世界は変わった! 紙に印刷された文字の小説を読む時代から、VRでリアルに小説世界を体験できるようになったのだ。恋愛も冒険も、純文学的苦悩も目の前にリアルな動画として再現され、読者(視聴者)はそれを我がことのように体験できる! しかしいつの世の中でも悪いヤツが、秩序を乱す輩がいるもので・・・。
希代のストーリーテラーであり〝物語思想家〟でもある遠藤徹による、極めてリアルな近未来小説!
by 遠藤徹
十一、『三四郎』第一章 リビドー全開!三四郎(下編)
e:仙人果
そうこうするうちに、後の広田先生であるところの髭の男は、この豊橋駅で、窓から首を出して水蜜桃を買う。髭の男に勧められて、三四郎も桃を二つ食べる。甘いにおいが鼻腔をくすぐる。毛羽立っていながら、いかにもやわらかい桃の感触も伝わってくる。当然、読者=体験者たるわれわれには、匂いや感触だけではなく、舌触り、さらには味までが感受できる。文字の世界のことでありながら、しっかり食体験として実感できるのである。もっとも腹はいっさい膨れないのではあるけれど。
思わず俺は、物品購入モードを立ち上げて桃を注文しそうになった。そういう衝動を促すこともVRの重要な収入源なのだ。いや、いかんいかん。いまは仕事だと俺が自分を諌めた時、ポチッとボタンを押す音が聞こえた。高満寺の奴が、最高級桃である「白鳳」を購入したところだった。
ちなみに、「薀蓄」によれば、水蜜桃と呼ばれる甘い桃が出回るようになったのは、明治時代からのことらしい。それまでの在来種の桃は、小ぶりな上に果肉が硬く、薬っぽい味がしたため、食用というよりは観賞用の植物だったらしい。
明治の初めにまだ清国と呼ばれていた現在の中国から輸入された上海水蜜桃というのが、今日の甘くて白い桃の起源になったのではといわれているようだ。つまり、髭の男が買い求めたのは、中国由来の桃であり、まさに『西遊記』に出てくる蟠桃同様、仙人の国から来たものだったことになる。
ちなみに、暴れん坊だった孫悟空は西王母の蟠桃園の管理という閑職につかされるが、そこの不老不死の桃をたらふく食らって不老長寿になってしまう。そのため、いくら罰を受けても死ななくなってしまったというエピソードは何度思い出しても楽しい。
「髭の男は、『桃は果実のうちで一番仙人めいている。なんだか馬鹿みたような味がする』というよね。桃を食う仙人っていうのは、この人物そのものを表しているわけだよね」
「実際桃を食べながらこの男は、いろんな知識を披歴するわよね。子規の話をし、縛られた豚の鼻先が好物に向かって延びるという話をし、レオナルド・ダ・ヴィンチが桃の幹に砒石を注射したところ、その実を食って死んだ人がいるという話をするんだから。それは『知の力』の開示であるはずなんだけど、逆に三四郎は『ゆうべの女のこと』を考えさせられて、辟易してしまい、さらには不愉快な気持ちにまでなってしまうのよね。つまり、この男の散漫な話は知識でしかないっていうこと。仙人のように浮き世離れした知識人の無力を披瀝しているだけだってことよね」
浜松で二人は弁当を食い、われわれもそれぞれにイメージした弁当を食った。俺は当然うなぎめしだ。何せ浜松だからね。記憶のなかのうなぎめしの味を総動員して堪能した。高満寺がどんな弁当を食ったのかはわからないし、尋ねる気もしなかった。
「薀蓄」によれば、浜松の自笑亭という駅弁屋さんが、「三四郎御辨當」というのを再現販売しているらしい。総経木折の二段重ねで、一段目に細鰻、蒲鉾、河魚佃煮、蓮、椎茸などに加えて、今風に玉子焼きや人参、がんも、たくあんを配し、二段目は御飯というものだということだ。とはいえ、浜松が鰻の名所となり、駅弁にも鰻が入るようになるのは、大正時代からということだから、三四郎が食べた弁当には、おそらく鰻は入っていなかったものと推測されたりするのであった。
f:「ほろびるね」
ヴァーチャル弁当をいただいた後、三四郎との同化モードで物語体験している俺は、三四郎や髭の男といっしょに、窓から四、五人の西洋人を見た。そのうちの一組の夫婦を俺は往年の名優夫婦、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーの姿で堪能した(実際には、この二人の結婚生活は長続きしなかったのだったが)。三四郎に『こういう派手なきれいな西洋人は珍しいばかりではない。すこぶる上等に見える』といわしめるご婦人なのだから、それくらいの格でイメージするのが順当だと思われた。
「ここには『本物の西洋』を前にした『似非の西洋』の劣等感が露骨よね」
高満寺が指摘した。
「そうだな、さらにいえば、この西洋人の女は『上下とも真っ白な着物で、たいへん美しい』って描写されているよね。肌も着物も真っ白なイメージで、そこに美しいという形容詞が当てられている。とすれば、肌が黒く、黒い詰め襟の制服を着ているはずの三四郎は、その逆だということにもなる。この辺の対比も押さえておく必要があるだろうね。黒と白の対立は西洋文化において非常に大きい要素だから」
髭の男も『「どうも西洋人は美しいですね」』といったり、『「お互いは哀れだなあ」』といったりする。さらに、『「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね」』という。三四郎が驚くのはこの点である。なぜなら、帝国主義がさっきの爺さんの場合のように国民の内面を支配し、統制している時代、見えない大政翼賛の力が民心をすでに支配し始めている時代に、この男はそれと真逆のことを口にするからだ。ここが西洋の学問を修めてきた結果、彼我の差を身にしみて知っている広田ならではの台詞だということになる。どんなに「欧化」して、西洋の一員を装ってみても、所詮付け焼き刃にすぎないということを、広田は体験として知っているということだ。
「まだ中途半端な知識人で、帝国主義による内面支配もきちん受けている三四郎はだから『日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする』と内心で吐露し、『「しかしこれから日本もだんだん発展するでしょう」と弁護』するのよね。ここには、三四郎が爺さんと同じく内面まで帝国主義のプロパガンダに冒されていることが明らかだと思うわ。
でも、それに対して髭の男はすました顔で『「ほろびるね」』と答えてみせるでしょ。三四郎はこの返答にびっくりするわよね。もし熊本で、こんなことを口にしたら殴られたり、国賊扱いされるから。九州のようなマチスモの空気が濃厚な地では、帝国主義のプロパガンダは受け入れられやすかったんだと思うわ。実際、『三四郎は頭のなかのどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した』とあるもの。
あまりの意外さに、愚弄されているのではないかと思って黙ってしまった三四郎に男は、『「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・』と一度言葉を切ってから、『「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」』と教えるのよね。内面の自由、思想の自由を教えてくれているわけよね」
「これが学問することのほんとうの意味だっていうことだよね。生身の女という現実には無力かもしれないけど、帝国主義あるいは軍国主義という現状を相対化できるのはやはり学問の力なのだということを髭の男は三四郎に教えているわけだ。『知は力なり』ということが真実である部分もあるのだということに三四郎の目を開かせるわけよね。『この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った』とある。だから、三四郎に初めて学問の力、知の力の洗礼を与えたのは、この男だってことになる。帝国主義のイデオロギーは、そこに感染して呑み込まれてしまったものには当たり前の空気となってしまう。学問の力でこれを相対化できるものだけが、イデオロギーの外に出てこれを認識し、批判しうる。そんな教えを三四郎は初めてこの男を通してさずかったというわけだ」
そんな展開をへた後、汽車は東京に着く。読者=体験者たる俺には、作品にはない、車掌が「終点、東京」と呼ばわる声まで聞こえた。
男は名も明かさぬまま三四郎と別れる。ここに男が「偉大なる暗闇」と呼ばれる由縁があるともいえる。この男は知の巨人であるが、自分にこだわりがない。三四郎の未来図の『著作をやる』以降には全く興味がないことが、ここでも明らかである。人を見る目のない三四郎は、それをそのまま受け取って、これくらいの男は至る所にいると信じて姓名を尋ねようともしないで別れることになる。
「かくして、九州出身の色黒の青年三四郎の東京生活が始まるわけね」
「そうだ。どうだろう、ここまでで何か怪しい部分はみつからなかったか?」
「まだわからないわね。殺人につながるような動機を見つけるにはまだぜんぜん不十分だと思うわ」
確かにそうだ。三四郎が生身の女(=現実)に対しては臆病なむっつりスケベであること、髭の男の学問もまた生身の女には無力だが、時代を包む帝国主義のイデオロギー(=観念)を相対化する力は持っていることなどがわかっただけなのだから。なにしろ、ここまででは、まだ被害者の姿すら見えていない。もう少し読み=体験し進める必要がありそうだ。
(第13回 了)
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* 『虚構探偵―『三四郎』殺人事件―』は毎月15日に更新されます。
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