女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
チャンスではなくチョイス、つまり自らの選択こそが運命を決める――。そんな古い哲学者の言葉を引用するまでもなく、人々は日々、様々な決断を迫られている。
十九歳、いや、九月生まれでまだ十八歳のヨシオは、辞めるはずだった専門学校の先生、即ちおチビちゃんから夏休み中の芝居に誘われ、特に迷うこともなくその場で応じた。時間にすれば一分未満。実はこの時、彼は運命の舵を大きく切っていたけれど、それに気付く人は一人もいなかった。もちろん自分自身ですら気付いていない。それほど何気ない選択だった。
文字通り遊び半分、Tシャツ、短パン、ビーチサンダルというリラックスした格好と心持ちで参加したヨシオだったが、今回与えられた役割は主役。入学してから今に至るまで、ずっと退屈な基礎練習ばかりやらされてきた彼にとって、それは余りにも刺激的な体験だった。初日に行った公民館での顔合わせと本読みから、リラックス・モードは返上し、課せられた役割にとりあえず食らいついていった。
「これが芝居なんだよなあ」
稽古の後、汗を拭いながらそう呟く表情は、決して調子に乗っているものではなく、ようやく欲しいものに手が届いた歓びに満ち溢れていた。
正直なところ、おチビちゃんに勝算があったわけではない。何といってもヨシオは「要注意人物」。無気力でボサボサでダボダボだ。唯一、うまくいきそうだと考えていたのは役柄との共通点。彼にも、彼が演じる宇宙人にも「情熱」がない。ただ、その予測は良い意味で裏切られる。
確かに夏休み前のヨシオは、情熱だけでなく演劇に関する技術も知識も持ち合わせてはいなかったけれど、ようやく「役者」になれた歓びと、実際に「役者」をやる楽しさが、驚くほどのスピードで彼を成長させていった。
実際、舞台に立っていない時でも、ヨシオは独特の熱気に包まれていたし、そういうものは自然と周りに伝播し、最後は巻き込んでいく。気付けばおチビちゃんも、予想していた以上のエネルギーを使って公演に取り組んでいた。「演出だったら出来ると思うよ」という浅利先生の言葉と期待に、少しは応えられたかなという自負心もある。
結果、公演が終わった後も熱が冷めることはなく、おチビちゃんはヨシオを含むスタッフ・出演者、計六名で一週間ほど、芝居の舞台である中国・上海へ行くことになった。目的はひとつ。実際に本場の空気に触れることで、更に良い続編を作る為だ。そして、この旅の道中、思いがけずヨシオの知られざる一面を垣間見ることになる。
行った時期がちょうど国慶節(建国記念日)と重なっていたため、上海はお祭りムードに包まれていた。ただ、日本とは祝い方が少々、ではなくかなり異なる。至る所で花火や爆竹が鳴り響き、それはもう凄まじい騒ぎだ。
夜になると電車が止まってしまい、タクシーでホテルに帰ろうとするが一台も見当たらない。聞けば人出の多さと喧噪の激しさで、そもそも車が入って来られないらしい。狂乱は夜が深くなっても鎮まることはなく、見渡す限り人々で溢れている。まずい、このままでは本当に帰れなくなっちゃう!
どうすればいいものかと、現地に住んでいる知り合いに連絡を取ると、実は一時間に一本程度の割合で電車が出るという。それに乗ればホテルの近くまで行けることも分かった。時計を確認するとあまり時間が無い。
「いいわね、絶対電車に乗るからね!」
よく通るおチビちゃんの声に、周りの人々が何事かと振り返る。そんなこと、気にしていられないとばかりに六人全員で駅を目指して走り出し、どうにか数分後に無事到着。よかった、と一息つきたいけれど何となく様子がおかしい。どうしたのかしら、と停まっている電車に近付くと、なんと乗客数が多すぎてドアが閉まらないという。
おチビちゃんたちも数回トライして、ようやくギュウギュウ詰めの車内に潜り込んだ。とにかく息苦しいが、ここは我慢。すると今度はなかなか発車しない。プラットホームの人々の喧噪も段々と激しさを増しているようだ。このまま動かないのかも、と心が折れかけたタイミングでゆっくりとドアが閉まり、一度大きく揺れた後、超満員の電車は静かに滑り出した。
ホテルにほど近い駅に到着し、ヘトヘトでホームに降りる。深呼吸をして息を整えてから目視で確認。大丈夫、ちゃんと六人全員いる。
「ヨシオ、頑張ったねえ」
声は聞こえているはずなのに、彼はうつむき体育座りのまま動かない。いや、よく見ると両方の肩が微かに震えている。やっぱりそうか、とおチビちゃんは密かに納得する。彼がちゃんとついてきているか、何度か確認する度、泣いているように見えたのは勘違いではなかったらしい。
普段の振る舞いからは想像もつかない姿だが、実はなかなか繊細でナイーヴなのかもしれない。そんな部分はタクシーの車内でも見受けられた。
中国のタクシーはたしかに安いけれど、中には少々遠回りをしてみたり、もっと大胆に色々な場所を連れ回すような車両もある。調子のいい運転手が怪しげな路地に入っていく度、ヨシオはおチビちゃんの隣で震えて縮こまっていた。微かに何か聞こえるので、さりげなく耳を寄せてみる。
「こんな怖いところには、もういられないぞ」
彼は確かにそう呟いていた。また別の日には「二度と中国には来ないからな」とゲッソリした顔で決別宣言までしてみせた。だけど不思議なことに日本へ帰った途端、「ああ、また中国行きてえ」と何食わぬ顔で口にするのだった。
「え? だってヨシオ、中国二度と行かないって言ってなかったっけ?」
「そうだったっけ? 忘れちゃったよ」
こういう子どもっぽい部分も、夏休み前までは見ることがなかった。
結果的に彼を誘ったことは成功だったと思う。無気力な生徒に熱が帯びていく瞬間は美しく、そこに関われたことは教師冥利に尽きる。ただ近い将来、技術や知識の不足は必ず改善しなければならない。その効果的な手段のひとつは、彼が嫌がる退屈な基礎練習だ。不安がないといえば嘘になる。あの子、また面倒くさがって元に戻っちゃわないかしら?
それでもおチビちゃんは、ひとつの可能性をヨシオに見出していた。彼はわりかし器用だったのだ。元々バスケ推薦での進学を目指していただけに体力はあるし、意外にもラップを歌うとサマになっている。つまりリズム感もいい。
「ねえねえ、俺もなかなかやるでしょ?」
相変わらず軽口は叩くものの、顔付きが以前とは違う。明らかに彼は変わり始めている。そして、その変化は夏休み明けの学校で、更に大きく花開くこととなる。
おチビちゃんが最初に気付いた変化は、授業を受ける時の態度だった。
夏休み前のヨシオは姿勢も目つきも悪いし、不規則な発言も多かった。それがどうだろう。今の彼は姿勢こそあまり変わらないものの、学ぼう、吸収しようという気持ちが溢れている。それだけではない。夏休み前の自分のように、授業を妨害するような生徒がいると、率先して注意しているではないか。
「おい、うるせえぞ。やる気ないなら出てけよ」
まるでマンガだ。ここまで自分のことを棚に上げる姿は、かえって清々しい。周りの生徒たちも明らかに戸惑っている様子。中には新しい悪ふざけだと勘違いする子たちもいたが、半月もすると「あのヨシオが変わった」という事実を、誰もが受け入れるようになった。
夏休み前も授業態度こそ悪かったけれど、別に周囲から孤立している訳ではなく、どちらかといえば友達は多いタイプ。ガタイが大きく、ボサボサでダボダボだが、どこか人懐っこいところがあり、その辺りが今回のイメージチェンジを浸透させたポイントかもしれない。
そして気付けば、まるでおチビちゃんの助手兼ボディーガードさながらに、色々とサポートをしてくれるようになっていた。極端すぎるきらいはあるが、素直といえば素直。演劇に関する質問はもちろん、些細な悩みまで持ちかけてくる。人って変われば変わるものねえ、とからかっても「そう? 俺は全然変わんないよ?」と笑っている。
ただ、彼の変化を快く思わない生徒も当然いて、たまに不穏な空気が教室に漂う。すぐ手が出るタイプも一定数いるので、気をつけるようにと注意をしても、面倒くさそうに「大丈夫、大丈夫」と聞き流すばかり。そんなある日、とうとう恐れていた事態が起きてしまう。
その男子生徒Aは、いわゆる典型的な不良タイプ。どうやらおチビちゃんのことが気に食わないようで、今までも授業態度は良くなかった。ただ夏休み前はヨシオの方が目立っていたので、そこまで印象は悪くない。ところが最近は、そのヨシオから注意されるようになった。口で言われるだけならまだしも、授業中でもお構いなしに胸ぐらを掴まれて怒鳴りつけられる。もちろん面白くない。だから余計に態度が悪くなる。正に悪循環。
その日も一度、Aはヨシオに「うるせえぞ」と怒鳴られていた。特に反論することもなく無視していたが、数分後、おチビちゃんが板書の為、生徒たちに背中を向けた瞬間、派手な物音が鳴り響いた。続いて女子生徒の悲鳴が窓を震わせる。
「え……?」
振り返ると、ヨシオがAに殴りかかり、周りの生徒が慌てて止めているところ。一瞬、頭の中が真っ白になったおチビちゃんだったが、すぐに「やめなさい!」と声を張り、揉み合う二人に近付いた。正直なところ怖いけれど、そんなこと言ってはいられない。とにかく止めなくては。
「ちょっと、誰でもいいから呼んできて!」
その言葉に女子生徒が数人、教室を飛び出した。おおお、と獣のような叫び声をあげながら、立ち上がったのはヨシオ。鼻から血が大量に流れている。その後ろから、なお飛び掛かろうとするAを、周りの生徒たちが羽交締めにした。
「どうした! おい!」
補助員の先生が飛び込んできて、ようやく二人は動きを止める。これは何事ですか? と尋ねられたおチビちゃんは、思わず「すみません」と謝ってしまった。
「先生、すごい血だよ?」
そんな女子生徒の言葉に頷きながら、密かに息を整える。血は苦手だ。
「ちょっとヨシオ、大丈夫?」
一歩踏み出したおチビちゃんが見たものは、床にポタポタと垂れているヨシオの赤黒い鼻血。反射的に胃の辺りが痛んだ。本人は両手で顔を押さえて、ずっとうずくまっている。後から分かったことだが、Aは硬い棒状のもので応戦したらしく、ヨシオは鼻を骨折していた。
思いがけず負傷してしまったが、そんなことで彼の変化は止められない。ある時期からヨシオは、他の生徒たちに声をかけ、放課後、公演に向けて自主的に練習をするようになっていた。かなりの人数が参加しているのは、熱心かつ強引な勧誘の成果と、やはり彼の人懐っこいキャラクターの為せる業だろう。
おチビちゃんも口こそ出さないが、その自主練習の様子を見ていることがある。ヨシオが他の生徒に何を教えるのか。そこに興味があった。
というのも、彼が変わり始めてからまだ数ヶ月。夏休み前までの態度を考えると、他人に教えるだけの何かがヨシオの中にあるとは思えない。もし自分の力を過信して、未熟な技術や見当違いの理論を他の生徒に押し付けているのであれば、当然指導者として阻止する責任がある――。そこまで考えていたおチビちゃんだったが、幸いにもそれは取り越し苦労だった。
例えば彼は、踊りが上手な生徒に対して、踊りが苦手な生徒を教えるように指示をする。また、歌が上手な生徒には、歌が苦手な生徒を教えさせる。どうやらヨシオは、人の得手不得手を把握するのが得意なようだ。
また、何度か見ているうちにおチビちゃんは気付いた。ヨシオは人を「待つ」ということができる。
人が理解するまで、到達するまで、克服するまで、ひたすら「待つ」。講師・教師として十年経った今だからこそ、そのことが如何に難しいか、おチビちゃんには痛いほど分かる。付け加えれば、結果的に「待つ」ことは、落ちこぼれる子を作らない。ヨシオは自分自身の経験から、その境地を嗅ぎ分けたのだろうか?
いずれにしても彼のリーダーシップは、とても有意義に活用されていたし、同時に彼自身も日々着実にレベルアップしていた。仲間たちに囲まれ、あんなに嫌がっていた基礎練習をこなしていくその姿に、おチビちゃんはあの日あの時、購買部で声をかけたことの重みを感じていた。
(第46回 了)
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