
人殺しの家族。
もし今、あの封書のことを話せば、そこに書かれていた通りだとでも、姉は言い出しかねなかった。
「まあ、病院ってのは、薬という名の毒物に満ちてるしね」月子はぼやくように呟く。
「周りで何か起きるとすれば、それしかないか」
だが仮に。
あくまで仮に、その推測が当たっているなら、あの封書は誰か、そんな事情を知る人物からもたらされたのではないか。とすれば、そいつはきっと、今の母の居所をも知っている。
「結局、あの女を迎えたのは、お父さん自身だから」
何もかも思い切るように、月子は首を振った。
「もう、あいつがどこでのうのうと暮らしていようと考えるまい、って。わたしにも生活がある。お父さんを検死した広司さんを、今さら巻き込めないし」
「だったら、どうしてわたしに聞かせたの?」
それは心からの呪詛に近かった。
思えば姉は、ずっと係累を遠ざけてきた。覚悟があって黙っていたなら、これからだってそうできたろう。
「さあ。どうしてかしら」
姉は悲しげな目で見た。
「あんただけが本当の妹だから、かな。それとたぶん、遠くに行ってしまうから。いつ発つの?」
八日後、とわたしは答えた。
気を取り直したように、姉は頷いた。
「太平洋のど真ん中か。当分は帰らないのね。どんなことも、そこまでは追いかけてこない。羨ましいわ」
「今の話、飛行機から海に捨てる」
どうぞ、と月子は笑ってみせた。
「信じないで。できれば忘れてちょうだい。来年、郁がホノルルへ遊びに行きたいんですって。よろしくね」
よろしくね。
どうして誰も彼も、子供だの、疑念だのをわたしに押しつけてくるのだろう。その挙げ句に、忘れろ、海にでも捨てろと言う。
キッチンに戻った。小鍋で煮えたぎるステーキソースにバターとにんにくを加えた。
もうひとつ、ぜひとも忘れるべきことがある。
今夜の晩餐はそのためだった。
月子が来た日の翌晩、わたしは妹夫婦を招待する電話をした。
妹夫婦。
そう、あの少年はもういないのだ。稽古の舞台が跳ねた後、リビングで起きたことはすでに幻だ。
奥の部屋、階段脇と、階下以外は板を打ち付けた。ダイニングの床には、荷造り済みのキャリーバッグが置かれている。
このキッチンで料理することも、少なくとも数年間はあるまい。
玄関のインターホンが鳴った。
食前酒をリビングに用意するのはやめ、二人を追い立てるように二階のダイニングに上げた。
確かに、そこには少年はいなかった。
急誂えらしきスーツ姿で、顎には弱々しい無精髭の影がちらほらしている。心なしか背が高く見えたが、成長したというより、くたびれて伸び切ったかのようだ。留置場で生気をむしり取られ、どうやら人の夫らしくなったともいえた。
むしり取られた生気とは、戸籍のことか、と考えかけて頭を振る。彼は今、夾子に守られてやっと生きているのだ。
「姉さん、調子よさそうね。張り切りすぎてやしないかって心配だったけど。デザートシャンパンは買ってきたわよ」
髪をアップにし、銀のラインの入ったマリンブルーのスーツで、夾子は母親めいた貫禄すら示していた。
「病み上がりだもんでね。たいした料理はできなかったけど」
わたしは場を取り繕う言葉より肉の厚さを、過去を忘れる努力よりワインの酩酊を信じるタイプだ。さんざん振ったフレンチドレッシングで下和えしたクレソンとルッコラのサラダをダイニングに運び、夾子の好きなサウザンアイランドも並べると、後は肉を焼くだけだった。近所で評判の店のピーチタルト、ワインも張り込んでケンダルジャクソンを買ってある。
「忠くんの釈放と、姉さんの歓送のために」
ケンダルジャクソンのグラスを、最初に夾子が掲げた。
「それと、わたしの快気祝いもね」
彼はわたしと目を合わせようとしなかった。無表情で黙ったまま、グラスを持ち上げる。
ケンダルジャクソンは美味かった。文字通り、胃の腑に染みわたるようで、すべてを忘れさせるに足りる。
そういえばね、とわたしは口に出していた。
「さっき、買い物のついでに聖清会病院に行ったのよ」
「あらま、」
取り分けたサラダにたっぷりとサウザンアイランドをかける手を、妹は止めた。
「気がつかなかった。どこにいたの?」
「老人介護施設の方。昨日、三和子さんから電話があって」
回復されたそうで、という挨拶だったが、自分たちの治療の成果だ、と釘を刺したかったらしい。
「で、芝居の指導に一度、来てほしいって」
「呆れた。もともと誰のアイディアよ」と、夾子は眉をひそめた。
「いいさ、別に」と、彼は低く呟く。
「だって三和子先生ったら、全然、忠くんの様子を訊きもしないのよ」
「そんなものよ、どうせ」と、わたしは言った。
彼の前で避けるべき話題だったろうか。
存続するかぎり、組織は傷つかない。むしろマスコミに露出した夾子の方が当分は身動きできないのだ。もし今後、リストラの対象にでもなれば、他のスタッフの誰よりも困ることになる。
「だったら病院も、警察なんかと変わらないじゃない」と、夾子は言う。
まさしくその通りだ。
警察も、殺人罪でなく未遂容疑での逮捕だったのが幸いし、結局は面子を保った。殺意に関する見解の相違から不起訴、というわけだ。
微罪の窃盗での別件逮捕については責められるどころか、温情により起訴猶予を与えた、ことになっている。
「ほら、こっちも病院から裸足で逃げ出したって負い目があるからね。菓子折持って行きました、とさ」
早くもワインがまわった振りをし、わたしは蓮っ葉な物言いをした。
わたしが釈放された彼を怖がって、病院から逃げたなどと、まさか夾子は彼に告げてはいないだろう、と頭をよぎる。
「忠くんはね、当面、介護の職を探したらって考えているの」
夾子はステーキをカットしながら、生真面目な口調で言っていた。
「手の足りないナーシングホームや在宅介護だったら、つてが見つかるかもしれないでしょ?」
彼もまた、夾子と同様のアメリカンスタイルで、最初に肉を細かく切り分けていた。実に落ち着かない食べ方だ。わたしだったら、切るごとに口へ運ぶヨーロピアンに躾けてやったのに。
「看護師資格も、きっと重宝されると思うし。ほとぼりが冷めれば、どこかの病院に復帰できるわよね?」
ねえ、と夾子は振り返るが、彼はろくに相槌も打たない。
肉を切る手が骨っぽい。それだけが目についた。
あの、生命力に満ちた愛撫をした手が。
考えるべきでないことを忘れようと、汚らしく不抜けたような顎のあたりを眺めた。目鼻立ちが整っているだけに、尾羽打ち枯らしたホストみたいではないか。
「それで姉さん。老人たちに演技指導をしてきたってわけ?」
急に蒸し返された話に、わたしは瞬きをした。
「ほんの形ばかりね。バルコニーの呂実夫と朱理絵をやってみてもらった。ようは常態に戻ってます、というアピールよ。ま、お互いに」
「三和子先生から月子姉さんへのメッセージ、ってことね?」
腹立ち紛れのように、妹は肉を頬ばった。
「そういうこと。愚劣な見栄の張り合いに、巻き込まれたくないわね」
酔っぱらいそのものの姿態で、わたしは毒舌を奮ってみせる。
そう。常態に戻れば、わたしもこんなものだ。
かつての何事も記憶するに値しないという、これは彼へのアピールだった。
「さてと。そんな娑婆のことはもう、あんたたちに任せるわ。この家の管理もよろしくね」
「何よ。どうしたらいいの?」
たいしたことないって、とわたしは掌を振った。「戻る予定がなくなれば、売却するし」
「ああ、天国の島に行ったきりか」妹は息を吐く。
「まあね。月子姉さんも羨ましいって。あれで意外と煩悩の塊だから」
へえ、と夾子はフォークをいじっている。
「お父さんのこと。今頃になって、お母さんのせいだとか」
「なんでもお母さんのせいなんだな」
かちりと音を立て、妹は皿の縁にフォークを置いた。「月子姉さんは。あんなに頭がいいのに、そればっかりは」
「そ、理っ解できなーい」
わたしはぐるっと目玉を回す。いまや本当に、ただの酔っぱらいだ。
「と言っても、お母さんも妻だからね。お父さんの健康管理に責任があるっちゃ、ある」と、わたしは言う。
が、さすがに舌はそこで止まった。この話は太平洋に捨てるのだ。妹の耳の中ではなく。
「お母さんだって、出ていきたくもなるよ」夾子はまだ、ぶつぶつ言っている。
「総領娘に、そんなことばっかり言われてさ」
「気に病みなさんな」わたしは調子よく笑い飛ばした。
「ただね、お父さんが亡くなったとき、どんなだったかと思って。おっ母さんの名誉のため、ってわけじゃないけど」
「どんな、って?」
酔ったのか疲れたのか、夾子は赤い目を擦っていた。
「何を食べてたか。飲んでたのはビールとウイスキーよね。何時に寝て、起きてたか、とか。わたしもちょうど、メモだの寸劇だの、やたらと書きまくってた時期でね。お父さんが死んだ頃のものを、郁ちゃんに探してもらったんだけど」
「郁ちゃんに。どうして?」
「マスコミ研究会の地方局訪問とかで、今、熊本市内で合宿してるのよ。月子姉さんから宿泊先を聞いて、古い原稿の束を送ってちょうだいって、電話したんだけど」
熊本へ美希を連れ戻した際に、実家の押入の前にプラスチックの箱を出しておいたはずだ。
いくら面倒くさがりの郁でも、あの状態なら一目でわかろう。
「でもね、ないって言うのよ。昔の書き散らしなんて、と思うけど、失くなったとなると気になってね」
(第26回 第十二幕 後編 了)
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