女優、そして劇団主宰でもある大畑ゆかり。劇団四季の研究生からスタートした彼女の青春は、とても濃密で尚且つスピーディー。浅利慶太、越路吹雪、夏目雅子らとの交流が人生に輪郭と彩りを与えていく。
やがて舞台からテレビへと活躍の場を移す彼女の七転び、否、八起きを辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑が Write Up。今を喘ぐ若者は勿論、昭和→ 平成→ 令和 を生き抜く「元」若者にも捧げる青春譚。
by 文学金魚編集部
予想通り、次の目的地はゲイバーだった。いつもの、というほど来たことはないが、おチビちゃんも知っている店。さっきからどことなく不穏なトシちゃん。できれば彼が見える席に座れないかな、と考えていたが、そんな企みは店に入った途端、一瞬で吹っ飛んでしまった。
「おお、おお、遅いよ、遅い。何時間待たせんだよ」
この声は、と一気に内側から緊張する。少しでも目立たないようにと背中を丸め、俯き加減でそーっと居場所を探す。座るのはカウンター背後のソファー席。テーブルを中心にぐるりと車座だから、対角線上だとすぐに見つかりそうだ。これ、並びになった方がよさそうだわ……。
「じゃあここで」
「え、こっち座ったら?」
「そんな端っこでどうすんの」
「もう、とりあえず一回座りましょうよ」
そんな席決めのどさくさに紛れ、ベストな位置を見つけようとしたが、こういう時にうまくいかないのがこの世の常。
「おお、チビ子、いたのか」
はい、と思わず声が出る。
「ほら、その辺り、適当に座って」
もう一度「はい」と答えて腰を下ろした。
「おいおい、お前たちも落ち着かないから、いい加減に座っちゃえよ」
右手にグラスを持ちながら、左手でみんなへ座るよう促しているのは、『野々村病院物語』でもご一緒させていただいた津川雅彦さん。歌舞伎役者の父と、女優の母、兄は名優・長門裕之さん、という芸能一家に生まれ、子役デビューを果たしているベテラン。妻は御存知、朝丘雪路さん。現在四十二歳だが、その濃密な存在感のせいでもう少し上に見える。
「ここの前はどの店に行ってたんだ?」
ああ、この話の流れだときっと私に話が飛んでくる――。そういう予感だけ当たるのも、またこの世の常。
「何だ、チビ子。いい店知ってるんだって? こりゃ隅に置けないじゃないか」
チビ子、と呼び始めたのは津川さん。『野々村病院物語』の時だ。今や他の人たちにも定着してしまい、役名で呼ばれない時は大抵「チビ子ちゃん」。こんな感じで、津川さんは周りを思い切り巻き込んでいくタイプ。とてもフットワークが軽い。今だって、おチビちゃんと言葉を交わしていたかと思いきや、すっと席を立ち堺正章さんと何やら話している。
撮影現場でのとてもマイペースな振る舞いは、長年のキャリアによるものだと予想していたが、こうしてスタジオ以外でもリラックスしている姿を見ると、案外元々のキャラクターかもしれないとも思う。
この店に入ってからの様子から分かるように、おチビちゃん、ちょっと津川さんが苦手だった。
言葉が強くてストレート、良く言えば「率直」、見方を変えれば「ずけずけ」。そういう人はあまり身近にいなかった。当然現場でもよくお声がかかる。
「おい、チビ子。お前はねえ……」
あのよく通る声で呼ばれ、「はい」と振り返ると、もうすぐそこに立っている感じ。本当にフットワークが軽い。そこからポンポンと繰り出されるアドバイスは直接的で刺激が強め。やかましい、なんて言ったら怒られるかしら?
「お前さんの芝居はさ、そういうところがやっぱり四季なんだよなあ」
「何だ、今のところ、もう少し軽く、自然にできないか? できない? そうか?」
なかなか手厳しく、そしてギラリと鋭いことを事も無げに口にするから恐ろしい。つい何日か前もリハーサル中にこんなことがあった。
おチビちゃん演じるスズ子が、山岡久乃さん演じる野沢澄江――若い人たちに対して口うるさい豆腐屋の店主について愚痴るシーン。ただ文句を言うだけではなく、山岡さんの真似をしなければいけなかったが、実はモノマネについては内心自信があった。ただ仕事仲間の前で、しかもカメラを向けられてとなると少々勝手が違う。なかなかうまくいかない。そのうちADさんの言い方がきつくなってくる。
「それだと、ちょっと違うんじゃない?」
こういう時は言われれば言われるほど、うまくいかなくなっていく。何度か繰り返すうち、また言葉が飛んでくる。
「このシーン、あまり準備してないんだろ?」
さすがにカチンときたおチビちゃんだったが、その耳に聞こえてきたのはまさかの音色。スタンバイしていた津川さんの高いびきだった。これには一同大爆笑……となるわけはなく、現場は何とも言えない雰囲気に包まれた。
どうしよう、と絶望的な気持ちになりかけたが、人間追い込まれてからが勝負。迷いを捨て思い切り山岡さんを真似て、どうにかその場は収まった。申し訳ありませんでした、と謝るのは高いびきをかいた方ではなく、かかれた方のおチビちゃん。津川さんは軽く手を挙げ去って行った――。
かと思えば、休憩中に思い出したように雲をつかむようなアドバイスをくれたりもする。
「チビ子、お前は樹木希林みたいにならないとな」
さすがに「はい」と即答はできなかった。
「分かるよな、樹木希林」
「はい」
「ああいう風じゃないとな」
はい、と答えて数秒、おチビちゃんの顔をじっと見つめていた津川さんはウンと小さく頷いて、またどこかへ行ってしまった。正直なところ、言葉の真意は受け止められなかったが、今まで自分の周りにいなかったタイプであることは再確認できた。
実は以前、津川さんの話は浅利先生から聞いたことがある。かなり古い付き合いらしく、お中元だったかお歳暮だったか、何やら悪戯めいた品物が届いた時に「本当にあいつはこういうのが好きだからなあ」と嬉しそうに話していた。聞けば年齢は先生の方が七歳上だという。まさかその時は、こうして一緒に仕事をするなんて、そして色々とアドバイスを頂戴するなんて思ってもみなかった。不思議な縁だ。
何となく思うのは、自分は「言いやすいタイプ」なんだろうな、ということ。年齢、キャリアにかかわらず、たくさんの人が津川さんの洗礼を受けているが、一番回数が多いのはきっと私。だから今日も絶妙なタイミングで「なあチビ子」とお声がかかる。その度に「はい」とお返事。元々お酒は飲めないけれど、もし飲めたとしてもこれでは酔えないだろうなと思う。そして気付けば宴もたけなわ。堺さんの「よし、そろそろ次に行ってみようか」という声が聞こえている。
「チビ子、もう行くらしいぞ」
津川さんの声に「はい」と答え、いざ支度を始めたおチビちゃんは見た。トシちゃんが席を立ち、その後をマネージャーがついていく。きっとトイレだろう。珍しいことではない。『野々村』で一緒だった川崎麻世さんの時もそうだったが、ジャニーズ事務所のマネージャーはとても仕事熱心。つまり監視の目が厳しい。結局トシちゃんも逃げられなかったみたいね――。そう思った瞬間だった。スタッフ数人がマネージャーを呼び止める。
「あれ、全然飲んでないんじゃない?」
「あ、はい。まだ仕事中みたいなものですから」
「いやあ、大変だなあ。一杯くらい飲んでもいいんじゃないの? ほら、コップ持って」
「ああ、お気持ちだけで。まだ仕事ですから。はい、ありがとうございます」
「まあまあ、一杯だけいいじゃない」
一見、酔っぱらって絡んでいるみたいだけど、そうではないはずだ。次の店へ行く、という堺さんの言葉をみんなちゃんと聞いている。
「チビ子ちゃん、行くよ」
誰の声かは分からないが呼ばれたので立ち上がり、店の入口へと向かう。トシちゃんのマネージャーは、まだビールを勧められていた。見た感じは二十代前半から半ば、多分同世代の彼は必死に断り続けている。
「すいません、勘弁してください。本当、飲むわけにはいかないんで……」
近くにいた別のスタッフさんに「彼、大丈夫ですかね?」と尋ねようとしたおチビちゃん。その脇を九十度近くに腰を曲げたトシちゃんが、顔を隠しながらすり抜けて店の外へ出る。何事だろうと慌てて後を追うと、みんな声を出さず手招きでキャンピングカーへ誘導していた。そういうことかと気付き慌てて続く。短距離ながら深夜の脱走劇。乗り込んだ車内では笑顔のトシちゃんが、「ありがとうございます!」とお礼を言っていた。どうやらマネージャーを撒くために、みんな協力をしていたらしい。
「よし、行こう!」
堺さんの号令で車が動き出す。行き先はきっとディスコだ。後ろの席では「今日はみんな朝まで帰しませんよ」とトシちゃんが笑っている。
案の定、行きつけらしいディスコの近くで車は止まった。店への道中、張り切って先頭を歩くのはもちろんトシちゃんだが、他の顔ぶれもお酒が入ってご機嫌。それは特別な眺めではなく、夜の六本木の路上には同じようなグループがたくさん歩いている。みんな帰るのではなく、次の店を目指しているんじゃないかしら?
聞いた話だと、この街には相当な数のディスコがあるらしい。おチビちゃんはわざとゆっくり歩き、一番後ろの位置に移った。思えば遠くへ来たもんだ。去年、そんなタイトルのテレビドラマがあったけれど、そろそろ終電が終わる六本木の街にいると、同じ心持ちだと気付かされる。生まれ育った神奈川はそこまで遠くないけれど、実際の距離以上のものを越えてここまでやって来た。四季を飛び出してもう一年経ったのよね……。
思いがけずセンチメンタルになったおチビちゃんだったが、ふと目の前に堺さんの背中を見つけ歩幅を狭めた。隣を歩くスタッフへの言葉が漏れ聞こえてくる。
「あのマネージャーの連絡先、知ってるかな?」
「トシちゃんの、ですか?」
「そうそう。分かる?」
「事務所も家も分かりますよ」
「ちょっと教えてくれる?」
「ええ、いいですけど、何かありました?」
「いや、今夜は俺が預かってるから大丈夫だって言ってやんないと可哀相だろ?」
「いいんですか、大丈夫なんて言っちゃって。ファンの子たちに見つかったら大変ですよ?」
「分かってるって。だからディスコ、貸し切りにしといたんだよ」
おチビちゃんは密かに納得した。やはり座長になる人は全体のことを考えている。安堵と嬉しさが入り混じった気持ちで歩幅を戻し、堺さんたちを追い抜いた。
「おーい、迷子にならないようにな」
そんな声に振り返り、夜の六本木で「大丈夫でーす」と大きな声を出してみた。
その約半日後、おチビちゃんの姿はいつもの緑山スタジオにあった。お酒を飲まないので二日酔いにはなりようもないが、とにかく眠い。昨日はあの後、本当に朝までディスコにいて、トシちゃんは閉店ギリギリまで思う存分踊り続けていた。タフだなあ、と感心する。いや、トシちゃんだけではない。他の共演者もスタッフも、当然だけどみんな平気な顔で働いている。
「おはよう、大丈夫?」
声をかけてくれたのは山田辰夫さん。『野々村』でも一緒だった彼とは、役柄のうえで恋愛の縁がある。
『野々村』の川原早苗は、山田さん演じる病院の事務員・古田から想いを寄せられていた。その関係性が発展することはなかったが、今回はカップル役、第一回から同棲中だ。しかもただの恋人同士ではなく、若くてぶっ飛んだキャラクター。たとえば隣室の不倫カップルの動向を盗み聞きし、津川さん演じるその男をゆすろうとするような……。
劇中、二人のシーンに求められるのはコメディー的な面白みなので、正直なところ難しい。「泣かせることは誰でもできるが、笑わせるには才能が必要」という、喜劇王チャップリンの言葉のとおりだと思う。だから山田さんとはよく撮影前に、演技のプランについて話し合っていた。その為に二人で食事へ行ったこともある。互いに劇団出身、そして四季の研究生時代の同期が共通の知り合いだったこともあり、打ち解けるのに時間はかからなかった。
台本を真ん中に置き、より良いシーンにする為、様々なアイデアを出し合う。無論台詞をいじることはなく、動き方についてああでもない、こうでもないと考える時間はとても刺激的で、実際に本番でうまくいった時の達成感は忘れられない。
頭の中のどこかにきっとある「芝居脳」。それをフルに使う快感を、おチビちゃんは思い出していた。
(第40回 了)
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