ゴシックについての特集号である。ゴシック小説とは何なのか。雰囲気的には古城、中世、旧家、恐怖、運命、吸血鬼とか執事、メイド。これらがキーワードなのは確かだが、ではゴシック小説とは、という定義は今ひとつ、わからない。
で、ミステリマガジンでの特集なのだが、謎解きというよりスリラーというイメージが強い。発祥は同じイギリスでも、透明な推理とは対照的に、濃い雰囲気で読ませてゆくものだ。重々しい道具立てに押し潰されるような恐怖感が支配的であれば、まずはゴシック小説である。
ゴシック小説の恐怖感とは、だが本質的にはどこからくるのか。吸血鬼はともかく、古城や旧家が怖いというのはどういうことだろう。日本のミステリにも、横溝正史など旧家を舞台としたスリラーに近いものはある。旧家ならではのものとは、「因縁」だろう。「因縁」によって縛られ、抑圧された状況があらかじめ与えられている。
しかしながら舶来もののゴシック小説には、因縁に加えて「身分制度」という重しがまた、一段と効いている。イギリスの身分制度が生む抑圧というのは、その下で渦巻くエネルギーを膨大なものにし、その噴出からたとえばロックンロールなど、様々なカルチャーが発生している。それと比較すれば、日本の封建制度における身分など、単に社会的な便宜上のものに過ぎないように映る。
執事やメイドといった日本では馴染みのない存在が、ゴシック小説の独特な恐怖感を彩るのにうってつけなのは、この激しい抑圧の象徴として、だろう。日本で言えば、番頭さんとか飯炊きの女中といったところのはずだが、この雰囲気の差はいったい、というぐらいある。
番頭と言えば、大店の切り盛りを任せられ、事実上の支配人=マネージャーだ。執事もまた一家の切り盛りを任せられ、多くのことを采配しているに違いないが、あくまでそれを表に見せない。「家」という、どんな大きな旧家であっても住む人のくつろぐべき場所で、一人ネクタイを締め、背筋を伸ばして「抑圧」された姿でいる。
飯炊きの女中もまた、日本ではおしゃべりな小母さんと相場が決まっている。お仕着せを着せられ、人格を剥ぎ取られたメイドは、これもまた「抑圧」された性的欲望の噴出の対象として相応しい。
日本のアキバでのメイドカフェとは、このような「抑圧」を楽しむ一種の性的プレイの場に違いあるまい。では、執事から「おかえりなさいませ、お嬢さま」と言われたいという欲望とは、どんなものなのか。
日本における「執事」のイメージは、しばらく前にベストセラーになったラノベ調ミステリであったように、たとえば「ひどく嫌味で愛すべき」といった人間性が抑圧もされずに滲出している。執事の格好とは、そのキャラを立たせる小道具であり、彼は本質的には番頭さんである。日本では執事もメイドも、抑圧そのものとして生き、一生の最後に復讐を企てるといったクラシックなゴシックの物語には耐えられそうにない。
水野翼
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■