妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
ナポリタン六〇〇円
エビピラフ六五〇円
ドライカレー六五〇円
オムライス七〇〇円
各サラダ付
「本当に昔ながらのメニューだよね。ザ・喫茶店みたいな」
マキが画面を覗き込みながら言う。学生の時とか喫茶店使ったりしたか? と訊くと「テスト前とかに行ったような気がするんだけど……」と自信なさそうに答えた。
「それ、ファミレスやマックとかと勘違いしてるんじゃない?」
「ああ、そう言われるとそうかも」
父親から頼まれていたのはデザインの変更だけ。そう告げるとマキがいくつかの編集機能を教えてくれた。ただ俺は使いこなす自信がないし、一応風邪をひいている身でもあるので適当に作ってほしいと頼んだ。久しぶりにパソコンを使ったせいか、それとも風邪のせいなのか妙に疲れている。本当ならばハイネケンでも飲みたいところだが、さすがにこの体調ではそうもいかない。仕方なく水を口に含む。普通はこういう時にコーヒーを飲むのかもしれない。
マキは器用に色々なデザインを試している。うまいもんだな、と呟くと「これくらい普通よ」と返された。俺は社会人になってから必要に迫られいやいや使っていたので、パソコンに対してあまり良い印象を持ってない。半日がかりで作ったデータを間違って消去してしまい、苛立ちながら徹夜で作り直したことや、新人の女子社員に見当外れの質問をして笑われたことなど苦い経験ばかりだ。
手際よく作業が進行していく画面を見ながら、店の売り上げについて考える。具体的な数字の話までしたことはないが、あの両親が生活をしていけるだけの利益が出ていることは間違いない。ただ、俺が継ぐならば今よりも売り上げが増えないとまずい。
ブレンド四〇〇円
アメリカン四〇〇円
スペシャル五〇〇円
アイス五〇〇円
メニューの並びを見ながら少し不安になってきた。あの店の売り上げだけで、俺、マキ、お腹の子、父親、母親の総勢五人はちゃんと暮らしていけるんだろうか。
「そういえばジュースとかないんだね」作業を続けながらマキが言う。
「あった方がいいかな?」
「いや、分かんないけど学生さんも多いんでしょ」
そうだ、コーヒーが苦手な客もこれからは取り込んでいかなきゃいけないんだ。もっと足りないものはないか言ってくれ、と頼むと意外とたくさん出てきた。コーラ、ココア、アイスココア、メロンソーダ、トマトジュース。食事だとサンドイッチ各種、ホットドッグ、ホットドッグ、ゆで玉子、サラダ類――。
俺はマキの意見をメモしながら、自分があの店を切り盛りしている姿を想像した。人がたくさん来て、繁盛して、もう一店舗作る必要が出てきて、と妄想を加速させていくのは面白かった。「ねえ、字体はこれでいいかな?」というマキの声でふと我に返る。マキが指し示す先には、メニューの右隅に載せている「ピース」という店名。もしかしたらこの名前も変えるかもしれないな、と思いながら「それでオーケー、ありがとう」と礼を言った。
次の日、熱はある程度下がり、喉の調子も悪くなかったので昼から外に出た。マキも「途中で具合が悪くなったら困るじゃないの」とついてくる。空は曇っていて、あまり暑くないので助かった。目的地は本屋。大きな店で、喫茶店経営の為の本を何冊か買いたかった。ちゃんと稼いで、ちゃんと妻子を養っていかなければ。
これだけお腹が大きくなったマキと出かけるのは初めてで、そのことは俺を緊張させた。駅の階段を上ろうとすると「あっちにエレベーターがあるんだから」とマキが微笑む。俺の気の回らなさを庇うような笑顔だ。しょうがないわよ、気付かなくても。そんな感じの微笑み。エレベーターには俺たちともう一人、腰の曲がった老婆が乗っていた。杖をつきながら、ゆっくりとエレベーターを降りるその後ろ姿を見ながら、俺は知らず識らず難しい顔をしていたらしく、マキから「なんて顔してんのよ」と指摘された。
「え?」
「怖い顔して」
気のせいだろ、とごまかしたが、しばらく老婆の後ろ姿が頭から離れなかった。うまくは言えないが他人事じゃないという感覚だ。みんな年齢を重ねる。みんないつかは階段を上るのがきつくなり、みんないつかは杖をつく。そう思うと怖くなった。この恐怖を遠のけるためにも、あの喫茶店をいい店にしなくてはいけない。
探していた内容に該当する本は予想以上に多く、その中から選ぶのはなかなか困難な作業だった。ただ、芽生えたての使命感に駆り立てられていた俺は、相当時間をかけて吟味し、どうにか三冊を選び出すところまで漕ぎ着けた。ずっと前屈みになっていたせいで腰が痛い。マキは「ちょっと見てくるね」と言い残し、他のフロアに行ったままだ。六階建ての大型書店でうまく見つけ出す自信はないのでスマホを鳴らしてみる。ところが電波の状態が悪いらしく「圏外」表示になってしまう。
階段の踊り場まで移動すると、どうにかつながりそうだった。早速マキにかけようとした瞬間に着信。タイミングよくマキ、ではなくサクラちゃんから。結局店で初めて会った夜以来一度も会ってないが、定期的に連絡だけはくれる。なかなか一発で出られることは少なく、俺からかけ直すことが多い。頻度が高いのは「夜想」の帰り道。何を話すというわけではないが、何となく話が盛り上がってしまい、回り道をしながら話し続けたこともある。
「もしもし、サクラでえす、あれ? 珍しいですね、この時間で出るなんて」
「あれ? そうか?」意外と声が響いてしまい、慌てて口元を手で覆う。
「そうですよお、大体留守電じゃないですかあ」
「ごめんごめん」正直なところ、もう顔は忘れているが、それはお互い様だろう。
「あのお、明日か明後日って時間ありますかあ?」
甘ったるい声のサクラちゃんは、お店で「浴衣まつり」をやるから是非来てほしいと言った。ストレートな営業電話だったが、俺は自分でも意外なほどあっさり「いいよ」と返事をした。いつも電話で喋るだけではさすがに申し訳ない。向こうも商売だ。
「その代わりさ、店の前に食事でも付き合ってくれないかな」
「あ、全然大丈夫ですよ、嬉しいですう」
大まかな場所と時間を決めて電話を切る。そのままマキにかけると、二つ上の階にいた。エスカレーターを使うより階段を使った方が早いだろう。行ってみると大きめの児童書コーナーがあり、マキはその片隅で「〇歳児用」の絵本を熱心に読んでいた。
翌朝目を覚ますと雨だった。音から察するに、そんなに強くはないようだ。夜のうちに降り始めたらしい。雨の音と共に聞こえるのはクラシック音楽。最近よく眠れないというマキが数日前から流すようになった。それも妊娠が原因なのかと尋ねたかったが、違う意味に取られそうでまだ訊けずにいる。
結局昨日は午前二時くらいまで買ってきた本を読んでいた。調理師免許の資格など、具体的に検討することの多さに辟易しながら、気付くと眠ってしまっていた。起きたら朝だ。体調は悪くない。体温も平熱に戻っていた。
当然のことながら経営者の息子だからというだけで、何の苦労も手続きもなく店を継げるわけではない。分かってはいたがやはり面倒くさい。今まで計画性と無縁だったので、かなり高い壁に感じてしまう。そう、これが俺の悪いところだ。しかし今度ばかりはこの面倒くささを乗り越えなければいけない。
あの店をより良くしていかなきゃならないんだ。まずはメニューをもっと充実させよう。マキのいう通り、ジュースやサラダなんかも出してみよう。昼にはランチタイムのメニューを作るのもいいかもしれない。日替わりランチがあれば、常連さんも飽きないだろう。となると近いうちに調理師免許を取らなきゃいけなくなる。ということは、食器も新しく揃える必要がある。いや、それだけじゃない。どうせなら大々的な「新装開店」の方がインパクトはあるだろう。まあ、初めはどうしても費用がかかってしまう。その点は現経営者にどうにかしてもらおう。後々のことを考えれば安い先行投資のはずだ――。
そんな具合にアイデアだけならどんどん出てくる。インターネットも積極的に利用しよう。どの本にもそう書いてあった。あとは「地域のコミュニティーを活用しましょう」だっけな。夜はバータイムにしてお酒を出すのもいいんじゃないか。「夜想」のマスターやトダにも御教授願いたい。もし本当にそうなったらデュークにもちゃんと報告しなければ。
俺は自分がシェーカーを振っている姿を想像した。バーテンをやるなんて言ったらマキに笑われるかな。多分お腹の子に「おかちなオトウサンでちゅねえ」と話しかけたりするんだろう。
もう八月だ。そろそろ子どもが産まれてくる。隣で寝ているマキの横顔は、もう母親の横顔なのだろう。数ヶ月前に俺は、自分が父親の顔にはならないんじゃないかと不安になった。ただ、今は違う。まだまだ父親の顔ではないかもしれないが、確実に何かが変わってきている。まずは今度実家へ行ったら、近いうちに店を継ぐつもりがあると伝えよう。話はそれからだ。窓から挿し込む光に横顔を照らされ、マキが眩しそうに目を開けた。
「なんだ、もう起きてたの」
起きたばかりの低くだるそうな声。額には軽く汗が滲んでいる。梅雨の時期から言われていたように、今年の夏の暑さは相当厳しい。猛暑だ。エアコンやビールの売り上げが伸びたとか、老人が熱中症で死んだとか、農家の人たちが困っているとか、新聞やテレビで毎日のように取り上げている。
たしかに去年より確実に暑い。本来は俺もマキも暑がりだ。冷房の設定温度が十八度から二十度くらい、と言うと大抵みんな驚く。そんな調子だから毎年夏は電気代が倍近くまで跳ね上がってしまう。しかしさすがに今年はそうはいかない。マキの身体に悪いからと部屋を冷やしすぎないように気を付けている。
「ごめん、エアコンの温度、少し下げてくれない?」
半分寝ぼけたようなマキの声に俺は立ち上がった。設定は二十四度だが、風量が弱いせいか確かに暑い。これはこれでお腹の子どもに悪いかもしれない。気付けばクラシック音楽は聞き覚えのある曲に変わっていた。リモコンがなかなか見つからず「あれ?」と言いながら探していると、ベットの上から「多分、鏡台のところじゃないかな」と声がかかる。今、冷たいハイネケンを飲んだら美味しいだろう。マキの言うとおり鏡台に置いてあったリモコンを取りながら、店を継いだらハイネケンを出してみようかなと考えた。
母親に「あんた、具合は大丈夫なの?」と言われるまで、風邪をひいていたことや、今週中は顔を出さないと一昨日の電話で伝えたことは忘れていた。昼の三時過ぎ、客はスーツ姿の中年男性が一人だけだ。
こういう夏休みの時期は学生さんたちが来なくなる。売り上げはずいぶん落ちるはずだ。その対策も考えていかなければ。そんな気持ちとは裏腹に「ピース」の店内は穏やかだ。有線のクラシックがよく似合っている。そして俺はその雰囲気に呑まれかけていた。
近々本格的に店を継ごうという意志がある。ただそう伝えればいいだけなのに、なかなか言い出すタイミングが見つからない。作ってきたメニューを父親に渡して窓際の席に座った後、どうしたらいいのかが分からない。
いつものようにマキの具合を色々尋ねてくる母親。カウンターの中でメニューに目を通している父親。色のくすんだ椅子やテーブル。大きな観葉植物。古めかしく、どこか安っぽいシャンデリア風の照明器具。この店の何もかもが、俺の話し出すタイミングを邪魔している。
無駄に煙草を吸い、母親に適当な相槌を打ち、同じ新聞の記事に何度も目を走らせているうち時間はすぐに過ぎた。そろそろ出ないとサクラちゃんとの約束の時間に遅れてしまう。その可能性は低いだろうけど、一応下着は新しいものにした。備えあれば、だ。
あのさ、とようやく父親に話しかけたのは店を出る寸前だった。ん? と顔を上げた父親の目を見ながら、出来るだけ軽く何事もないような感じで切り出す。
「あのさ、そろそろ本格的にっていうか、ちゃんとさ、この店の仕事をやってこうかと思ってるんだけど」
「お、そうか」
それ以上、会話が続かない。まさか「お、そうか」の一言で済まされるとは思わなかった。そんな息子の動揺が分かったのだろう、父親は新聞を読みながら「まあ、次来た時からちょっとずつ教えていくか」と言った。俺は「ありがとう」と間抜けな声で礼を言い、母親に「じゃ」と手を上げ店を出るしかなかった。
外はまだまだ暑く、汗が噴き出てくる。とにかく意志だけは伝えたが、何の手応えもないので微かに不安だ。少なくとも今は考え過ぎない方がいい。とりあえずサクラちゃんと待ち合わせた池袋へ急ごう。
(第15回 了)
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